第20話 選んだ力
廃工場の二階。
窓ガラスの割れた事務所では、黒牙の幹部たちが地図を囲んでいた。
テーブルの上には食料の在庫表。
ガソリンの残量。
仲間の負傷者。
そして、街の地図。
赤い印は日に日に増えている。
「総長。」
若い構成員が口を開いた。
「変な噂を聞きました。」
「噂?」
「北側を縄張りにしてたチームの奴なんですが……。」
男は少し言い淀む。
「魔犬に噛まれたらしいんです。」
蓮司は黙って続きを促した。
「死んだと思われてたんですけど、生きて戻ってきて。」
「その後、車を一人でひっくり返したらしいです。」
「……は?」
「本人も力加減が分からなくなってるとか。」
別の構成員も頷く。
「俺も聞きました。」
「あと、化け物の肉を食ったら強くなるって話も。」
工場内が静まり返る。
そんな馬鹿な話があるわけがない。
誰もそう思っていた。
だが、この五日間で常識は何度も覆されてきた。
◇
蓮司は工場の奥へ歩いていく。
そこには巨大な黒い肉塊が横たわっていた。
熊の化け物の前腕。
三日前。
仲間十人以上を失いながら、重機を使ってようやく切り落とした戦利品だった。
あの日のことを思い出す。
目の前で潰される仲間。
逃げ惑う声。
自分では誰一人守れなかった。
「……力が足りなかった。」
その一言だけが胸に残っている。
もう二度と、あんな思いはしたくない。
そのためなら。
人間でなくなってもいい。
◇
「総長、本当にやるんですか?」
幹部の一人が止める。
「何が起こるか分からないんですよ!」
「だから俺がやる。」
蓮司は静かに答えた。
「もし死ぬなら俺一人で済む。」
「でも……!」
「お前らには手を出させねぇ。」
誰も反論できなかった。
蓮司は鉈で肉を切り分ける。
分厚い筋肉を断ち切るたび、鉄臭い血が床へ滴る。
炭火の上へ肉を置く。
ジュウ……。
脂が弾ける。
妙に食欲を刺激する香りだった。
蓮司は苦笑する。
「化け物なのに、美味そうだな。」
そう呟くと、小さく切り分けた肉を口へ運んだ。
硬い。
だが噛むほどに濃厚な旨味が広がる。
「……。」
何も起きない。
そう思った次の瞬間。
ドクン。
心臓が大きく脈打った。
「ぐっ……!」
全身を激痛が駆け巡る。
骨が軋み、筋肉が裂けるような痛み。
膝をつく蓮司。
仲間が駆け寄ろうとする。
「来るな!」
怒鳴った声は、獣の唸りのように低かった。
◇
その時。
誰にも聞こえない声が、蓮司の頭の中へ直接響く。
⸻
《魔素適合を開始します》
適合率……18%
適合成功。
⸻
「何だ……!」
頭が割れそうに痛い。
視界が赤く染まる。
⸻
《スキルを獲得しました》
【身体能力向上・大】
⸻
全身へ力が満ちていく。
筋肉が熱を帯びる。
呼吸が軽い。
視界も、聴覚も、今までとは比べ物にならないほど鮮明だった。
しかし。
アナウンスは終わらない。
⸻
《精神系異常を確認》
【欲望増強】を付与しました。
⸻
胸の奥から、得体の知れない衝動が込み上げる。
もっと欲しい。
もっと力が欲しい。
もっと喰いたい。
その衝動を必死に押さえ込む。
「ぐぁぁぁっ!」
蓮司は床を拳で殴った。
コンクリートがひび割れる。
仲間たちが息を呑んだ。
まだ終わらない。
⸻
《精神汚染を確認》
現在侵食率 3%
⸻
「侵食……?」
意味が分からない。
すると最後に、冷たい声が静かに告げた。
⸻
《警告》
精神汚染は能力使用に伴い進行します。
現在の精神状態は正常です。
⸻
声はそこで途切れた。
工場には静寂だけが残る。
蓮司はゆっくりと立ち上がる。
近くに落ちていた鉄パイプを握る。
軽く力を入れただけで、分厚い鉄が飴のように曲がった。
「総長……。」
誰も言葉を失う。
力を手に入れた。
だが蓮司だけは気付いていなかった。
心の奥底で芽生えた小さな「もっと」という欲望が、もう二度と消えることはないということに。
その頃――。
藤堂家では朝倉恒一が高熱にうなされながらも、人としての理性を守ろうと必死に耐えていた。
同じ魔素に触れながら、選んだ道は違う。
二人の運命は、この日を境に静かに分かれ始めていた。




