第19話 黒牙
「クソッ!」
鉄パイプが勢いよく壁へ叩きつけられる。
ガァン!!
廃工場の中へ金属音が響いた。
胸の奥に溜まった苛立ちが、どうしても収まらない。何もできない自分への怒りが、腕を通して鉄パイプにぶつけられていた。
「総長!」
「落ち着いてください!」
若い男が慌てて駆け寄る。
しかし、その男は振り返りもしない。
身長は百八十センチを超え、鍛え上げられた身体。
右腕には黒い龍の刺青。
黒牙総長――神崎 蓮司。
この街では知らない者はいない暴走族のリーダーだった。
――落ち着けるわけがねぇだろ。
頭では分かっている。怒鳴ったところで状況は変わらない。それでも、何もできない現実が、喉元まで込み上げてくる。
◇
「今日も駄目でした。」
仲間の一人が地図を広げる。
地図には赤い印がいくつも付けられていた。
「国道十六号。」
「工業地帯。」
「川沿い。」
「全部あの化け物がいます。」
蓮司は舌打ちした。
――逃げ場がねぇ。
「あの熊か。」
「はい。」
「今日も一台、トラックが潰されました。」
「自衛隊も近付けません。」
蓮司は黙って煙草を取り出す。
しかし火が点かない。
ライターのガスは昨日で切れていた。
「……チッ。」
煙草を握り潰し、そのまま床へ投げ捨てる。
――こんなもんで気を紛らわせるしかねぇ自分が、情けねぇ。
◇
五日前。
世界が変わった。
最初は誰も信じなかった。
通信障害。
停電。
ネットもテレビも繋がらない。
それでも、
『数日もすれば元に戻る。』
そう思っていた。
だが違った。
街には異様に巨大な熊のような化け物が現れ、人が死に始めた。
警察は消え、自衛隊も来ない。
ならば。
守るしかない。
仲間を。
自分たちの居場所を。
――誰も助けに来ねぇなら、俺がやるしかねぇ。
そう思った瞬間から、逃げるという選択肢は消えていた。
◇
最初の三日間。
蓮司はコンビニやドラッグストアを回り、食料を集めた。
略奪ではない。
店員がいない店の商品を運び出しただけだ。
老人や子どもにも分け与えた。
「総長!」
「ありがとうございます!」
そんな言葉を何度も掛けられた。
自分でも悪くない気分だった。
――まだ、この街は終わってねぇって思えた。
だが。
四日目。
積み込んでいた食料を、助けたはずの男たちに奪われた。
仲間も二人殺された。
女も一人連れ去られた。
人間は変わった。
いや。
元からそうだったのかもしれない。
――俺が甘かっただけだ。
あの時の光景が、頭から離れない。血の匂い、仲間の倒れる音、助けを求める声。
守れなかった。
その事実が、胸を締め付ける。
◇
「もう助けねぇ。」
蓮司が低く呟く。
「俺たちの物は俺たちの物だ。」
仲間たちは何も言わない。
それでも誰も離れなかった。
蓮司は仲間を見捨てない。
それだけは今も変わらないからだ。
――もう二度と、あんな思いはさせねぇ。
その決意だけが、彼を立たせていた。
◇
「総長。」
「何だ。」
「住宅街で新しく人が集まってる家があります。」
「何人だ。」
「八人くらい。」
「食料もかなり運び込んでました。」
蓮司はゆっくり立ち上がる。
――また同じことになるかもしれねぇ。
助ければ裏切られる。奪えば、自分も同じ側に落ちる。
その狭間で、思考が軋む。
「……様子だけ見ろ。」
「まだ手は出すな。」
それでも即断できなかったのは、まだ完全に捨てきれていない何かがあったからだ。
「はい。」
仲間は頷き、バイクの鍵を握る。
◇
一人になった蓮司は、工場の奥へ歩いていく。
そこには血痕が残っていた。
そして。
巨大な黒い肉の塊。
熊の化け物の腕だった。
三日前。
仲間を守るため、蓮司はその熊と戦った。
勝てる相手ではなかった。
だが、重機を使って押し潰し、片腕だけはもぎ取った。
その代償に、十人以上の仲間を失った。
――あいつらの顔が、まだ消えねぇ。
笑っていた顔も、怒鳴っていた声も、全部。
蓮司は震える手で、その肉を見つめる。
恐怖が、遅れて込み上げてくる。
あの化け物の圧倒的な力。自分が一歩間違えれば、同じように潰されていたという現実。
「……これを食えば。」
仲間を守れる力が手に入る。
そんな噂を聞いた。
根拠などない。
だが、この世界では常識など役に立たない。
――こんなもん食って、人間でいられるのか?
喉が乾く。吐き気すら覚える。
それでも。
――力がなきゃ、守れねぇ。
あの時の無力感が、背中を押す。
蓮司は静かにナイフを握った。
この選択が、自分の人生を大きく変えるとも知らずに――。




