第2話 念のため
町全体が、闇に沈んでいた。
窓の外に並んでいた街灯の光は消え、向かいの家の明かりもない。遠くに見えるマンションの窓も、まるで黒い箱のように沈黙している。
さっきまで確かに聞こえていた冷蔵庫の低い唸りも、エアコンの風の音も、テレビの声も消えていた。
残ったのは、家族の息遣いと、外から聞こえる誰かの戸惑った声だけだった。
「停電……?」
彩乃が呟いた。
その声は、いつもの生意気な妹のものではなかった。
俺は手に持った懐中電灯をリビングの天井へ向ける。白い光がぼんやりと広がり、父さんと母さんの顔を照らした。
「ブレーカーじゃないよな?」
父さんが立ち上がる。
「外も消えてる。たぶん地域一帯だと思う」
「そうか……」
父さんは窓の外を見た。
普段なら「まあ、そのうち戻るだろ」と軽く言うところだ。実際、父さんの口元はそう言いかけていた。
けれど、その言葉はすぐには出てこなかった。
町全体の暗さが、想像よりも重かったからだと思う。
「お兄ちゃん、スマホのライトつけていい?」
「バッテリー減るから、今はやめとけ。懐中電灯あるから」
「……分かった」
彩乃が素直に頷いた。
それだけで、少しだけ事態の異常さが分かる。
俺はリビングの床に置いていたキャンプ用ランタンを手に取った。さっき、念のために出していたものだ。電池式のランタンのスイッチを入れると、柔らかい白い光が部屋を満たした。
「あ、明るい」
母さんがほっとしたように息を吐く。
「準備しておいてよかったわね」
「まだ、たまたまだよ」
俺はそう言った。
本当にそう思っていた。
まだ、たまたま停電しただけ。
通信障害も、発光現象も、停電も、偶然が重なっただけ。
そう思いたかった。
父さんがスマホを確認する。
「駄目だな。ネットがほとんど繋がらない」
「電話は?」
「試してみる」
父さんは会社に電話をかけようとした。
しかし、画面には発信中の表示が出たまま、いつまで経っても繋がらない。
母さんも病院へ連絡しようとしていたが、同じようだった。
「通話も駄目みたい」
「固定電話は?」
俺が言うと、父さんが廊下に置いてある電話機を確認しに行った。
少しして戻ってくる。
「駄目だ。うんともすんとも言わない」
「今の電話って電気ないと使えないんだっけ」
「そういうのもある」
彩乃が不安そうにスマホを握りしめる。
「学校のグループも全然更新されないんだけど。みんな大丈夫かな」
「たぶん同じ状況だよ」
俺はそう言ってから、少し迷った。
美咲。
反射的にメッセージアプリを開く。
圏外ではない。
でも、ほとんど動かない。
俺は短く打った。
『停電した。そっちは?』
送信。
ぐるぐると回るマーク。
十秒。
二十秒。
一分。
送信されない。
「……くそ」
小さく呟いた。
ただの停電なら、隣町に住む美咲も同じように家族といるはずだ。家も近い。何かあれば直接見に行ける距離だ。
それでも、連絡が取れないというだけで、胸の奥がざわついた。
「悠真?」
母さんが俺を見る。
「美咲に送ったけど、送れない」
「美咲ちゃんの家なら近いし、きっと大丈夫よ」
「うん」
母さんの声は優しかった。
けれど、その優しさに甘えきれない程度には、俺の中の不安は大きくなっていた。
◇
停電から十分ほど経つと、近所の人たちが外へ出始めた。
窓を開けると、あちこちから声が聞こえる。
「そっちも消えてます?」
「うちもです」
「信号も消えてるみたいですよ」
「困ったわねぇ」
誰も叫んではいない。
誰も走り回ってはいない。
ただ、珍しい出来事に戸惑いながら、家の前に出て確認している。
日本の住宅街らしい静かな混乱だった。
父さんも玄関へ向かった。
「ちょっと外見てくる」
「俺も行く」
懐中電灯を持って外へ出る。
生ぬるい夜風が肌にまとわりついた。
いつもなら街灯に照らされている道路は、驚くほど暗い。家々の窓から漏れる光もなく、ところどころでスマホのライトや懐中電灯の光が揺れている。
近所の佐藤さんが、家の前で空を見上げていた。
「ああ、藤堂さん。そちらも停電ですか」
父さんが頷く。
「ええ。ブレーカーではなさそうですね」
「信号も消えてますよ。さっき交差点の方でクラクションが聞こえました」
「事故ですか?」
「分かりません。ただ、車は動いてますね」
遠くから、確かにクラクションが聞こえた。
長く、苛立ったような音。
その後に、誰かの怒鳴り声。
暗闇の中では、普段なら気にならない音が妙に大きく響く。
俺は空を見上げた。
「……まただ」
紫色の光。
昨日よりも薄いが、確かに空の端で揺れていた。
雲ではない。
煙でもない。
星空を覆うように、淡い膜のような光がゆっくりと広がっている。
「綺麗ねぇ」
隣の家の奥さんが呟いた。
誰かがスマホを向ける。
でも、すぐに「あ、ネット上げられないんだった」と苦笑した。
その場にいた何人かが笑った。
俺も少しだけ笑った。
だが、その紫色の光から目を離せなかった。
綺麗なものが安全とは限らない。
キャンプで山に入るようになってから、それだけは何となく分かっていた。
綺麗なキノコ。
澄んだ沢の水。
静かすぎる森。
自然は、美しい顔のまま人を殺すことがある。
今、空に浮かぶあの光も、同じように見えた。
◇
家に戻ると、母さんが買ってきた水や食料をキッチンに並べていた。
彩乃はランタンの近くでスマホを何度も確認している。
「繋がった?」
「全然。たまに一瞬だけ通知来るけど開けない」
「充電減るぞ」
「分かってるけど、友達が心配なんだもん」
彩乃の声が少し尖る。
普段なら言い返すところだが、俺は黙った。
心配なのは分かる。
俺だって、美咲と連絡が取れていない。
父さんが戻ってくると、母さんが聞いた。
「外、どうだった?」
「近所も全部停電。信号も消えてるらしい。ただ、みんな落ち着いてる」
「復旧しそう?」
「分からん。でも、まあ朝には戻るだろ」
父さんはそう言った。
今度は言えた。
自分を安心させるような声だった。
俺はその言葉に頷きながらも、浴室へ向かった。
浴槽には、さっき溜めた水が満ちている。
水面に懐中電灯の光が揺れていた。
母さんが後ろから来る。
「水、溜めておいてよかったわね」
「まだ水道は出る?」
「キッチンは出たわ」
「じゃあ、ポリタンクにも入れておく」
ホームセンターで買ってきたポリタンクを洗い、水を入れる。
十リットル、二十リットル。
水は重い。
普段は蛇口をひねればいくらでも出るものなのに、容器に入れた瞬間、急に現実的な重さを持つ。
「そんなにいる?」
彩乃が覗き込んできた。
「断水したら困るだろ」
「断水までいくかな」
「いかないといいけど」
「またそれ」
「使わなきゃ笑い話だ」
俺が言うと、彩乃は少しだけ黙った。
「……さっきの懐中電灯は、助かった」
「素直だな」
「うるさい。たまには褒めただけ」
「ありがたく受け取っとく」
彩乃は顔を背けた。
ランタンの光に照らされた横顔は、少しだけ不安そうだった。
全国大会で優勝するほど強い妹でも、停電した住宅街の暗闇には勝てない。
そう思うと、少し不思議だった。
◇
その夜、家族はリビングで寝ることになった。
各自の部屋に戻ってもよかったが、暗い家の中でばらばらになるのは何となく嫌だった。
父さんはソファ。
母さんと彩乃は床に敷いた布団。
俺は寝袋を出した。
「家の中で寝袋って」
彩乃が呆れる。
「キャンプ気分でいいだろ」
「よくない。暑いし」
「文句多いな」
「虫がいないだけマシ」
彩乃がそう言った直後、どこからか小さな虫が飛んできてランタンの周りを回った。
「いやあああ!」
「うるさっ」
「虫! 虫いる!」
「そりゃ窓開けてるからな」
「無理無理無理!」
空手全国優勝者は、羽虫一匹に敗北した。
母さんが思わず笑い、父さんも肩を揺らしている。
少しだけ、いつもの空気が戻った。
停電していても。
通信が途切れていても。
まだ家族で笑える。
そのことに、俺はほっとした。
ランタンの明かりを少し落とす。
部屋が薄暗くなる。
外からは、時折車の音が聞こえた。遠くで救急車のサイレンも鳴っている。普段なら気にも留めない音なのに、今はやけに長く耳に残る。
スマホを見る。
美咲へのメッセージは、まだ送信中のままだった。
俺は諦めて画面を消した。
明日、直接様子を見に行こう。
そう決めて、目を閉じた。
◇
翌朝。
目を覚ました瞬間、最初に耳に入ったのは、冷蔵庫の音ではなかった。
エアコンの音でもない。
テレビの音でもない。
蝉の声だった。
窓の外で、蝉が鳴いている。
それだけが、やけに鮮明だった。
俺は身体を起こした。
リビングは薄明るい。
ランタンは消えている。
父さんはソファで眉間に皺を寄せながら寝ていて、母さんはすでに起きてキッチンに立っていた。彩乃は布団にくるまり、寝苦しそうに唸っている。
「母さん、電気は?」
母さんは首を横に振った。
「まだ」
その一言で、眠気が消えた。
まだ戻っていない。
一晩経っても。
俺は立ち上がり、リビングのスイッチを押した。
何も起きない。
冷蔵庫を開けると、中はまだ冷たかった。でも、このまま停電が続けば時間の問題だ。
「水道は?」
「出るわ。でも少し勢いが弱い気がする」
キッチンの蛇口をひねる。
水は出た。
だが、昨日より少し細い。
気のせいかもしれない。
そう思いたかった。
父さんも起きてきた。
「まだ停電か」
「うん」
「会社から連絡は?」
「スマホがほぼ繋がらない」
父さんはスマホを何度か操作し、ため息をついた。
「駄目だな。メールも開けない」
「会社行くの?」
彩乃が寝ぼけた声で聞く。
父さんは少し迷ってから、ネクタイを手に取った。
「一応行く」
「マジで?」
「行かないわけにもいかないだろ」
彩乃が信じられないという顔をする。
「電気も通信も死んでるのに?」
「だからこそ、状況確認だよ」
母さんも頷いた。
「私も病院に行くわ。こういう時ほど人手が必要になるから」
俺はその会話を聞いて、妙に日本人らしいなと思った。
停電している。
通信も不安定。
昨日から空には変な光が出ている。
それでも、会社員は会社へ行き、看護師は病院へ行き、高校生は学校を気にする。
日常が壊れかけていても、人は日常の続きをしようとする。
「悠真は大学?」
父さんが聞く。
「……午前中は様子見る。美咲の家にも行きたいし」
「そうか」
父さんはそれ以上何も言わなかった。
たぶん、反対する理由がなかったのだと思う。
◇
朝食は、冷蔵庫の中のものから消費することにした。
母さんが言う。
「停電が続くなら、傷みやすいものから食べた方がいいわ」
「冷凍庫は開けない方がいいよね」
「そうね。なるべく冷気を逃がさないようにしましょう」
母さんの判断は早かった。
看護師だからなのか、病院で非常時の対応に慣れているからなのか、こういう時の母さんは頼もしい。
俺は昨日買ったカセットコンロを出した。
「これ、もう使う?」
「今はガスコンロが使えるから大丈夫。ガスは来てるみたい」
「そっか」
電気は駄目。
水道は弱いが出る。
ガスは使える。
ライフラインが一気に全部止まったわけではない。
その中途半端さが、逆に人を安心させていた。
朝食後、父さんは会社へ向かった。
母さんも病院へ行った。
彩乃の学校は、連絡が取れないため判断不能だった。
「どうする?」
俺が聞くと、彩乃は制服に着替えながら言った。
「一応行く。部活あるかもしれないし」
「この状況で?」
「みんな来るかもだし。先生もいるだろうし」
言っていることは父さんと同じだった。
やっぱり家族だ。
「じゃあ、俺が途中まで送る」
「自転車で?」
「歩き。ついでに美咲の家に寄る」
「……美咲ちゃん心配なんだ」
「そりゃ幼馴染だし」
「ふーん」
「何だよ」
「別にー」
彩乃は少しだけにやついた。
停電二日目の朝でも、こういう顔はするらしい。
◇
外へ出ると、町は動いていた。
完全に止まってはいない。
通勤する人がいる。
制服姿の学生がいる。
車も走っている。
ただ、いつもより空気が重かった。
信号が消えている交差点では、警察官が手信号で車を誘導している。コンビニの前には列ができていた。入口には貼り紙。
『停電のため、現金のみ。購入数制限あり』
店内は薄暗く、店員が電卓で会計しているのが見えた。
それでも、列は整然としていた。
誰かが文句を言っているが、怒鳴り声ではない。
まだ、社会は踏みとどまっている。
美咲の家に着くと、玄関先に美咲がいた。
「あ、悠真!」
その顔を見た瞬間、胸のつかえが少し下りた。
「無事か」
「うん。そっちも?」
「ああ。昨日メッセージ送ったけど届かなかった」
「私も送った。全然駄目だったね」
美咲の母親も玄関から顔を出した。
「悠真くん、心配して来てくれたの?」
「はい。停電してたので」
「ありがとう。うちは大丈夫。水も少し買っておいたし」
美咲が小さく笑う。
「悠真に言われたから、帰りに買ったんだよ」
「役に立ったならよかった」
「でも、まさか本当に停電するとは思わなかった」
「俺も」
俺は正直に言った。
予想していたわけじゃない。
ただ、備えただけだ。
美咲は俺の顔を見て、少し真面目な声で言った。
「今日、大学行く?」
「俺は様子見。停電続いてるし」
「私も休もうかな。連絡来ないし」
「それがいいと思う」
美咲は頷いた。
その時、遠くからクラクションが連続して鳴った。
俺たちは同時に振り向く。
駅の方だ。
車の流れが詰まっているのか、何度も苛立った音が響いている。
昨日より、町の音が荒くなっていた。
◇
彩乃を学校の近くまで送った後、俺はホームセンターへ向かった。
店が開いているか確認したかった。
もし開いているなら、買い足すべきものがある。
水。
保存食。
電池。
簡易トイレ。
ガス缶。
それから、できれば手回しラジオ。
ネットが使えない以上、情報源が必要だった。
ホームセンターに着くと、駐車場には昨日以上の車があった。
入口には人だかり。
店内は非常灯と一部の発電機で最低限の明かりだけがついている。
自動ドアは開放され、社員が大声で案内していた。
「現金のみです! 電子決済、クレジットカードは使えません!」
「購入数制限があります! 水は一家族二ケースまで!」
「乾電池はお一人様二パックまででお願いします!」
昨日とは明らかに違う。
客の顔に、焦りがあった。
それでもまだ、列はできている。
まだ、誰も棚に飛びついて奪い合ってはいない。
でも、棚は確実に空になり始めていた。
水の棚は半分以下。
カセットガスは残りわずか。
懐中電灯はほぼ売り切れ。
モバイルバッテリーは空。
簡易トイレも数が少ない。
俺は喉の奥が乾くのを感じた。
「藤堂くん!」
佐伯さんが俺に気づいた。
額に汗を浮かべ、かなり疲れた顔をしている。
「今日シフトじゃないよな?」
「はい。でも、何か手伝いますか?」
「助かるけど……いや、まず自分の家を優先しろ。今日はちょっと普通じゃない」
佐伯さんがそんなことを言うのは珍しかった。
「そんなにですか」
「ああ。朝からずっとこれだ。物流も遅れてる。次の入荷がいつか分からない」
「物流が?」
「ああ。高速で事故が多発してるらしい。信号も止まってるし、配送センターもシステム障害。電話も繋がらん」
昨日まで「すぐ落ち着く」と言っていた佐伯さんが、今日は笑っていなかった。
俺は売り場を見た。
昨日買ったものが、今日はもう手に入りにくくなっている。
たった一日で。
「藤堂くん」
佐伯さんが声を落とした。
「買えるものがあるなら、買って帰れ。悪いことは言わない」
その言葉に、背筋が冷えた。
◇
俺は購入制限の範囲内で、必要なものを買い足した。
水。
缶詰。
乾電池。
アルコール除菌シート。
ゴミ袋。
軍手。
紙皿。
ラップ。
塩。
砂糖。
米はすでに売り切れていた。
保存食もほとんどない。
レジに並んでいると、前の方で客が店員に詰め寄っていた。
「何で水が二ケースまでなんだよ!」
「申し訳ありません。多くのお客様に行き渡るように――」
「こっちは家族がいるんだぞ!」
店内の空気が一瞬張り詰める。
だが、後ろに並んでいた年配の男性が静かに言った。
「みんな家族がいるんですよ」
その一言で、客は舌打ちしながらも引き下がった。
まだ、誰かが止められる。
まだ、言葉が通じる。
けれど、それがいつまで続くのか。
俺には分からなかった。
◇
家に戻る頃には、昼を過ぎていた。
停電はまだ復旧していない。
スマホの電波も不安定なまま。
玄関を開けると、彩乃が先に帰っていた。
「学校どうだった?」
「午前で解散。先生も状況分からないって。部活もなし」
「そうか」
「駅の方、すごい混んでたよ。コンビニも棚スカスカ」
彩乃の声には、もう朝のような軽さはなかった。
俺は買ってきた物をリビングに並べた。
母さんはまだ病院。
父さんも会社から戻っていない。
家の中は暑い。
冷蔵庫の中身も心配だ。
俺は深呼吸して、やるべきことを一つずつ考えた。
まず、水。
次に食料。
それから情報。
「彩乃」
「何?」
「水道が出るうちに、空いてる容器全部に水入れる。手伝って」
「分かった」
今度は文句を言わなかった。
鍋。
やかん。
ペットボトル。
空の水筒。
保存容器。
使えるものには全部水を入れる。
彩乃は最初こそ不器用だったが、すぐに慣れた。
「こんなに必要?」
「断水したら必要になる」
「断水……するかな」
「分からない。でも、出るうちに入れておく」
蛇口から流れる水の音が、だんだん貴重なものに聞こえてくる。
昨日までは当たり前だった音。
今は、止まらないでくれと願いながら聞いている。
◇
夕方近く、父さんが帰ってきた。
思ったより早い。
顔には疲労が滲んでいた。
「会社、どうだった?」
俺が聞くと、父さんはネクタイを外しながら苦笑した。
「仕事にならん。システムは全滅。電話も繋がらない。結局、紙で安否確認して解散だ」
「紙、強いね」
彩乃が言う。
父さんは少しだけ笑った。
「本当にな」
だが、その笑いはすぐに消えた。
「途中、信号が消えてる交差点で事故を見た。救急車もなかなか来ないみたいだった」
母さんが帰ってきたのは、それからさらに一時間後だった。
病院は大混乱だったらしい。
「電子カルテが使えない時間が長くて、紙の記録に戻したの。非常用電源もあるけど、全部を普段通りには動かせない。救急も増えてる」
「母さん、明日も仕事?」
「たぶん。というより、行かないと」
母さんは疲れていた。
それでも、声はしっかりしていた。
家族全員が揃ったリビング。
ランタンの明かり。
冷房のない蒸し暑さ。
食卓には、冷蔵庫の中の傷みやすいものを使った夕飯が並んだ。
豪華ではない。
でも温かい。
俺たちはそれを黙って食べた。
誰も「明日には戻る」とは言わなかった。
◇
夜。
俺は手回しラジオのハンドルを回していた。
ホームセンターで最後の一台を買えたものだ。
ジジッ、ザザッ。
雑音。
しばらく周波数を合わせると、かすれた音声が聞こえてきた。
『――政府は、全国的な通信障害および電力供給の不安定化について、引き続き復旧作業を進めています』
家族全員がラジオに顔を向ける。
『また、物流網にも大幅な乱れが発生しており、一部地域では生活必需品の配送に遅れが出ています。政府は、不要不急の外出を控え、落ち着いた行動を取るよう呼びかけています』
父さんが眉をひそめる。
「物流もか」
ラジオの音声は続いた。
『なお、本日午後、関東近郊の複数地域において、野生動物の異常行動に関する通報が相次いでいます。専門家は、停電や発光現象との関連は不明としつつ――』
そこで、音声が大きく乱れた。
ザザザッ。
耳障りな雑音。
俺はラジオを握る手に力を入れる。
「野生動物……?」
彩乃が不安そうに呟く。
俺は窓の外を見た。
暗い住宅街。
遠くの空に、紫色の光が昨日よりも濃く揺れている。
その時だった。
どこか遠くから、犬の遠吠えのような声が聞こえた。
けれど、それは犬にしては低すぎた。
長く、太く、腹の底に響くような声。
家族の誰も、すぐには言葉を発しなかった。
俺はランタンの明かりの中で、静かに息を呑んだ。
世界は、昨日より確実に悪くなっていた。




