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第1話 世界が少しだけおかしい



 翌朝、目が覚めて最初に感じたのは、いつもより部屋が静かだということだった。


 いや、正確には静かすぎるわけではない。


 外では鳥が鳴いているし、遠くで車の走る音も聞こえる。近所の家からは雨戸を開ける音がして、どこかで犬が吠えていた。


 ただ、いつもなら枕元で震えているはずのスマートフォンが、何の反応もしていなかった。


「……ん?」


 寝ぼけた頭でスマホを手に取る。


 画面をつけると、時刻は午前七時二十一分。


 通知はほとんどない。


 ニュースアプリも、動画サイトも、SNSも、いつもなら朝からどうでもいい通知を並べているのに、今日はやけに少なかった。


 電波表示は、一本。


 Wi-Fiには繋がっている表示が出ている。


 なのに、読み込みが遅い。


「まだ直ってないのか」


 昨日から続いている通信障害。


 ニュースでは「国内への影響は限定的」と言っていたが、どうやら俺のスマホはその限定的な影響をしっかり受けているらしい。


 メッセージアプリを開く。


 美咲からの未読が一件。


『おはよ。今日、大学あるよね?』


 送信時刻は六時五十八分。


 今は七時二十一分。


 返信しようとして、文字を打つ。


『あるんじゃない? 休講連絡来てないし』


 送信。


 くるくると回る送信マーク。


 十秒。


 二十秒。


「……遅っ」


 ようやく送信済みになった。


 少しだけ嫌な感じがした。


 だが、それだけだった。


 この時点ではまだ、俺も世間も、昨日と同じように「そのうち直るだろう」と思っていた。


     ◇


 一階へ降りると、リビングにはいつも通りの朝があった。


 父さんはスーツ姿で新聞を読んでいる。


 母さんは弁当箱におかずを詰めていた。


 彩乃はテーブルに突っ伏しながら、片手でスマホを操作している。


「おはよう」


「おはよう。悠真、ニュース見た?」


 母さんが少しだけ眉を寄せて言った。


「通信障害?」


「そう。病院の連絡網も朝から繋がりにくいみたいでね。今日は忙しくなりそう」


 母さんは看護師だ。


 大きな総合病院に勤めていて、災害や事故があると真っ先に影響を受ける仕事をしている。


 だから、こういう異常には父さんより少し敏感だった。


 テレビでは、朝の情報番組が流れている。


 画面の端には赤いテロップ。


『世界規模の通信障害 国内でも一部影響』


 アナウンサーは落ち着いた声で説明していた。


『政府は現在、原因の調査を進めており、通信各社は復旧作業を急いでいます。専門家によりますと、太陽活動の影響や衛星通信の不具合など、複数の可能性が考えられるということです』


 父さんが新聞を畳みながら言った。


「まあ、会社は行くしかないな」


「休みにならないの?」


 彩乃が顔を上げる。


 父さんは苦笑した。


「通信が悪いから休み、なんて会社はなかなかないよ」


「うわ、日本人って感じ」


「お前も学校行くだろ」


「部活あるし」


「同じだろ」


 彩乃は不満そうに唇を尖らせたが、反論はしなかった。


 俺も椅子に座り、朝食を食べる。


 焼き海苔、味噌汁、納豆、ご飯。


 いつもと変わらない。


 テレビの中では大げさに通信障害を伝えているが、テーブルの上には日常がそのまま残っていた。


「大学は?」


 父さんが聞いてくる。


「休講連絡は来てないから行くよ」


「そうか」


「オンラインシステム死んでたら出席どうするんだろうな」


「紙だろ、紙」


 父さんが真面目な顔で言う。


「結局、最後に強いのは紙だ」


「昭和かよ」


 彩乃が笑った。


 母さんも笑う。


 俺も笑った。


 まだ、笑えていた。


     ◇


 家を出る前、俺は玄関横でクロスバイクのタイヤを指で押した。


 空気は十分。


 チェーンも問題ない。


 昨日、帰りに見た紫色の空のことが頭に残っていた。


 ニュースでは「発光現象」と呼んでいた。


 専門家が何人も出てきて、太陽活動だとか、大気中の粒子だとか、聞き慣れない言葉を並べていた。


 けれど、結局のところ「詳しいことは分かりません」という話だった。


 分からない。


 その言葉が、妙に引っかかる。


「悠真ー」


 隣の家の方から声がした。


 振り向くと、美咲が手を振りながら歩いてくる。


 白いブラウスに薄いカーディガン。肩にトートバッグをかけ、いつも通りの柔らかい笑顔を浮かべていた。


「おはよ」


「おはよう。今日は早いな」


「通信悪くてバスの遅延情報見られなかったから、早めに出た」


「偉い」


「でしょ」


 美咲は得意げに笑ったあと、俺のクロスバイクを見た。


「悠真はいつも通り自転車?」


「まあな。電車とかバスより確実だし」


「そういうとこ、ちょっとサバイバル脳だよね」


「褒めてる?」


「半分くらい」


「半分か」


 俺たちは並んで歩き出した。


 駅へ向かう美咲とは途中まで一緒だ。


 幼馴染。


 腐れ縁。


 家が近いだけ。


 そう言い続けて何年になるだろう。


 昨日も「また明日」と言った。


 今日、本当にまた会えた。


 それだけで、何となく安心する。


「昨日の空、見た?」


 美咲が聞いた。


「ああ。紫のやつだろ」


「綺麗だったけど、ちょっと怖かった」


「分かる。なんか変だったよな」


「ニュース見ても、よく分からないって感じだったし」


「まあ、そのうち説明されるだろ」


 俺はそう言った。


 自分に言い聞かせるように。


 美咲は少しだけ空を見上げる。


 朝の空は、昨日と違って普通だった。


 青くて、明るくて、何もおかしなところはない。


 だからこそ、昨日の紫色の光が夢のようにも思えた。


「じゃ、また大学で」


 駅へ向かう分かれ道で、美咲が手を振る。


「ああ」


「今日、学食行けそう?」


「二限終わったら行ける」


「じゃあ、また後で」


「また後で」


 美咲は駅の方へ歩いていった。


 俺はクロスバイクにまたがり、ペダルを踏み込む。


 いつも通りの朝。


 いつも通りの通学路。


 ただ、街の空気はほんの少しだけ違っていた。


 コンビニの前で、店員が貼り紙をしていた。


『電子決済が利用しにくい状態です。現金でのお支払いにご協力ください』


 駅前の交差点では、信号待ちの人たちが皆スマホを見て首を傾げている。


 バス停には、いつもより少し長い列ができていた。


 それでも、誰も走ってはいない。


 誰も叫んでいない。


 みんな、いつもの場所へ向かっている。


 学校へ。


 会社へ。


 店へ。


 病院へ。


 世界が少しおかしくても、人は日常をやめない。


 特に、この国では。


     ◇


 大学に着くと、駐輪場はいつも通り混んでいた。


 講義棟へ向かう途中、掲示板の前に学生が集まっている。


「何かあった?」


 俺が声をかけると、農学部の友人である健太が振り返った。


「おう、悠真。学内システム死んでるってさ」


「休講?」


「いや、対面授業は普通にやるって」


「やるのかよ」


「日本の大学なめんな」


 健太が笑う。


 掲示板には、事務的な文面の紙が貼られていた。


『現在、学内ネットワークおよびオンライン授業支援システムに障害が発生しています。本日の対面授業は通常通り実施します。出席確認は各教員の指示に従ってください』


 俺は思わず苦笑した。


「本当に紙だったな」


「何が?」


「いや、父さんが言ってた」


「昭和だな」


 教室に入ると、すでに半分以上の学生が座っていた。


 皆、口では文句を言っている。


「オンライン課題出せねー」


「レポート締切どうなるんだろ」


「これ休講でよくない?」


「Wi-Fi死んでるのに授業する意味ある?」


 それでも、席についている。


 出席を取られるから。


 単位があるから。


 何となく、来るのが当たり前だから。


 教授が教室へ入ってきた。


 いつもの土壌学の教授ではなく、今日は植物生理学の講義だ。


 教授は教卓に資料を置き、少し困ったように笑った。


「えー、皆さんご存じの通り、学内ネットワークが不安定です。今日はスライドが使えないかもしれませんので、板書中心で進めます」


 教室のあちこちから、小さなため息が漏れる。


 教授は黒板にチョークで文字を書き始めた。


 植物のストレス応答。


 乾燥、高温、病害、塩害。


 植物は動けない。


 だから、環境が悪化してもその場で耐えるしかない。


 細胞内の水分量を調整し、気孔を閉じ、成長を抑え、限られた資源を生存に回す。


 教授の声を聞きながら、俺はノートにペンを走らせた。


 ふと、妙なことを考える。


 人間も同じなのかもしれない。


 環境がおかしくなっても、すぐには逃げない。


 まずはその場で耐えようとする。


 いつもの生活を続けようとする。


 それが正しい時もある。


 けれど、逃げるべき時に逃げ遅れる理由にもなる。


「……考えすぎか」


 小さく呟く。


 隣の健太が顔を寄せてきた。


「何?」


「いや、何でもない」


 その時、教室の照明が一瞬だけ揺れた。


 蛍光灯が、チカ、チカ、と二度瞬く。


 教室がざわついた。


「停電?」


「今の何?」


 すぐに明かりは戻った。


 教授も天井を見上げる。


「電力も少し不安定なのかもしれませんね。まあ、続けましょう」


 続けるのか。


 誰かが小声でそう言って、周りが笑った。


 俺も笑った。


 でも、胸の奥に小さな棘のような違和感が残った。


     ◇


 昼休み。


 学食はいつもより騒がしかった。


 通信障害の話題で持ちきりだ。


「スマホ決済使えなかった」


「ATM止まってるらしいぞ」


「うちの親、会社のシステム死んで仕事にならないって」


「じゃあ帰ればいいのに」


「帰れないのが会社員なんだろ」


 どこか他人事のような会話。


 笑い声。


 不満。


 軽い不安。


 美咲は先に席を取っていた。


 俺が向かいに座ると、彼女はスマホを見せてきた。


「見て。母さんから」


 画面にはメッセージが表示されている。


『スーパー、少し混んでる。水とカップ麺買っておくね』


「美咲の家も備蓄?」


「うちのお母さん、心配性だから」


「いいことだと思う」


「悠真は?」


「うちはまだ普通」


「でも悠真なら何か買いそう」


「なんで分かる」


「災害オタクだから」


「言い方」


 美咲は笑った。


 その笑顔に少しだけ救われる。


 でも、俺は学食の窓から外を見た。


 キャンパス内は普通だ。


 学生が歩いている。


 ベンチで昼食を食べている人もいる。


 サークルの勧誘らしき集団もいる。


 ただ、皆いつもよりスマホを気にしている。


 繋がらない画面を何度も更新している。


 情報が手に入らない。


 それだけで、人は少し落ち着かなくなる。


「ねえ、悠真」


「ん?」


「本当に大丈夫だよね?」


 美咲の声は、いつもより少し小さかった。


 俺はすぐに「大丈夫」と言いそうになった。


 でも、言葉が喉で止まった。


 大丈夫。


 その根拠は何だろう。


 政府がそう言っているから。


 ニュースが落ち着いた声で伝えているから。


 周りが普通に学校や会社へ行っているから。


 それだけだ。


「……たぶん」


 俺は正直に答えた。


「たぶん、大丈夫だと思う。でも、念のために水とか少し買っておいてもいいかもな」


「念のため?」


「ああ。使わなきゃそれでいいし」


 美咲は少し考えてから頷いた。


「じゃあ、帰りに買ってく」


「重かったら連絡しろよ。運ぶから」


「そういうところは優しいよね」


「いつも優しいだろ」


「うーん、たまに」


「妹と同じこと言うな」


 美咲は声を出して笑った。


 その笑い声を聞いて、俺も少し安心した。


     ◇


 午後の講義は短縮になった。


 理由は学内システムの不調。


 休講ではないが、資料配布ができず、教授たちも対応に追われているらしい。


 学生たちは「実質休みじゃん」と喜んでいた。


 俺も少し早めに大学を出て、アルバイト先のホームセンターへ向かうことにした。


 クロスバイクで川沿いを走る。


 空は晴れている。


 昨日の紫色の光はない。


 だが、ところどころで信号機の動きが妙だった。


 青になるまでがやけに長い場所。


 点滅を繰り返している歩行者信号。


 交通整理をしている警察官。


 大きな混乱ではない。


 でも、普段なら見ない光景が少しずつ増えている。


 ホームセンターに着くと、駐車場はいつもより混んでいた。


 平日の昼過ぎにしては車が多い。


 入口近くには、ペットボトルの水を箱で買った客がカートを押している。


 店内に入ると、空気が少し違った。


 焦り、というほどではない。


 ただ、皆がいつもより目的を持って歩いている。


 乾電池売り場。


 懐中電灯売り場。


 カセットコンロ売り場。


 ポリタンク売り場。


 非常食コーナー。


 そこに人が集まっていた。


「藤堂くん、ちょうどいいところに来た」


 社員の佐伯さんが、台車に段ボールを積みながら言った。


「今日、早めに入れる?」


「大丈夫です」


「助かる。電池と水がかなり出てる。あとカセットボンベも」


「そんなにですか?」


「まあ、テレビで煽ってるからな。すぐ落ち着くと思うけど」


 佐伯さんはそう言いながらも、少し疲れた顔をしていた。


 俺は制服に着替え、売り場に出る。


 客から次々に聞かれた。


「単一電池ってどこ?」


「ポリタンク、まだあります?」


「手回しラジオありますか?」


「モバイルバッテリーは?」


「カセットコンロのガス、何本まで買えます?」


 いつもならアウトドアシーズンや台風前くらいにしか聞かれない質問が、一気に押し寄せてくる。


 それでも店内に怒号はない。


 割り込みもほとんどない。


 皆、列に並ぶ。


 店員に敬語で聞く。


 品切れと言われれば、不満そうにしながらも引き下がる。


 この国の秩序は、まだ生きていた。


 でも、俺は知っている。


 秩序は、物があるうちは保たれる。


 商品棚が空になった時、人は少しずつ変わる。


 それはサバイバル動画や災害体験談で何度も聞いた話だった。


 災害時に最初になくなるもの。


 水。


 電池。


 カセットガス。


 簡易トイレ。


 保存食。


 そして、情報。


 俺は売り場を見回した。


 保存水は残り少ない。


 カセットガスは半分以下。


 乾電池も単一と単二はほぼ消えている。


 モバイルバッテリーの棚は空に近かった。


「……念のため、か」


 自分に言い聞かせるように呟く。


 別に世界が終わるなんて思っていない。


 そんな馬鹿なこと、思っていない。


 でも、もし停電が長引いたら。


 もし水道が止まったら。


 もし物流が数日止まったら。


 そう考えると、何もしない方が気持ち悪かった。


     ◇


 バイトが終わる頃には、店内の在庫はかなり減っていた。


 閉店前、俺は自分用に買うものをカゴへ入れた。


 ミネラルウォーター二リットルを六本。


 カップ麺。


 缶詰。


 レトルト食品。


 カセットガス。


 乾電池。


 ライター。


 ガムテープ。


 ブルーシート。


 携帯トイレ。


 ポリタンク。


 思ったより量が多くなった。


「藤堂くんまで買うの?」


 レジにいたパートの人が笑った。


「いや、まあ……念のためです」


「若いのにしっかりしてるわねぇ」


 横を通りかかった佐伯さんも笑う。


「災害オタクだな」


「使わなきゃ笑い話です」


 俺がそう言うと、佐伯さんは少しだけ真面目な顔になった。


「まあ、それはそうだな」


 会計は一万円を少し超えた。


 バイト代が飛ぶ。


 正直、痛い。


 クロスバイクで持ち帰れる量にも限界があるので、リュックと前カゴ代わりに付けているバッグ、さらに荷台に括りつける。


 ロープで固定しながら、自分でも少し笑ってしまった。


「さすがに買いすぎたかな」


 でも、胸の奥の違和感は消えなかった。


     ◇


 家に帰ると、父さんが玄関で目を丸くした。


「何だ、その荷物」


「買ってきた」


「見れば分かる」


 リビングでは、彩乃がソファでスマホをいじっていた。


 母さんはちょうど仕事から帰ったところらしく、疲れた顔で麦茶を飲んでいる。


「悠真、それ全部買ったの?」


「うん。水と食料と、あと電池とか」


 彩乃が呆れた顔をする。


「災害オタク極まってるじゃん」


「うるさい」


 父さんも苦笑した。


「まあ、明日には落ち着くと思うけどな」


「分かってる。俺もそう思うよ」


「じゃあ何で買うんだ」


「念のため」


 俺は荷物を床に置きながら言った。


「使わなきゃ、それが一番だし」


 母さんは少しだけ考えてから頷いた。


「私はいいと思う。病院も今日はかなり混乱してたの。電子カルテが一時的に見られなくなったり、救急の連絡が繋がりにくかったり」


 父さんの表情が少し変わる。


「病院でもか」


「うん。でも、みんな普通に働いてたわ。患者さんも来るし、帰るわけにはいかないもの」


「会社も似たようなもんだ。システム止まってるのに、とりあえず出社して会議してた」


 父さんはネクタイを緩めながらため息をついた。


「何を決める会議なのかも分からん会議だった」


「日本人だねぇ」


 彩乃が笑う。


 俺も笑った。


 でも、母さんだけは少しだけ表情が硬かった。


「水、浴槽にも溜めておく?」


 その言葉に、俺は少し驚いた。


「いいの?」


「使わなければ流せばいいでしょ」


「じゃあ、溜める」


 俺は風呂場へ向かった。


 蛇口をひねる。


 水が勢いよく流れ出した。


 その音を聞いて、少しだけ安心する。


 水が出る。


 電気がつく。


 冷蔵庫が動いている。


 スマホは遅いけれど、まだ繋がる。


 日常は、まだそこにある。


 そう思いたかった。


     ◇


 夜。


 テレビでは臨時ニュースが続いていた。


『現在、国内の広い範囲で通信障害が発生しています。政府は緊急対策本部を設置し、通信各社、電力会社、関係機関と連携して復旧を急いでいるとのことです』


 父さんは腕を組んでテレビを見ている。


 母さんは買ってきた物を整理していた。


 彩乃はスマホが繋がりにくいことに苛立っている。


「動画止まるんだけど。最悪」


「こういう時くらいスマホから離れたら?」


「無理」


「即答かよ」


 俺はモバイルバッテリーを充電し、懐中電灯に電池を入れた。


 キャンプ用のランタンも出す。


 ガスバーナー、メスティン、折りたたみナイフ、ロープ、救急セット。


 部屋の隅に一つずつ並べる。


 彩乃が覗き込んできた。


「兄ちゃん、家でキャンプでもするの?」


「停電したら使うかも」


「停電なんてしないでしょ」


「そうだといいけどな」


 その時、リビングの照明が一瞬だけ暗くなった。


 チカッ。


 全員が黙る。


 すぐに明かりは戻った。


 冷蔵庫の低い音も続いている。


 テレビも映っている。


 父さんがわざと明るい声を出した。


「電圧が不安定なのかもな」


 母さんは何も言わなかった。


 俺は窓の外を見る。


 住宅街には明かりが並んでいる。


 街灯もついている。


 向かいの家の窓からはテレビの光が漏れている。


 まだ大丈夫。


 まだ、日常は続いている。


 そう思った瞬間。


 テレビの音声が途切れた。


『――現在、関東地方の一部で、電力供給に不安定な――』


 画面が乱れる。


 ザザッ、と砂嵐のような音。


 父さんがリモコンを手に取る。


「おいおい」


 次の瞬間。


 部屋の明かりが、ふっと消えた。


 冷蔵庫の音が止まる。


 エアコンの風が止まる。


 テレビの画面が黒く沈む。


 家の中から、あらゆる機械の音が消えた。


 窓の外を見る。


 向かいの家も。


 街灯も。


 道路の信号も。


 町全体が、闇に沈んでいた。


 彩乃の小さな声が聞こえた。


「……え?」


 俺は、さっき電池を入れたばかりの懐中電灯に手を伸ばした。


 カチリ。


 白い光が、暗闇の中に浮かび上がる。


 その光の向こうで、父さんが初めて不安そうな顔をしていた。

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