エピソード0 いつもの日常
人は、失って初めて日常の価値を知る。
そんなありきたりな言葉を、俺は少しだけ鼻で笑っていた。
だって、明日も明後日も同じ日々が続くと信じていたから。
あの日までは。
◇
――ピピピッ、ピピピッ。
枕元で目覚まし時計が鳴る。
俺は布団の中でうめき声を漏らし、スマートフォンを手探りで探した。
「……あと五分」
アラームを止めると、そのまま二度寝しようとする。
しかし、その願いは一階から響いてきた母さんの声であっさり打ち砕かれた。
「悠真ー! いつまで寝てるのー! 大学遅刻するわよー!」
「……起きてるー」
返事だけは一人前。
実際には、まだ布団から出られていない。
六月も終わりに近づき、朝から蒸し暑かった。窓を少し開けて寝ていたせいで、カーテンの隙間から湿った風が入り込んでくる。鳥の鳴き声。遠くを走る車の音。どこかの家の洗濯機が回る低い振動音。
何も特別ではない朝。
だけど、今になって思えば、そういうものほど失った時に重い。
俺はようやく身体を起こし、カーテンを開けた。
雲ひとつない青空。
住宅街には通学する小学生の笑い声が響き、犬の散歩をする老人がゆっくりと歩いている。向かいの家のおばさんは庭の花に水をやっていて、道路脇ではゴミ収集車がいつもの時間に停まっていた。
「……今日も暑そうだな」
顔を洗い、寝癖を適当に直して一階へ降りる。
リビングでは、父さんが新聞を読みながらコーヒーを飲んでいた。スーツ姿で、ネクタイはまだ締めていない。仕事に行く前の父さんは、いつも少しだけ無口だ。
母さんはキッチンで味噌汁をよそっている。
「おはよう」
「おはよう。ほら、早く食べなさい」
テーブルには焼き鮭、卵焼き、味噌汁、ご飯。
大学生にもなって母親の朝飯に世話になっているのは、少し情けない気もする。でも、正直ありがたい。実家暮らしの強みだ。
「彩乃は?」
「まだ二階。朝練があるって昨日あれだけ騒いでたのにね」
母さんが呆れたように笑った、その瞬間。
「やばっ! 遅刻する!」
二階から慌ただしい足音が響いた。
妹の彩乃が階段を駆け下りてくる。制服のリボンは曲がっているし、髪はまだ完全には結べていない。片手でスクールバッグを掴み、もう片方の手でスマホを操作している。
「漫画みたいな慌て方してるな」
「うるさい、お兄ちゃん!」
「空手部のエースが寝坊で遅刻って、全国に示しがつかないぞ」
「ほんっと一言多い!」
彩乃は俺を睨みつけながら、母さんが用意したおにぎりを一つ掴む。
妹の藤堂彩乃は、高校二年生。
見た目は今どきの女子高生そのものだ。スマホ、流行りの音楽、動画サイト、コスメ、友達との通話。虫は嫌い。泥も嫌い。キャンプなんて論外。俺が休日に野営動画を見ていると、毎回「よくそんな汚そうなの見られるね」と本気で引いてくる。
ただし、空手だけは別だった。
全国大会で優勝経験のある強豪校の空手部に所属していて、本人も全国トップクラスの選手だ。家では生意気な妹だが、道場や大会会場では別人になる。並の男なら、たぶん手も足も出ない。
俺も昔、ふざけて組手の真似事をしたことがある。
三秒で床に転がされた。
それ以来、妹には逆らいすぎないようにしている。
父さんが新聞から目を離さず、ぼそりと言った。
「今日は暑くなるらしいぞ」
「マジ? じゃあ水筒もう一本持っていくか」
「また自転車で大学か?」
「うん」
「電車の方が楽じゃないのか」
「この時間は混むし、クロスバイクの方が気持ちいいんだよ」
俺の趣味はクロスバイク、キャンプ、釣り、それからサバイバル動画を見ること。
自分でも少し変わっていると思う。
友達からは「災害オタク」とか「野営系大学生」とか言われることもある。別に本格的なサバイバリストというわけじゃない。山に一人で籠もれるほどの技術はないし、火起こしもライターがあった方がいいに決まっている。
でも、道具を選んだり、食料をどう保存するか考えたり、限られた装備でどう過ごすかを考えるのは好きだった。
大学では農学部に通っている。
植物、土壌、生態系、昆虫、水資源。
授業で習うことは、正直すべてを真面目に理解しているわけではない。それでも、自然の仕組みを知るのは面白かった。食べ物がどう作られるのか。土がどう生きているのか。森や川がどう繋がっているのか。
そんな知識が、後に命を繋ぐことになるなんて、この時の俺は少しも考えていなかった。
母さんが俺の前に味噌汁を置く。
「今日、バイトでしょ?」
「うん。講義終わったらホームセンター」
「帰り遅くなる?」
「たぶん八時くらい」
「夕飯、温めて食べなさいね」
「了解」
父さんが新聞を畳み、コーヒーを飲み干した。
「悠真」
「ん?」
「自転車、事故だけは気をつけろよ」
「分かってるって」
父さんは普通の会社員だ。
アウトドアが得意なわけでも、工具を扱えるわけでもない。電球交換すらたまに俺に頼む。キャンプに誘っても「虫がいるからホテルがいい」と言うタイプだ。
でも、真面目で、責任感があって、家族のことをちゃんと見ている。
この時の俺にとって父さんは、少し頼りないけれど、どこか安心できる普通の父親だった。
テレビからニュースキャスターの落ち着いた声が流れる。
『続いて海外のニュースです。本日未明から、ヨーロッパや北米の一部地域で大規模な通信障害が発生しています。専門家は人工衛星のトラブル、あるいは太陽活動の影響の可能性もあると――』
母さんがテレビを一瞥した。
「最近多いわね、通信障害」
「またシステムトラブルじゃない?」
彩乃がスマホを見ながら言う。
「え、やだ。ライブ配信止まったら困るんだけど」
「世界規模の通信障害より推しの配信かよ」
「当たり前でしょ」
「当たり前なのか……」
俺も深く気にすることなく、味噌汁を口へ運んだ。
スマホが少し使いにくくなるくらいなら、不便ではあるが大した問題じゃない。
この時は、そう思っていた。
◇
朝食を終えると、俺は玄関横の自転車置き場へ向かった。
そこには、俺の相棒がある。
黒いフレームのクロスバイク。
一年前、ホームセンターのバイト代を貯めて買ったものだ。ロードバイクほど速くはないが、街乗りにも通学にも使いやすい。タイヤも細すぎず、多少荒れた道でも走れる。
チェーンに軽くオイルを差し、タイヤの空気圧を確認する。
「またそんなの見てる」
背後から声がした。
振り返ると、彩乃が呆れた顔で立っていた。
「兄ちゃんってさ、自転車には優しいよね」
「人にも優しいだろ」
「うーん、まあ、たまに」
「たまにかよ」
彩乃は鼻で笑いながら、靴を履く。
「今日、帰りにアイス買ってきて」
「自分で買え」
「全国優勝した可愛い妹へのご褒美」
「それ何ヶ月前の話だよ」
「実績は永遠だから」
そう言って、彩乃は走っていった。
まったく、朝から元気なやつだ。
俺もリュックを背負い、クロスバイクにまたがる。
玄関から母さんの声が飛んできた。
「気をつけて行ってらっしゃい!」
「行ってきます!」
ペダルを踏み込む。
住宅街の細い道を抜けると、朝の空気が肌を撫でた。蒸し暑いが、走り出せば風が心地いい。
家から大学までは、クロスバイクで四十分ほど。
途中に川沿いの道があり、そこを走るのが好きだった。車も少なく、信号も少ない。春には桜が咲き、夏には草の匂いが強くなる。川面に朝日が反射して、きらきらと揺れていた。
橋の手前で、スマホが震える。
信号待ちの間に確認すると、幼馴染の美咲からだった。
『今日、三限終わったら学食行かない?』
俺は短く返す。
『バイト前なら行ける』
すぐに返信が来た。
『じゃあいつもの場所で』
朝倉美咲。
幼稚園の頃からの幼馴染で、家も徒歩三分くらいの距離にある。小中高とずっと一緒で、大学も同じ。ただし学部は違う。美咲は教育学部で、小学校の先生を目指している。
周りからは、何度も言われた。
付き合ってるんでしょ、と。
そのたびに俺たちは、ほとんど反射で否定する。
違う。
ただの腐れ縁。
家が近いだけ。
昔から一緒にいるだけ。
そう言えば言うほど周りはにやにやするし、俺自身も少しだけ胸がざわつく。
美咲のことが好きかと聞かれたら、たぶん、好きなんだと思う。
でも、踏み出せない。
今の関係が壊れるのが怖い。
恋人になって、もし駄目になったら、幼馴染には戻れない気がした。
だから俺は、今日もいつも通りの距離を保つ。
近すぎて、遠い距離。
それが俺たちの日常だった。
◇
大学に着く頃には、額に汗が浮いていた。
駐輪場にクロスバイクを停め、鍵を二つかける。盗難対策は大事だ。自転車趣味を始めてから、そこだけは妙に神経質になった。
講義棟へ向かう途中、同じ農学部の友人である健太に声をかけられた。
「おー、悠真。今日もチャリか」
「今日もチャリだ」
「よくやるわ。この暑さで四十分とか」
「慣れれば気持ちいいぞ」
「いや、文明人は冷房の効いた電車に乗るんだよ」
「満員電車のどこが文明だ」
健太は笑いながら、スマホをいじる。
「つーかさ、なんかネット重くない?」
「そうか?」
「動画開かねぇんだけど。大学のWi-Fiも変だし」
俺もスマホを確認する。
たしかに、読み込みが少し遅い。
朝のニュースを思い出した。
「海外の通信障害がどうとか言ってたな」
「あー、それ関係あんのかな」
「さあ。サーバー障害じゃない?」
「まあ、そのうち直るっしょ」
健太はすぐに興味を失ったようにスマホをポケットへ入れた。
俺もそれ以上は考えなかった。
一限の講義は土壌学。
教授は白髪混じりの穏やかな人で、今日も黒板に淡々と図を書いていく。
土壌微生物の働き。
有機物の分解。
水はけと保水性。
正直、地味な内容だ。
だが俺は嫌いではなかった。
土はただの泥ではない。そこには目に見えない生き物がいて、植物を支え、水を蓄え、命を循環させている。
そんな話を聞くと、キャンプ場で何気なく踏んでいる地面も、少し違って見える。
講義の途中、教室のプロジェクターが一瞬だけ乱れた。
画面が青くなり、すぐに戻る。
教授が首を傾げる。
「おや。学内ネットワークが不安定ですね」
教室のあちこちで学生がスマホを確認する。
「またWi-Fi死んだ?」
「レポート提出できないんだけど」
「ラッキー、今日の小テスト延期じゃね?」
笑い声が起こる。
教授も苦笑した。
「まあ、機械に頼りすぎるのも考えものですね」
その一言に、誰かが軽く笑った。
まだ、誰も本気で心配していなかった。
◇
三限が終わると、俺は学食へ向かった。
昼時を少し過ぎた学食は、それでも学生で混んでいる。カレーの匂い、揚げ物の油の匂い、誰かの笑い声。席を探していると、窓際のテーブルから手を振る姿が見えた。
「悠真、こっち!」
美咲だった。
肩までの髪を揺らしながら、いつもの笑顔で手を振っている。
俺はトレーを持って向かいの席に座った。
「早いな」
「今日は二限で終わりだったから」
「じゃあ帰ればよかったのに」
「悠真が寂しがるでしょ?」
「誰が」
「はいはい、腐れ縁腐れ縁」
美咲は楽しそうに笑う。
その笑顔を見ると、俺は少しだけ言葉に詰まる。
昔からそうだ。
美咲は距離の取り方が自然すぎる。
近づきすぎたと思ったら、冗談で逃げる。俺もそれに乗ってしまう。そうやって、もう何年も同じ場所をぐるぐる回っている。
「今日、バイト?」
「うん。ホームセンター」
「またアウトドア用品眺めてにやにやするんでしょ」
「仕事だ」
「でも好きでしょ」
「まあ、嫌いじゃない」
美咲は箸で唐揚げをつつきながら言った。
「今度さ、みんなでキャンプ行こうよ」
「みんなって?」
「悠真の家族とうちの家族。あと健太くんとか」
「大所帯だな」
「楽しそうじゃん。彩乃ちゃんは嫌がりそうだけど」
「あいつは虫がいる時点で無理だろ」
「でもバーベキューなら来るんじゃない?」
「肉だけ食って帰りそう」
二人で笑った。
そんな約束が、普通に未来へ続いていると思っていた。
来月でも、夏休みでも、いつでもできると。
だから俺は軽く頷いた。
「いいよ。予定合わせよう」
「約束ね」
「ああ」
その約束が果たされることはなかった。
◇
夕方。
俺は大学を出て、アルバイト先のホームセンターへ向かった。
町の郊外にある大型店舗で、工具、園芸、日用品、アウトドア用品、ペット用品、資材館まで揃っている。俺はここで週三日ほど働いていた。
担当は主にアウトドア用品と園芸用品。
売り場の場所はだいたい頭に入っている。
ロープ、ブルーシート、ポリタンク、ガス缶、ランタン、乾電池、簡易トイレ、保存食、肥料、園芸支柱、スコップ、鉈、ノコギリ。
当時はただの商品だった。
後に、それらが命の価値を持つことになる。
「お疲れさまでーす」
バックヤードに入ると、社員の佐伯さんが段ボールを運んでいた。
「おう、藤堂くん。今日、電池の棚見といて。なんか午前中から妙に売れてるんだよ」
「電池ですか?」
「海外の通信障害のニュース見た人が買ってんのかな。まあ、すぐ落ち着くと思うけど」
「分かりました」
売り場に出ると、確かに乾電池と懐中電灯の棚が少し減っていた。
とはいえ、災害前の買い占めというほどではない。
客も普段通りだ。
家庭菜園用の土を選ぶ老人。
キャンプ用チェアを見比べる親子。
犬用のおやつを買う女性。
工具売り場で悩む作業服の男性。
世界はいつも通り回っているように見えた。
レジ近くのテレビでは、ニュース番組が流れている。
『各国で発生している通信障害について、政府は日本国内への影響は限定的であるとの見方を示しました。ただし、一部地域では携帯電話の通信が繋がりにくい状態が確認されており――』
客の一人がそれを見て呟いた。
「最近は何でもすぐ止まるなぁ」
隣の客が笑う。
「どうせ明日には直ってますよ」
その会話を聞きながら、俺も同じように思った。
明日には直る。
数日もすれば、誰も気にしなくなる。
ニュースなんて、そんなものだ。
◇
バイトが終わったのは午後八時過ぎだった。
外に出ると、昼間の暑さがまだ地面に残っている。駐輪場でクロスバイクの鍵を外し、スマホを確認した。
圏外ではない。
ただ、妙に読み込みが遅い。
美咲からメッセージが来ていた。
『バイトお疲れ。帰ったら連絡して』
俺は返信しようとした。
『了解』
送信マークがぐるぐる回る。
数秒。
十数秒。
「……電波悪いな」
少し待つと、ようやく送信された。
俺はスマホをポケットに入れ、夜道を走り出した。
街は普通だった。
コンビニには明かりがついている。
ファミレスの駐車場には車が並んでいる。
駅前には仕事帰りの人がいて、居酒屋からは笑い声が漏れている。
世界が終わる気配なんて、どこにもなかった。
ただ、空だけが少し妙だった。
西の空。
夕焼けが消えた後の濃い藍色の中に、薄く紫色の光が揺れていた。
オーロラのような、煙のような、見間違いのような光。
「……なんだ、あれ」
俺はペダルを止め、しばらく空を見上げた。
周囲の人も何人か気づいたらしく、スマホを向けている。
「すげぇ、何あれ」
「オーロラ?」
「日本で見えるわけないでしょ」
「太陽フレアとか?」
誰かが笑いながら言った。
不安よりも、珍しいものを見た高揚感の方が強かった。
俺もその時は、少し綺麗だと思ってしまった。
紫色の光は、音もなく空に揺れている。
まるで世界の向こう側から、何かが染み出してくるように。
家に帰ると、母さんが夕飯を温めてくれた。
父さんはリビングでニュースを見ている。
彩乃はソファで寝転がりながらスマホをいじっていた。
「おかえり」
「ただいま」
母さんが台所から顔を出す。
「ご飯、食べる?」
「うん」
俺はリュックを置き、テレビを見た。
『現在、世界各地で観測されている発光現象について、気象庁は詳細を確認中としています。この現象と通信障害の関連は不明で――』
画面には、海外の夜空を映した映像が流れていた。
紫色の光。
俺がさっき見たものと同じだった。
父さんが腕を組む。
「変なことが続くな」
「でも、綺麗だったよ」
彩乃がスマホを掲げる。
「SNSでもめっちゃ話題。紫のオーロラだって」
「日本でオーロラは無理だろ」
「でも見えたし」
母さんが心配そうに言う。
「体に悪いものじゃないといいけど」
「大丈夫だろ。ニュースでも危険とは言ってないし」
俺はそう言って、夕飯を食べ始めた。
味噌汁は少しぬるくなっていた。
焼き魚は温め直したせいで少し固かった。
でも、それもいつものことだった。
いつもの家。
いつもの会話。
いつもの夜。
その全部が、まだそこにあった。
食後、俺は自室へ戻った。
スマホを見ると、また通信が重くなっている。
美咲からメッセージが届いていた。
『空、見た? ちょっと怖いね』
俺はベッドに腰掛け、返信する。
『見た。まあ、明日にはニュースで説明されるだろ』
少しして、美咲から返事が来た。
『だよね。また明日』
俺は画面を見つめた。
また明日。
何気ない言葉。
当たり前の約束。
俺は短く返した。
『また明日』
スマホを枕元に置き、窓の外を見る。
紫色の光は、まだ空の端に残っていた。
綺麗だった。
不気味だった。
それでも俺は、明日も同じ日常が続くと信じて眠った。
その夜、世界中で観測された通信障害と紫色の発光現象は、後にこう呼ばれることになる。
――魔素災害の始まり、と。




