第8話 今更、お戻りくださいと?
王都からの使者が来た、とマルタが険しい顔で告げた。
「宮廷書記官のペーター殿と名乗っておいでです。殿下のお言葉を預かっていると」
手が、微かに震えた。
一瞬だけ。
(——落ち着きなさい。予測の範囲内よ)
わたくしは震えを握り拳の中に押し込め、深く息を吐いた。
「応接間にお通しして。お茶をお出しなさい」
◇ ◇ ◇
応接間には、痩せた中年の書記官が座っていた。王宮の紋章入りの筒を抱えている。
「リディア・フォン・ヴィンター様。第三王子アルベルト殿下より、書状をお預かりしております」
書記官が筒を差し出した。わたくしは受け取り、封蝋を確認してから開いた。
殿下の署名。その下に、見慣れた——いえ、見慣れていた走り書き。
『リディアへ。お前の力が宮廷に必要だ。速やかに王都に戻れ。相応の待遇は約束する』
……相応の待遇。
(婚約を破棄しておいて、「相応の待遇」ですか。殿下らしいですわね)
書状を畳み、静かに書記官を見た。
「ペーター殿。この書状の内容は、わたくしへの帰還命令と理解してよろしいですか」
「左様です。殿下は——」
「では、まず一つ確認させてくださいませ」
わたくしは静かに書状を畳んだ。
「殿下にはわたくしへの命令権がございません。婚約は破棄されておりますもの」
書記官の口が開き、閉じた。
「さらに申し上げますわ」
わたくしは書棚から一冊の帳面を取り出した。婚約契約書の控え。父が「知恵を絞った」あの契約書だ。
「第七条をご覧ください。『婚約破棄の場合、破棄された側は一切の義務を免ぜられる。個人的な好意により行った業務について、引き継ぎの義務は生じない』」
書記官の顔が強張った。
「わたくしが殿下のためにしていた外交事務は、全て個人的な好意でございました。公務として命じられたことは、一度もございません。したがって——」
わたくしは書状を丁寧に書記官に返した。
「帰還の義務も、引き継ぎの義務もございません。お引き取りくださいませ」
「し、しかし——」
「殿下は、あなた様との関係の修復を——」
「修復するものが何もございませんわ」
書記官が言葉を失った。
わたくしはもう一度、穏やかに頭を下げた。
「お伝えください。好意には引き継ぎ義務はございません。お忘れなく、と」
薔薇園のあの日と同じだ。わたくしは微笑み、礼をし、背を向ける。
ただひとつ違うのは——もう、怖くないということ。
◇ ◇ ◇
使者が去った後、廊下でカイとすれ違った。
「書記官は帰ったのか」
「はい」
「……断ったのか」
「ええ」
カイは一瞬、何かを言いかけた。口を開き——閉じた。
それからもう一度、開いた。
「君が決めることだ。俺がどうこう言う立場じゃない」
「……ありがとうございます」
「ただ——」
カイが、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
「——君が王都に戻るなら、この宿は——」
言葉が途切れた。
「……いや、何でもない」
背を向けて歩いていくカイの耳が、僅かに赤く見えた。
(……何でもない、ではない気がするのだけれど)
でも追いかけて聞くのは、何か違う気がした。
この人は。口では何も言わないけれど、行動で示す人だ。嵐の夜に駆けつけ、外套をかけ、事業計画書を何時間もかけて添削する人。
——あの人とは、違う。
もう比較するのはやめよう。カイは、カイだ。
胸の奥で、何かが微かに鳴った。
聞いたことのない音だった。
◇ ◇ ◇
使者の馬車が、山道を下っていく。
書記官のペーターは、揺れる車内で書簡をまとめていた。
「……あの方の、仰っていたことは全て正しい。法的に強制する手段がない」
独り言が漏れた。
「殿下は、何を捨てたのか……おわかりになっているのだろうか」
馬車の窓から、銀嶺の山々が遠ざかっていく。
湯気の向こうに、小さな宿の屋根が見えた。
あの宿の女将は——覚悟が違った。




