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婚約破棄は予定通りです〜私は既に逃げる準備を終えている〜  作者: 秋月 もみじ
第1章

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第7話 嵐の夜と国王の雷


 風が、叫んでいた。


 午後から空模様が怪しくなり、夕刻には山全体が暗雲に覆われた。雨粒が窓を叩く音が大きくなる。やがてそれは、窓を破りかねないほどの轟音に変わった。



 「お嬢様、屋根が——!」



 エルザの声を聞いた瞬間、浴場の方角から鈍い音がした。走って出ると、薬湯用の屋根板が風に煽られて剝がれ飛んでいた。



 「浴場の岩組みが、二箇所崩れています!」


 「薬草の保管庫、雨が入ってます!」



 次々と報告が入る。わたくしは息を吸い、声を落とした。



 「マルタ、保管庫の薬草を二階へ運んで。防水布で包むこと。エルザは浴場の排水を確認。ハンナ、客室の窓を全て封じて」


 「はい!」



 三人が散った。


 嵐の中、わたくしは浴場に走った。岩組みの崩壊箇所を確認する。修復には——人手がいる。わたくしたち四人では到底足りない。



 その時、玄関の方角から声が聞こえた。



 「女将。無事か」



 雨の中に立っていたのは、カイだった。


 軍服は既に濡れそぼり、髪から水が滴っている。その背後に、レオンと兵士が五人。全員が工具を手にしていた。



 「……カイ様、なぜ」


 「嵐が来れば宿が危ない。来ただけだ」



 それだけ言って、カイは兵士に指示を飛ばし始めた。


 「レオン、屋根板を先に固定しろ。二番隊は浴場の岩を積み直せ。釘は持ってきたな」


 「持ってます。将軍、こっちの崩れた柱も——」


 「やる」



 嵐の中、修復が始まった。




  ◇ ◇ ◇




 夜通しの作業だった。


 雨は明け方にようやく小降りになった。屋根板は固定され、浴場の岩組みも応急処理で形を取り戻した。薬草は二階に退避させたおかげで、ほとんど損害を免れている。



 兵士たちが泥まみれの軍服のまま、疲れた顔で座り込んでいた。エルザとハンナが温かい茶を運んでいく。



 わたくしは浴場の前で、損壊の跡を見つめていた。


 一ヶ月かけて整えた岩組みが、一晩で崩れた。直せる。直せるけれど——



 「風邪を引くぞ」



 背中に、重みを感じた。


 振り返ると、カイが立っていた。わたくしの肩に、自分の外套をかけていた。



 「……カイ様」


 「修復は明日も手伝う。今は休め」



 声が低い。穏やかだが、有無を言わせない。



 外套は大きくて、わたくしの体をすっぽり包んだ。軍服の匂い。雨と、鉄と、ほんの微かに——石鹸の匂い。



 (……軍人さんは、みなこう親切なのかしら)



 修復作業を共に乗り越えた安堵と、疲労と、夜明けの冷たい空気。そのすべてが混じり合って、胸の奥でじわりと温かいものが広がった。



 この人は、口では何も言わない。けれど行動で示す。


 嵐が来れば駆けつけ、夜通し修復し、最後に黙って外套をかける。



 (……もう一度、人を信じてもいいのかもしれない)



 初めて、そう思った。



 隅の方で、レオンが小声で呟くのが聞こえた。


 「……ほらね」




  ◇ ◇ ◇




 同じ夜、王都。


 僕は国王陛下の私室に呼び出されていた。


 部屋には二人きり。暖炉の火が、低く揺れている。



 陛下は執務机の上に外交報告書を並べ、僕の顔をまっすぐ見た。



 「アルベルト」


 「はい、父上」


 「ここ半年の外交報告書を読んだ。率直に聞く」



 陛下の目が、暖炉の炎を映して鋭く光った。



 「お前が誇っていた外交成果は——すべてリディア嬢の功績だったのではないか」



 息が止まった。


 「……何を仰って——」



 「隣国からの抗議文。大使夫人の茶会中止。慈善晩餐会の不手際。どれもリディア嬢が宮廷を離れた直後から始まっている。偶然にしては、出来すぎだ」



 「それは——あの女が引き継ぎもなく勝手に——」



 「引き継ぎ?」陛下の声が、一段低くなった。「引き継ぐべき『公務』があったのか? お前はリディア嬢に公式な職務を命じていたのか?」



 返す言葉がなかった。


 公務として命じたことは、一度もない。リディアが自発的に行っていたことだ。



 「……アルベルト。王族が他者の功績で名を成すのは、王家の恥だ」



 陛下が立ち上がった。


 「今後、お前の外交は全て事前に私の確認を通せ。以上だ」



 僕は一礼して退室した。


 廊下を歩きながら、拳を握りしめた。



 (——リディアを、戻せばいい。あの女を戻せば、全て元通りになる)



 「クラウス」


 「はい、殿下」


 「辺境に使者を送れ。丁重にだが……断らせるな」




  ◇ ◇ ◇




 辺境の朝。


 嵐が去った後の空は、嘘のように澄んでいた。



 わたくしは修復した浴場の前に立ち、銀嶺を見上げた。山頂の雪が朝日に照らされて、橙色に輝いている。



 肩にはまだ、カイの外套がかかっていた。



 返さなくては。でも——もう少しだけ。


 もう少しだけ、この温かさを借りていたかった。

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