第6話 社交界の化けの皮
「あら、ナターシャさんでしたかしら? ……で、あなたは一体どなた?」
王都の大貴族邸での茶会。公爵令嬢のマリアンネが、扇の向こうから冷ややかに笑った。
ナターシャは唇を震わせた。
「第三王子殿下の——」
「ああ、殿下の新しい……何でしたかしら。侍女さん? お妾さん?」
周囲の令嬢たちから、くすくすと笑い声が漏れた。
「わ、わたし——わたしはリディア様の後任として、社交のお取り仕切りを——」
「後任?」マリアンネの声が、氷のように冷たくなった。「侍女が社交の場を取り仕切るなど、お笑い種ですわ。リディア様はヴィンター侯爵家のご令嬢。あなたはエルスト男爵家の三女。——立場をわきまえてくださいませ」
ナターシャは一歩も動けなかった。
茶会の客たちは、一人、また一人とナターシャの前を素通りし、何事もなかったかのように別の話題へ移っていった。
ナターシャの手には、茶会の段取りを書いた紙束が握られていた。しかしそこには致命的な誤りがある——菓子の注文先が三軒も重複し、肝心の花の手配が抜けている。
書類の管理。リディアがいた頃は一度も起きなかった類のミスが、今では当たり前のように起きていた。
かつて自分がリディアの書類を消していた手。その手では、新しい書類を作ることすらできなかった。
◇ ◇ ◇
三週間が経っていた。
銀嶺の湯は、少しずつ宿としての体を成し始めている。一階の浴場は岩組みが整い、客間は三室まで使えるようになった。街道整備も進み、麓の村からの道がずいぶん歩きやすくなっている。
そんな午後、見慣れない馬車が宿の前に止まった。
「——お久しぶりですわね」
降り立ったのは、白髪を品よくまとめた老婦人だった。深い紫の旅装。痩身だが背筋はまっすぐで、目元に気品が宿っている。
「リディアさん。いえ、今は女将さんかしら」
「……グレーテ伯爵夫人」
母の友人だった。幼い頃、母に連れられてグレーテ夫人を訪ねたことがある。母が笑顔で話していた数少ない人のひとり。
「あなたの温泉宿の噂を聞いてね。奇跡の湯、とか。居ても立っても居られなくなって」
「お噂、ですか?」
「ええ。軍の方々の間で評判になっているそうよ。お母様の血筋は伊達ではないわね」
グレーテ夫人は一通りの挨拶を済ませた後、少し声を落とした。
「一つ、耳に入れておきたいことがあるの」
「何でしょう」
「王都では、まだあなたの悪い噂が残っていますわ。『冷酷な婚約者だった』『殿下を失望させた』——あのナターシャとかいう女が流した話よ」
胸がちくりと痛んだ。
半年前、ナターシャが侍女仲間に囁いていた言葉。「リディア様は冷たい方ですわ」。あれが広がって、こうなっていたのか。
「……そうですか。困りましたわね」
「困った? あなた、怒らないの?」
「怒るのは、期待していた人間だけがすることですわ」
グレーテ夫人がほんの一瞬、目を見開いた。それからゆっくりと微笑んだ。
「お母様に似てきたわね。——安心なさい。私はあなたのお母様を知っているもの。噂なんて信じません。私の知り合いにも、きちんと伝えておきますわ」
「グレーテ夫人……」
「あなたのお母様には、たくさん助けていただいたの。そのご恩を、娘に返す機会をいただけて嬉しいわ」
節くれだった手が、わたくしの手をそっと包んだ。母と同じ世代の、温かい手。
◇ ◇ ◇
夜。
事務室の机に、書類が一束、置かれていた。
わたくしが先週カイに渡した事業計画書だ。表紙に「確認済」と短く書かれている。
開いてみた。
——赤字だらけだった。
余白に、丁寧な文字がびっしりと書き込まれている。
『この部分、冬季の集客見込みの根拠がやや薄い。街道整備後の所要時間を具体的に入れるとよい』
『薬湯の原価計算。樹皮の採集コストを年間で見積もると……』
『客室の稼働率を月別に出すなら、季節ごとの需要予測も並べたい。別紙に案を書いた』
別紙が三枚、挟まれていた。カイ自身が書いた需要予測の草案。数字の細かさに、思わず目を見張った。
これは——何時間もかけている。
指先で、赤字の文字をなぞった。丁寧で、力強くて、一つの提案も馬鹿にしていない。
殿下は、わたくしが出した報告書を読みもしなかった。署名して、棚に戻して、おしまい。
(この人は……あの人とは、違う)
「あの人」がアルベルト殿下のことだと気づいて、慌てて首を振った。
比べるべきではない。カイのこれは、事業パートナーとして当然の対応だ。仕事のできる人なら、誰でもこうする。
——でも。
もう一度、赤字の文字を見つめた。
「これだけ真剣に見てくれる人が、いたんだ」
小さな声が、口からこぼれた。
窓の外で、夜風が山の木立を揺らしている。月明かりに照らされた銀嶺が、静かに光っていた。




