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婚約破棄は予定通りです〜私は既に逃げる準備を終えている〜  作者: 秋月 もみじ
第1章

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第4話 将軍閣下の正体


 あの無愛想な軍人さんが、毎朝のように宿にいる。


 カイと名乗ったあの男は、二階の角部屋に荷を解いてから一週間、一日も欠かさず薬湯に浸かりに来ていた。朝は日の出前に起きて露天風呂。昼は山を歩き、夕方にまた湯に浸かる。


 規則正しいこと、この上ない。



 ——軍人だから当然かしら。


 それより気になることがあった。




  ◇ ◇ ◇




 「お嬢様、またあの方のお連れの方がいらしています」


 エルザが帳場に小走りでやってきた。



 このところ、カイの「知り合い」と称する軍服姿の男たちが、何人か宿を訪ねてくるようになった。みな同じグランツ公国の軍服。背筋が真っ直ぐで、言葉遣いが丁寧で——



 (——軍人のお知り合いというより、部下ね、あれは)


 明らかに「ただの旅の軍人」ではない。



 今朝も一人、若い男が宿の前で敬礼していた。赤毛の副官風の男で、カイを「閣下」と呼んでいたのが聞こえた。



 閣下。


 ……閣下?



 「カイ様。少しよろしいですか」


 朝の薬湯から上がったカイが、縁側で髪を拭いているところに声をかけた。


 「何だ」



 「率直に伺いますわ。カイ様は、ただの旅の軍人ではいらっしゃいませんね」



 カイの手が一瞬止まった。それから、ほんの僅かに口元が緩んだ。


 「気づいていたか」



 「部下の方が毎日のように『閣下』とお呼びになっていれば、気づかない方が難しいですわ」



 カイが手拭いを肩にかけ、こちらをまっすぐ見た。


 「グランツ公国近衛将軍。カイだ。辺境の街道整備任務で、しばらくこの近辺に駐留している」



 近衛将軍。


 隣国の最精鋭を率いる指揮官。噂では若くして公爵の信任を得た実力者——



 「……それは、大変な方をお泊めしておりましたのね」


 「ただの湯治客だ。階級は風呂に持ち込まない」



 (——なかなか気の利いたことを仰るのね)



 赤毛の副官が奥から現れた。


 「レオンだ。将軍の副官を務めている」


 「お初にお目にかかります。リディアと申します」



 レオンがにこりと笑って一礼した。人懐こい印象だが、目は鋭い。


 「女将さん、将軍が一週間も同じ宿にいるのは初めてです。よほど気に入ったんでしょう」


 「レオン」


 カイの低い声に、レオンが「失礼」と肩をすくめた。




  ◇ ◇ ◇




 その日の午後、カイが帳場にやってきた。


 「一つ、相談がある」


 「何でしょう」



 「街道だ。この宿と麓の街道を結ぶ山道が狭い。整備すれば、湯治客の足が増える。軍の工兵隊を使って道を広げる案がある」



 わたくしは図面を広げた。母の別荘に来る時に使った山道の地図。



 「こちらの案をご覧いただけますか」


 カイが図面に目を落とした。



 「この道を整備すれば、宿への客足が増えるだけではありません。冬季に雪が積もった後も、迂回路として物資輸送ルートに使えます。ここに退避所を設ければ、吹雪の際の避難場所にもなりますわ」



 カイの目が変わった。


 軍人の目だ。物資輸送、退避所——わたくしが口にしたのは、外交文書の仕事で各国の補給線を研究していた時に学んだ知識だった。



 「……あなたは、こういう提案をどこで学んだ」


 「以前の仕事で、各国の街道と補給線の資料に目を通す機会がありましたの」



 カイは図面から目を上げ、わたくしの顔をまっすぐ見た。


 「この提案を、一つ残らず検討する。レオン、地図を持ってこい」


 「はっ」



 ——殿下は。


 わたくしが提案を持っていくと、書類を受け取りもせずに「後で読む」と言った。後で読まれたことは、一度もない。



 (……この方は、違う)



 比べるべきではない。わかっている。でも、心のどこかが、微かに軋んだ。




  ◇ ◇ ◇




 麓の村に買い出しに降りた帰り道。



 「お嬢様!」


 村の老婦人が駆け寄ってきた。その後ろから、若い男女も数人。



 「温泉宿を開かれるんですってね。ああ、ありがたい。この村にはもう何年も、外から人が来なかったんですよ」


 「お嬢様が来てくれたおかげで、村に活気が出てきたって、みんな言ってます!」


 「馬車の通る道もできるんですって? うちの野菜も下ろせるようになる——」



 次々と声をかけられた。


 王都では、こんなことは一度もなかった。わたくしの仕事は殿下の名前で差し出されて、わたくし自身は透明だった。



 「……ありがとうございます。皆様にも、お力をお借りすることがあるかもしれません。その時はよろしくお願いいたしますわ」


 「もちろんですとも!」



 老婦人がわたくしの手をぎゅっと握った。節くれだった手。温かかった。



 (——ここに来て、よかった)



 素直にそう思えた。王都では一度も思えなかったことが、この辺境では自然にこぼれてくる。




  ◇ ◇ ◇




 夕暮れ。


 宿に戻ると、カイが帳場の前で副官のレオンと話していた。わたくしに気づかずに話しているらしく、声が漏れ聞こえた。



 「将軍。ヴェルデン王国の外交文書の質が、最近急に落ちているという報告が上がっています」


 「……ああ。赴任前から気になっていた」


 「原因は不明ですが、大使館の情報によると——」



 足音を立てないように通りすぎた。


 聞くべき会話ではない。



 けれど胸の奥で、小さな声がした。



 (——原因なら、わたくしが一番よく知っていますわ)



 知っていて、黙っていた。

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― 新着の感想 ―
 これ、下手すると外患誘致罪に問われる気がする。
近衛って、王様や宮中を近辺で守護する役目、またはその軍事組織に使う言葉だから、近衛が、辺境の仕事。 も、違和感もしかして、左遷? 直々に視察を命じられた。とかなら。 ゆるふわでも、ナーロッパでも、違…
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