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婚約破棄は予定通りです〜私は既に逃げる準備を終えている〜  作者: 秋月 もみじ
第2章

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第10話 わたくしたちの居場所


 銀嶺に、二度目の春が来た。


 朝靄が山肌を這い上がっている。谷間から立ち上る湯気と混じり合い、薄桃、薄紫、淡い橙──七色に煙る山の朝。


 二年前の春、馬車の窓からこの景色を見た。あの時は逃げてきたばかりで、何もなくて、胸の中は空っぽだった。


 今は違う。


 「お嬢様、おはようございます! 今日の予約は十二組です!」


 ハンナが帳場に飛び込んできた。薬草の籠を背負ったまま、息を切らしている。朝の採集帰りらしい。この子は二年前から何も変わらない。涙腺が緩くて、声が大きくて、走ってばかりいる。


 「十二組。──去年の同じ時期より多いわね」


 「禁術の噂が晴れてから、貴族の方のご予約がすごく増えてるんです。グランツ公国からも三組!」


 「ありがとう。ハンナ、籠を下ろしてから報告しなさい」


 「あっ。すみません!」


 ハンナが奥に駆けていった。


 帳場の棚には、エルザの帳面がずらりと並んでいる。月別の収支。宿泊者数の推移。薬湯の使用量。二年分の数字が、この宿の歩みをそのまま記録している。


 「お嬢様。お手紙が届いております」


 エルザが封書を差し出した。父上の封蝋。


 開いた。短い文面。父上は、いつもそうだ。


 『リディアへ。違約金は全額回収の見込みとなった。先日の合同会議での処分を受け、支払いの履行が確定した。アルベルトは蟄居先で一人、何もできずにいるらしい。──もう、あの方のことは忘れなさい。体に気をつけて。父より』


 手紙を畳んだ。


 蟄居先で一人、何もできずにいる。


 (──そうですか)


 何も感じなかった。


 怒りは、とうに消えている。嘲りもない。憐れみすらない。ただ──もう、関係のない人だ。


 「エルザ。お父様にお返事を書くわ。便箋を一枚もらえる?」


 「はい。──お嬢様、何かございましたか」


 「いいえ。もう終わったお話ですわ」


 エルザが小さく頷いた。


 便箋にペンを走らせる。


 『お父様。ご報告ありがとうございます。ええ、もう存じませんわ。──銀嶺の湯は順調です。お体にお気をつけて。リディアより』


 短い。父上に似てきたのかもしれない。


 帳場の窓を開けた。朝の風が入り込んでくる。針葉樹と硫黄の香り。この匂いが、もうすっかり「帰ってきた」の匂いになっている。


 「お嬢様」


 マルタが、薬草茶を盆に載せて持ってきた。湯気が立っている。カモミールの花と、白檜の若葉と、ほんの少しの蜂蜜。


 「……ありがとう、マルタ」


 受け取って、一口飲んだ。


 甘い。今日は、ちょうどいい甘さだ。


 ◇ ◇ ◇


 昼前。


 蹄の音がして、宿の前に人影が現れた。


 カイだった。


 軍服ではない。飾り気のない旅装。一年半前、初めてこの宿に来た時と同じような、簡素な身なり。背中の旅嚢は小さい。


 「いらっしゃいませ、カイ様」


 テラスに案内した。


 この宿でわたくしがいちばん好きな場所。二年前の春、母の別荘だった頃は、ただの物干し場だった。今は手すりに沿って薬草の鉢が並び、縁側には座布団が敷いてある。


 銀嶺が正面に見える。残雪が朝日に照らされて白い。谷間から湯気が立ち上り、春の靄と混じり合っている。


 カイは手すりに手をかけて、山を見ていた。


 それから、こちらを向いた。


 「薬草茶を──」


 「いい。今日は、先に話したいことがある」


 声が低い。いつもより。


 わたくしは盆を縁側に置いて、カイの前に立った。


 「合同会議で、婚姻は承認された」


 「ええ」


 「手続きは進んでいる。公爵の許可も、両国の認可も、全て揃った」


 「はい」


 「だが──」


 カイが、一瞬黙った。


 この人はいつもこうだ。大事なことの前で、一度止まる。


 「──俺は、あの会議の場で言った言葉だけでは足りないと思った」


 「足りない?」


 「『美しかった』。──それは本心だ。だが、それだけでは」


 カイが手すりから手を離した。


 こちらをまっすぐ見ている。鋭い目元。日に焼けた肌。──変わらない。初めて宿に来た時と、同じ顔だ。


 けれど今、その目が揺れている。


 「俺は言葉が下手だ。行動で示せばわかるだろうと思っていた。外套をかければ。計画書を添削すれば。嵐の夜に駆けつければ」


 カイの声が、低く続いた。


 「だが──君は、言葉にしてほしい人だ。三年間、名前すら呼ばれなかった人だ。行動だけでは届かないものがある。レオンに何度も言われた。──あいつの言う通りだった」


 (──レオンさん)


 あの副官は、やはり見抜いていたのだ。全部。


 「だから今日は、言葉で言う」


 カイが、息を吸った。


 「初めてこの宿に来た日から──いや、初めて薬湯に入った日から」


 声がかすれた。


 「君が調合した湯の中に、君の全てがあった。傷の種類に合わせた配合。人体の構造を熟知した調合。──あの湯に浸かった時、思った。この湯を作った人間は、ただ者ではない、と」


 覚えている。


 あの日、板塀の向こうから聞こえた独り言。「この湯の配合を考えた人間は、人体の構造を熟知しているな」。──あれが、始まりだったのか。


 「街道整備の提案を受けた時、確信した。この人は、俺と同じ視座で物を見ている。補給線を知っている。地形を読んでいる。──軍人の俺と、同じ目で」


 カイの手が、下がった。拳ではない。開いた手。


 「知識も、優しさも、強さも。君が調合した湯の中に、全部あった」


 声が、低くなった。


 「俺はあの時から──」


 止まった。


 また止まるのかと思った。この人はいつも、ここで止まる。


 けれど今日は──


 「──あの時から、君を好いていた」


 カイの声が、テラスに落ちた。


 静かだった。風の音も、湯気の音も、遠くなった。


 この人が、こんなに長い言葉を話すのを聞いたのは、初めてだった。


 事業計画書に何時間もかけて赤字を入れる人。嵐の夜に駆けつけて、夜通し屋根板を打ちつける人。推薦文に私情をにじませる人。薬草茶の茶碗を──


 「……カイ様」


 「何だ」


 「茶碗」


 「……何の話だ」


 「わたくしの淹れた薬草茶を飲む時だけ、両手で持っていらっしゃいましたわよね」


 カイの耳が、赤くなった。首の後ろまで。


 「……レオンが言ったのか」


 「いいえ。今、気づきました。──ずっと、そうだったの?」


 カイは答えなかった。答えない、ということが答えだった。


 ──泣いた。


 涙が出た。


 止まらなかった。


 王宮を離れた日も泣かなかった。嵐の夜も泣かなかった。使者を追い返した日も、物資を止められた日も、禁術の噂を流された日も、婚姻を保留された日も。


 一度も泣かなかった。


 泣くのは、弱さだと思っていた。泣いたところで運命は変わらない。だから泣かなかった。唇を噛んで、背筋を伸ばして、微笑んで──乗り越えてきた。


 でも今、泣いている。


 悲しいのではない。悔しいのではない。


 嬉しいのだ。


 この人がいてくれることが。この人が言葉にしてくれたことが。


 名前を呼んでくれる人がいること。仕事を見てくれる人がいること。手を握ってくれる人がいること。茶碗を、両手で──


 「……すみません。少し、お待ちくださ──」


 声が途切れた。涙で前が見えない。


 カイは何も言わなかった。


 ただ──手を伸ばして、わたくしの右手を握った。


 大きくて、固くて、温かい手。あの雨の日と同じ手。


 今度は──震えていなかった。


 しばらく、そうしていた。


 テラスに風が吹いた。春の風。銀嶺の残雪を溶かす、温かい風。


 涙が止まった頃、目を上げた。


 銀嶺が見えた。


 山頂の雪が朝の光を受けて白く輝いている。谷間から湯気が立ち上り、靄と溶け合って、七色に煙っている。


 二年前の春と、同じ景色。


 けれど隣に、手を握ってくれる人がいる。


 「ここが」


 声が出た。まだ少し、鼻声だった。


 「ここが、わたくしたちの居場所です」


 カイの手が、ほんの少しだけ強く握り返された。


 春の銀嶺が、七色に煙っている。

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― 新着の感想 ―
ナターシャの罪が随分軽いね 虚偽を持って様々な問題を起こしてるのに追放だけなのか
盆暗は盆暗にせよ、一人の王族の評判を台無しにしたナターシャに対する罪が随分軽いなと思いました。 放流前に額に「罪」と焼印入れるとか鞭打ちとかしないと学習しなさそう。
「ここが、わたくしたちの居場所です」 これ最高にいいです!人生ってこれを探しているような気がしました!
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