第2話 辺境の朝は七色に煙る
朝靄の中、馬車の窓を開けると、硫黄と針葉樹の混じった香りが頬を撫でた。
王都の空気とは、何もかもが違う。
二日間、揺られ続けた馬車の中で、わたくしはほとんど眠れなかった。体が疲れているのではない。頭が、まだ王都に置き去りになっている。
◇ ◇ ◇
ナターシャのことを思い出していた。
侍女仲間に「リディア様は冷たい方ですわ」と囁いていたのを、廊下の角で聞いてしまった夜。あれが半年前。書類が消えるようになったのも、あの頃からだった。
それから、慈善晩餐会のこと。三ヶ月かけて準備した晩餐会が成功した夜、国王陛下が「見事な采配だ」と仰った。その言葉は殿下に向けられたもので、殿下は「ありがとうございます、陛下」と微笑んだ。
わたくしの名前は、一度も出なかった。
知っていた。知っていて、黙っていた。
婚約者とは、そういうものだと思っていたから。
(——でも、もういい。あの宮廷のことは、もう考えない)
「お嬢様」
マルタの声で、はっと顔を上げた。向かいの座席で、老従者がこちらを見つめている。
「着きましたよ」
窓の外を見た。
朝靄が山肌を這い上がっている。銀色の山脈が、朝の光を受けて白く輝いていた。
谷間から立ち上る湯気が靄と混じり合い、薄桃、薄紫、淡い橙——七色に煙っている。
……きれい。
思わず息を止めた。王都にはない景色だ。
宮殿の庭園は完璧に整えられていたけれど、この山の朝靄にだけは、どんな庭師も敵わないだろう。
馬車が止まった。
◇ ◇ ◇
「ようこそお帰りなさいませ、お嬢様!」
別荘の玄関に、二つの姿が立っていた。
エルザとハンナ。先月のうちに王都から先行させておいた侍女たちだ。エルザは十九歳、きっちりと髪をまとめた生真面目な顔。ハンナは十七歳、こちらはもう目を潤ませている。
「お嬢様っ、お嬢様っ——!」
ハンナが駆け寄ってきて、わたくしの手を両手で掴んだ。その手が温かい。
「もう、ハンナ。泣かないの」
「だって、だってっ。お嬢様がここにいらっしゃるなんて……!」
エルザが背筋を伸ばしてお辞儀した後、小さな帳面を差し出した。
「お待ちしておりました。別荘の掃除と修繕の進捗をまとめてございます」
「……ありがとう、エルザ。助かるわ」
口からこぼれた言葉が、自分でも意外なほど柔らかかった。
ハンナが目を丸くした。それからエルザと顔を見合わせて——
「お嬢様が笑った……!」
「え?」
「笑ってらっしゃいます! 王都ではずっと、あのお顔だったのに——」
「あのお顔って何よ」
「だって……いつも完璧なんですもの。完璧すぎて、怖いくらい——あっ、ごめんなさい!」
ハンナが慌てて口を押さえる。エルザが横から「ハンナ」と窘めたが、その口元も笑っていた。
……完璧すぎて、怖いくらい。
(——そう見えていたのね、わたくし)
胸に、じわりと温かいものが広がった。ここには、素の表情を怖がらずに笑ってくれる人がいる。
「ここなら……わたくしは、わたくしでいられそうね」
小さく呟いた声を、朝靄が吸い込んだ。
◇ ◇ ◇
荷解きは、昼までかかった。
外交書簡の控えを書棚に並べながら、エルザに改装計画を共有した。
「一階を客間と浴場に。二階を居住空間にするわ。看板は——『銀嶺の湯』」
「素敵な名前ですね。改装に必要な職人と資材のリストは、帳面の三頁目にまとめてあります」
「……本当に助かるわ、エルザ」
書簡を一通ずつ、丁寧に並べる。各国大使夫人の名前。慈善事業の共催者たち。三年かけて築いた人脈の、一本一本。
これが——銀嶺の湯の、最初の土台になる。
だから、一通たりとも渡さない。
「お嬢様、少しお休みになりませんか。温泉、見に行きましょうよ!」
ハンナが荷解きに飽きた顔で言った。
◇ ◇ ◇
裏手に回ると、岩の間から湯がこんこんと湧いていた。硫黄の匂い。白い湯気。
母がまだ生きていた頃、夏のたびにここを訪れていた。あの頃は湯治場として地元の人が数人来るだけの、小さな温泉だった。
荷解き中に見つけた母の調合手帳を持ってきていた。温泉の記録があるかもしれない。
手を浸すと——指先にぴりっとした刺激が走った。痛みではない。筋の一本一本に、湯が染み込んでいくような感覚。
「……あつっ」
思わず手を引いた。が、すぐに異変に気づいた。
昨日、馬車の中で手すりに擦った手の甲の小さな傷。赤く腫れていたはずだ。
消えている。
「……え?」
目を凝らした。擦り傷の痕すら、ない。ほんの数秒、手を浸しただけなのに。
湯の温度は普通の温泉と変わらない。色は僅かに乳白色。けれどこの治癒力は、尋常ではない。
もしかして——精錬魔法のせいかしら。ヴィンター侯爵家に伝わる、薬草の効能を引き出す血筋の力。わたくしにも微かにその力がある。けれど、手を浸しただけで傷を消すほどの力はないはず。
この泉自体に、何かがあるのだ。
母の調合手帳を開いた。ページをめくる。泉質の分析。湯温の記録。季節ごとの変化。
……母は、この温泉を知り尽くしていた。
最後のページを開いた時、指が止まった。
母の筆跡。少し震えた、細い文字。
『この泉の本当の力は、まだ誰も知らない』
それだけ。理由も説明も書かれていない。
わたくしは手帳を閉じ、もう一度、湯面を見つめた。白い湯気が朝靄と溶け合って、山の斜面を七色に染めている。
(お母様……あなたは何を見つけていたの)
◇ ◇ ◇
アルベルトは執務机の引き出しを開け、何かを探していた。
大使への手土産リスト。来月の茶会の日程調整メモ。先日の晩餐会の費用精算書——どれも、いつもなら机の右端にきちんと揃えて置いてあったはずだ。
ない。
「ナターシャ、大使夫人への贈答品リストはどこだ?」
傍らに控えていたナターシャが、ぱちぱちと瞬いた。
「え……贈答品リスト、ですか?」
「あの女が管理していたはずだが」
「あの……リディア様がいつもどこに保管されていたか、わたくしは……」
アルベルトの眉間に皺が寄る。
そこへ側近のクラウスが入室した。
「殿下、もう一件。グランツ公国のフリードリヒ大使夫人から、来月の茶会について——」
「ああ、あの茶会か。日程はどうなっている」
「先方から中止の申し入れがございました。『リディア様がいらっしゃらないのであれば、お茶をいただく理由がございません』と」
「……何?」
アルベルトは小さく鼻を鳴らした。
「たかが茶会だろう。ナターシャ、お前が代わりに出ろ」
「わ、わたくしがですか……?」
ナターシャの声が微かに震えた。
クラウスは一礼して退室した。廊下に出た側近は、誰にも聞こえない声で呟いた。
「——たかが茶会、ではないのですが」




