第8話 真実は、静かに証明される
「──ただいまより、両国合同温泉資源調査会議を開催いたします」
書記官の声が、王城の大広間に響いた。
高い天井。磨き上げられた石の床。壁面に並ぶ両国の紋章旗。──広間には百を超える椅子が並び、そのほとんどが埋まっていた。
ヴェルデン王国の国王陛下。グランツ公国の大公殿下。両国の諸侯。大使。魔法省の鑑定士。学者。
その全員の前で、わたくしは発表する。
控室で、手を握った。開いた。握った。──震えてはいない。震えるな、と言い聞かせているのではなく、本当に震えていない。
不思議だった。
「お嬢様」
マルタが、控室の隅で立っていた。白髪を丁寧にまとめて、一番良い服を着ている。この人がわたくしの控室にいてくれるだけで、背筋が伸びる。
「大丈夫よ、マルタ」
「ええ。存じております」
マルタの目が、温かかった。
「お嬢様。帳簿の最終確認、済んでおります」
エルザが紙束を差し出した。傷病兵の治療実績記録。回復日数。薬湯の配合と使用量。全て数字で裏付けられた、客観的なデータ。この子が毎日つけてくれていた帳簿が、今日の発表の土台になっている。
「ありがとう、エルザ」
「……お嬢様。頑張ってください」
エルザの声が、少し震えていた。この子が感情を見せるのは珍しい。
わたくしは紙束を受け取って、控室の扉に手をかけた。
◇ ◇ ◇
壇上に立った。
百を超える視線が、わたくしに集まる。
(──三年間、宮廷で視線を浴び続けた。あの頃は、殿下の隣で透明だった)
今日は違う。この壇上に立っているのは、わたくしだ。わたくしの名前で。わたくしの研究で。
「リディア・フォン・ヴィンターと申します。銀嶺の湯の管理者として、泉源の学術的調査結果をご報告いたします」
声は、落ち着いていた。広間の奥まで届く声量。外交文書を読み上げる時と同じ呼吸で、けれど今日は自分の言葉だ。
「銀嶺の泉源は、地下の魔鉱脈に接しております」
図面を広げた。母が描いた地層の断面図。わたくしが補足した魔力の測定データ。
「魔鉱脈は銀嶺の山脈に沿って走っており、泉源がその上に位置していることから、天然の魔力が水に溶出しています。この天然魔力が、精錬魔法と共鳴することで、薬湯の治癒効果が飛躍的に高まります」
広間が静かだ。誰も口を挟まない。
「精錬魔法はヴィンター侯爵家に代々伝わる公知の技術であり、三代前に魔法省に登録されております。泉の治癒効果は、この公知の魔法と天然の地質現象の組み合わせによるものです。──術者が意図的に行う禁術とは、原理が根本的に異なります」
小瓶を取り出した。泉の水の標本。壇上で精錬魔法を微かに流すと、硝子の中に青白い光が走った。
どよめきが起きた。
「この発光は、泉の水に含まれる天然魔力が精錬魔法に共鳴した結果です。禁術であれば、術者の魔力消費に比例して効果が変動いたしますが、この現象は泉の水質に依存しており、術者の魔力とは独立しています。──つまり、誰が精錬魔法をかけても、同じ結果が得られます」
壇上に、もう一人が上がった。
魔法省の鑑定士。白い外套に魔法省の紋章。初老の男性で、分厚い眼鏡の奥の目が鋭い。
「魔法省鑑定士、フランツ・ベルクハルトです。当省は銀嶺の泉源について、二ヶ月にわたる鑑定を実施いたしました」
広間が静まり返った。
「結論を申し上げます。銀嶺の泉源における治癒効果は、地下魔鉱脈からの天然魔力溶出と、公知の精錬魔法の共鳴によるものです。──禁術の使用は、一切認められません」
一拍の間。
「これは天然の地質現象です」
広間にざわめきが広がった。諸侯が顔を見合わせている。大使たちが頷いている。
わたくしは壇上から、広間を見渡した。
前列の右端に、アルベルト殿下──グリューネヴァルト辺境伯が座っていた。
顔が、白い。
禁術告発を公的に行うと宣言した人物が、その告発の根拠を、公開の場で否定された。
鑑定士が続けた。
「なお、当省に提出されておりましたグリューネヴァルト辺境伯からの禁術告発について──本鑑定の結果、告発の根拠は認められません。魔法省は本告発を『無知に基づく虚偽』と認定いたします」
無知に基づく虚偽。
広間がざわめいた。今度のざわめきは、先ほどとは温度が違う。冷たい。視線がアルベルト殿下に集まっている。
殿下は──何も言わなかった。白い顔のまま、唇を引き結んでいる。
わたくしは殿下を見なかった。見る必要がない。
壇上から一礼して、席に戻った。
◇ ◇ ◇
わたくしが席に着いた直後、議場に別の声が響いた。
「議長。発言の許可をいただきたい」
父上だった。
ルートヴィヒ・フォン・ヴィンター侯爵が、席から立ち上がっていた。穏やかな顔。けれど声は、広間の隅まで届く通りの良さだった。
「侯爵閣下、どうぞ」
「ありがとうございます。──禁術の嫌疑が晴れたこの場をお借りして、もう一件、ご報告すべきことがございます」
父上が書類の束を掲げた。
「銀嶺の湯への物資供給路が、過去数ヶ月にわたり意図的に妨害されておりました。妨害を実行したのは、銀嶺地方の有力貴族であるゲルハルト子爵です」
広間がざわめいた。
ゲルハルト子爵の名前が出た瞬間、議場の中ほどに座っていた老貴族の顔が──強張った。温厚な地元名士。その顔から、血の気が引いていく。
「さらに」
父上の声が、一段落ちた。
「ゲルハルト子爵とグリューネヴァルト辺境伯との間で交わされた書簡を、証拠として提出いたします。書簡の内容は、物資妨害の指示と、温泉資源の利権の分配に関する合意です」
書簡が、書記官を通じて議長に手渡された。
議場が、凍りついた。
アルベルト殿下が──ゲルハルト子爵が──二人の顔を、百を超える視線が射抜いている。
「本件の審議は、明日の議題として扱われることを提案いたします」
父上が一礼して、席に戻った。
議長が頷いた。
「……ヴィンター侯爵の提案を受理いたします。共謀の審議は、明日の第一議題といたします」
広間に、重い沈黙が降りた。
わたくしは前を向いていた。殿下を見なかった。子爵も見なかった。
(──わたくしは、ただ母の研究を発表しただけだ)
怒りも、嘲りもない。この壇上で語ったのは、事実と数字と論理だけ。
それだけで──充分だった。
隣の席で、グレーテ伯爵夫人が小さく息をついた。
「……見事ですわ、リディアさん」
それから夫人は、ふと視線を広間の端に向けた。カイが座っている方角だ。
「あら」
夫人が微笑んだ。隣の貴婦人に、何か囁いている。
「あの将軍の目……ふふ」
わたくしは発表資料を片付けていて、何のことか聞こえなかった。
「グレーテ夫人、何ですか?」
「いいえ。──何でもございませんわ」
夫人はまだ微笑んでいた。扇の向こうで、何かを楽しんでいる顔だった。
(……何かしら)
よくわからないまま、わたくしは資料を帳面に挟んだ。
明日。全てが決まる。




