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婚約破棄は予定通りです〜私は既に逃げる準備を終えている〜  作者: 秋月 もみじ
第2章

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第7話 母が遺したもの


 マルタの声は、いつもより少し震えていた。


 「奥様が──お嬢様のお母様が、この泉の研究を始められたのは、もう十五年以上前のことです」


 居室の灯りが揺れている。窓の隙間から入る夕風のせいだ。マルタは母の調合手帳を膝に載せたまま、視線を落としていた。


 「あの頃、わたくしは奥様の研究のお手伝いをしておりました。泉の水を汲み、標本を作り、記録を書き写す──そういう仕事を」


 「……知らなかったわ。マルタが母の研究を手伝っていたなんて」


 「お嬢様がまだ小さい頃のことです。夏のたび、この別荘に来ていたのを覚えていらっしゃいますか」


 覚えている。母に手を引かれて、湯気の立ち上る泉を見に行った。母はいつも手帳を持っていて、泉の前にしゃがみ込んで、何かを書き込んでいた。


 「奥様はこの泉の水質を調べるうちに、気づかれたのです。泉の水に、微量の天然魔力が含まれていることに」


 「わたくしも、同じ結論に辿り着きましたわ。精錬魔法をかけると、泉の水が光る」


 「ええ。奥様も同じ実験をなさいました。──そしてその先を、お調べになった」


 マルタが手帳の頁をめくった。わたくしが読んだ記録の、さらに前。母の筆跡が若く、力強い頁。


 「奥様は、この泉源の地質を調べるために、鉱山技師を雇いました。内密にです。──結果、銀嶺の地下に魔鉱脈が走っていることが確認されました」


 魔鉱脈。


 十二話で立てた仮説が、母によって既に確認されていた。


 「魔鉱脈は、銀嶺の山脈に沿って走っています。この山脈は──ヴェルデン王国とグランツ公国の、国境です」


 国境。


 「つまり、魔鉱脈は一国のものではない。両国の国境地帯を走る、天然の資源だったのです」


 わたくしは黙って聞いていた。頭の中で、地図が広がっていく。銀嶺の山脈。国境線。その地下を走る魔鉱脈。泉源はその上にある。


 「奥様は──発表なさるおつもりでした」


 マルタの声が、少し詰まった。


 「この泉が個人で独占すべきものではないこと。両国にとって貴重な天然資源であること。両国共同で管理し、研究に供すべきであること。──論文を書いておいででした」


 「論文を?」


 「はい。けれど──」


 マルタが手帳を閉じた。


 「──間に合いませんでした」


 病に倒れた。研究は途中で止まった。論文は未完のまま、手帳の最後の頁に一行だけが残された。


 『この泉の本当の力は、まだ誰も知らない』


 (──お母様)


 あの一行は、遺言だったのだ。


 誰も知らない。だから、誰かが知らせなければならない。この泉の力は、一人の魔法使いの禁術ではなく、大地そのものが持つ力だと。


 「お嬢様」


 マルタが顔を上げた。目が赤い。


 「奥様は仰っていました。『いつかリディアが大人になったら、この研究を引き継いでくれるかもしれない。あの子には、わたくしと同じ力がある』と」


 胸が、軋んだ。


 泣かない。泣かないと決めている。


 けれど──母の声が聞こえた気がした。手帳の向こうから。十五年前の、あの夏の日から。


 「……引き継ぎますわ」


 声が出た。


 「母が書けなかった論文を、わたくしが書きます」


 ◇ ◇ ◇


 研究室に戻った。


 母の手帳を、最初の頁から読み直した。泉質の記録。鉱物の分析。地層の断面図。魔力の測定結果。──全てが、一つの結論を指している。


 銀嶺の泉源は、地下の魔鉱脈に接している。魔鉱脈は国境の山脈に沿って走っている。天然の魔力が泉の水に溶出し、精錬魔法と共鳴することで治癒効果が生まれる。


 禁術ではない。地質学的な自然現象だ。


 そして──この泉は、一人の、一国のものではない。


 両国に関わる天然資源。


 (……そうか)


 ペンを取った。


 父上宛ての書状。グレーテ伯爵夫人宛ての書状。二通。


 内容は同じだ。母の研究成果の概要。泉源の地質的特性。そして──両国合同の温泉資源調査会議の開催を提案する、という趣旨。


 合同会議が開かれれば、泉の原理を公的に説明できる。禁術の嫌疑を晴らせる。


 そしてもう一つ。


 泉が「両国に関わる天然資源」であるなら、この泉を管理するリディア・フォン・ヴィンターは「一国から流出する人材」ではなく「両国を繋ぐ人材」になる。


 国益条項は、一国の人材の流出を防ぐための法律だ。けれど、両国の友好に資する婚姻は優先承認される慣例がある。


 泉が両国の共有資源であり、その管理者がグランツ公国の将軍と婚姻するのであれば──それは「人材の流出」ではなく「両国の架け橋」になる。


 国益条項を、真正面から無力化できる。


 (──お母様。あなたの研究が、わたくしの道を拓いてくれるのね)


 書状を書き終えた。封蝋を押す。父上の分は赤。グレーテ夫人の分は紫。


 明朝、発送する。


 ◇ ◇ ◇


 テラスに出ると、カイがいた。


 日が暮れかけている。銀嶺の頂が、最後の陽光を受けて赤い。


 「マルタから聞いた」


 カイが振り向かずに言った。


 「泉の全容。母上の研究。──両国の資源だということ」


 「ええ。……カイ様にも、お伝えしようと思っていましたの」


 「合同会議を提案するつもりか」


 「はい。父上とグレーテ夫人に書状を出しました」


 カイが手すりから身を離した。こちらを向く。


 夕日が横から差して、鋭い目元に影を落としている。


 「この泉は二つの国を繋ぐ」


 低い声だった。将軍の声。戦場で部隊を動かす時の、あの声。


 けれど次の言葉は、将軍のものではなかった。


 「──君も」


 短い。二文字。


 なのに、重い。


 この泉が二つの国を繋ぐように、わたくしも。──道具としてではなく。架け橋として。


 殿下はわたくしを「使い勝手のよい道具」として扱った。名前を呼ばず、成果だけを取り上げた。


 この人は違う。わたくしを国と国を繋ぐ存在として見ている。わたくしの能力を。わたくしの意志を。


 「……ありがとうございます」


 三度目だ。この人の前で、わたくしはいつも同じ言葉しか言えない。


 (……もう少し、語彙を増やした方がいいのかもしれないわね)


 カイの口元が、ほんの僅かに緩んだ。──見えたのか、わたくしの内心が。


 まさか。


 ◇ ◇ ◇


 グリューネヴァルトの執務室は、相変わらず埃っぽかった。


 僕は机に手をついて、ナターシャの言葉を反芻していた。


 「禁術の噂だけでは不十分ですわ、殿下。噂は所詮、噂。グレーテ伯爵夫人のような方が否定すれば、揺らぎます」


 「……ならば、どうする」


 「公的に告発なさいませ」


 ナターシャの目が、いつもの潤んだ瞳とは違う光を帯びていた。


 「禁術の使用は、噂ではなく事実であると。辺境伯としての権限で、魔法省に正式な調査を要請なさるのです。──公的な告発であれば、伯爵夫人の一言では消せません」


 「公的な告発か」


 「ええ。殿下が禁術の使用を告発し、調査が入れば──あの女の宿は営業停止になります。温泉資源の接収も、その後であれば容易ですわ」


 悪くない。


 ──いや、良い。噂で揺さぶるより、公的な手続きで追い詰める方が確実だ。僕には辺境伯としての地位がある。王族の──元王族の名前がある。


 「殿下」


 クラウスの声がした。


 側近は扉の脇に立っていた。いつから聞いていたのか。顔が強張っている。


 「殿下。禁術の公的告発は──証拠なくして行えば、虚偽告発として殿下ご自身の立場を危うくします。ヴィンター家の精錬魔法は三代前から魔法省に登録されており──」


 「黙れ、クラウス」


 「しかし──」


 「黙れと言った」


 クラウスが口を閉じた。


 僕は椅子の背に手をかけて、窓の外を見た。灰色の空。雪の残る痩せた領地。


 あの女は辺境で温泉宿を繁盛させ、隣国の将軍と婚姻しようとしている。僕は──この灰色の小領で、税収の計算もできずにいる。


 「告発する」


 声に出した。


 「両国合同の場で──公的に、リディア・フォン・ヴィンターの禁術使用を告発する」


 ナターシャが微笑んだ。


 「殿下のお名前が、再び輝きますわ」


 クラウスは何も言わなかった。一礼して、退室した。


 廊下に出た側近は、震える手で懐から便箋を取り出した。


 ──もう一通、書かなければならない手紙がある。

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― 新着の感想 ―
急に12話で立てた仮説が出てきて草なんだ どの目線やねん
12話で立てた仮説が…って余りにもメタすぎません? 地の文に入れるなら時期を取り入れたらいいだけでしょうに…
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