第6話 手放すと言っていない
「──保留、ですか」
声が、自分のものではないように聞こえた。
帳場の机の上に、王宮の封蝋が押された書状が広げてある。紋章入りの厚い紙。格式ばった書体。一読して意味を理解するのに、数秒かかった。
もう一度、読む。
『ヴィンター侯爵家令嬢リディア・フォン・ヴィンターとグランツ公国近衛将軍カイ・フォン・シュヴァルツの婚姻申請について、国益に関わる人材の国外流出の懸念から、審査の保留を通知する。追って沙汰あるまで、本件に関する手続きを停止されたし──ヴェルデン王国国王の名において』
保留。
停止。
「お嬢様……」
エルザが、帳面を胸に抱えたまま、こちらを見ていた。何を言えばいいかわからない、という顔だった。
わたくしは書状を丁寧に畳んだ。手が震えないように、意識して指先に力を入れた。
「エルザ。この書状の写しを取って、保管してくれる?」
「……はい」
エルザが書状を受け取って、帳場の奥に消えた。
一人になった。
帳場の窓から、いつもの銀嶺が見える。何も変わらない山の景色。湯気が立ち上り、午後の光を受けて白く輝いている。
(国益に関わる人材の流出)
わたくしのことだ。精錬魔法の使い手。外交実務の経験者。──レオンが「可能性がある」と言っていた、あの条項。
可能性ではなかった。現実になった。
(──誰かが、陛下に進言したのだわ)
禁術の噂。国益条項。時期が重なっている。噂を流して宿の評判を落とし、同時に国益条項を使って婚姻を止める。一つの手ではなく、二つの手を同時に打っている。
差出人のない手紙の内容が、頭をよぎった。アルベルト殿下とゲルハルト子爵の共謀。ナターシャの噂。──殿下が陛下に国益条項の発動を進言したとしても、驚かない。
(あの方は……まだ、わたくしに執着しているのですか)
執着、というのは正確ではない。あの方が欲しいのはわたくし自身ではない。わたくしの能力。わたくしの泉。わたくしの成果。
三年間と、何も変わっていない。
◇ ◇ ◇
テラスに出た。
カイは既にそこにいた。手すりに背を預けて、腕を組んでいる。
書状の内容は、もう知っているのだろう。レオンが先に報告したか、あるいは公国側にも通知が届いたか。カイの目が、いつもより鋭い。
「カイ様」
「ああ」
「……書状を、お読みになりましたか」
「レオンから聞いた」
短い。いつも通り。けれど声の温度が低い。
わたくしは手すりに手をかけた。銀嶺が目の前にある。この景色を見ながら、あの日、この人は「君を迎えたい」と言った。手を震わせて。
あの言葉に応えたことを、後悔していない。
後悔していないからこそ──言わなければならないことがある。
「カイ様。婚約を、白紙に戻しましょう」
空気が止まった。
「わたくしのせいで、カイ様の立場が悪くなっています。公国の近衛将軍が、婚姻申請を保留されるなど──軍人としての信用に関わりますわ」
声は、落ち着いていた。自分でも感心するほど。
三年間磨いた微笑みは、こういう時に役に立つ。感情を出さずに、理路整然と話す。相手を傷つけないように、自分が退く。それがいちばん丸く収まる。いつもそうしてきた。
「わたくしが身を引けば、カイ様の申請に傷はつきません。国益条項も、わたくしが婚姻を辞退すれば──」
「黙れ」
声が、割れた。
カイの声だった。──カイの声だと、一瞬わからなかった。
この人の声は低くて穏やかで、感情を表に出さない。嵐の夜も、使者を追い返した日も、推薦文を読み上げられた時も、いつも同じ温度だった。
今、違う。
「俺は一度も、君を手放すと言っていない」
カイがこちらを向いた。
目がまっすぐだ。怒っているのではない。──いや、怒っている。けれどそれは、わたくしに対してではない。
手が──震えていた。
手すりを握る右手。拳の形になっている。その拳が、微かに震えている。
あの日と同じだ。テラスで「君を迎えたい」と言った時。あの時も、この人の手は震えていた。
(──この人の手が震えるのは、わたくしの前だけだ)
戦場で刀傷を受けても怯まなかった手。嵐の夜に夜通し屋根板を打ちつけた手。事業計画書を何時間もかけて添削した手。
その手が、震えている。
「壁があるなら壊すと言った。壊せないなら回り込むと言った」
カイの声が、低く、強い。
「婚姻が保留されたなら、保留を解かせる。条項が立ちはだかるなら、条項を越える方法を探す。それだけだ」
「でも──」
「身を引くな」
遮られた。
「お前は三年間、誰かのために身を引き続けた。名前を呼ばれなくても黙っていた。成果を取られても笑っていた。──もう、やめろ」
声が荒い。
この人が声を荒げるのを、初めて聞いた。
「俺は、お前の婚約者だ。まだ正式ではないが──そのつもりでいる。お前が身を引くなら、俺がそれを止める。それが、俺の仕事だ」
黙った。
黙るしかなかった。
反論の言葉が、出てこない。出てこないのではない。出す気が、なくなった。
この人は怒っている。わたくしが自分を軽く扱うことに、怒っている。
(──ああ)
殿下は、怒ったことがなかった。わたくしが何をしても、何をしなくても、怒らなかった。関心がなかったからだ。
この人は、怒っている。わたくしのことで。
それが──どれほど、ありがたいか。
「……すみません」
声が小さくなった。
「軽率でした。──もう、言いませんわ」
カイは何も答えなかった。拳を開いて、もう一度手すりを握った。震えが、少しずつ収まっていく。
テラスに、夕風が吹いた。二人とも黙って、銀嶺を見ていた。
◇ ◇ ◇
居室に戻ると、マルタがいた。
老従者は部屋の隅の椅子に座って、膝の上に何かを載せていた。──母の調合手帳だった。
「マルタ?」
「お嬢様」
マルタの声は、いつもより少し低かった。
「……お話の途中でごめんなさいね。でも、もう黙っていられませんの」
「何のこと?」
「お嬢様。奥様のことを──あの手帳の、最後の一行のことを、お話しする時が来たようです」
マルタが、手帳を膝の上で開いた。かすれた文字の頁。母の筆跡。
『この泉の本当の力は、まだ誰も知らない』
「わたくしは知っております」
マルタが、わたくしの目をまっすぐ見た。
「奥様から、直接お聞きしました。──この泉が何であるのか。なぜ奥様が発表をなさらなかったのか」
部屋の灯りが、微かに揺れた。夕風が窓の隙間から入り込んでいる。
「お母様が──あなたに話していたの?」
「ええ。お嬢様。長い話になりますが──聞いてくださいますか」
マルタの手が、手帳の頁をそっと撫でた。母がそうしていたように。
わたくしは、向かいの椅子に腰を下ろした。




