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婚約破棄は予定通りです〜私は既に逃げる準備を終えている〜  作者: 秋月 もみじ
第2章

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第5話 噂は毒、真実は薬


 帳場の予約帳から、名前が消えていく。


 「キャンセルが七件。うち五件は貴族の方々です」


 エルザが帳面を広げた。きっちりまとめた髪の下で、眉間に皺が寄っている。この子がこういう顔をするのは、数字が合わない時だけだ。


 「今月に入ってからの新規予約は──ゼロです」


 ゼロ。


 わたくしは帳面を受け取って、名前の一覧を見た。線が引かれて消されている名前。一週間前まで埋まっていた頁が、白い。


 「理由は聞けた?」


 「二件だけ。どちらも同じことを仰っていました。『禁術の噂がある宿には行けない』と」


 禁術。


 あの噂が、ここまで広がっている。


 グレーテ夫人の手紙を受け取ってから二週間。手を打つ前に、噂の方が速かった。社交界経由の噂は、手紙より足が速い。誰かの茶会で囁かれ、別の誰かの夜会で広まり、また別の誰かの書簡に書かれて──気づいた時には、手の施しようがない。


 (──毒だわ。噂は、毒と同じ)


 じわじわと効いて、気づいた時には体が動かなくなっている。


 「エルザ。村の方々の予約はどう?」


 「そちらは変わりません。地元の方は噂を気にしていないようです」


 「そう。それだけが救いね」


 帳面を閉じた。


 貴族の客がゼロ。村の常連だけでは、宿の運営費用は賄えない。薬湯の原材料費。使用人の給金。修繕費。カイの部下たちの治療契約がなければ、今月中に赤字に転落する。


 (──落ち着きなさい。まだ手はある)


 噂は、否定できる。精錬魔法が禁術でないことは、証明できるはずだ。


 母の調合手帳。泉の分析記録。ヴィンター家の精錬魔法の歴史。──全て文書にまとめて、然るべき場所に提出すればいい。


 「エルザ。わたくしの手が空くまで、帳場をお願いね」


 「はい。──お嬢様、大丈夫ですか」


 「大丈夫よ。数字が赤いだけで、首が飛ぶわけではないもの」


 エルザが、ほんの少しだけ口元を緩めた。


 ◇ ◇ ◇


 研究室に籠もった。


 精錬魔法の原理を、文書にまとめる。


 ヴィンター侯爵家に伝わるこの魔法は、祖母の代から公知の技術だ。三代前のヴィンター侯爵夫人が学術論文として発表し、魔法省に登録されている。禁術の指定を受けたことは一度もない。


 泉の天然魔力についても、母の研究を引き継いだ仮説を書き加える。地下の魔鉱脈から天然魔力が溶出し、精錬魔法と共鳴して治癒効果が高まる──これは地質学的な自然現象であり、術者が意図的に行う「禁術」とは原理が根本的に異なる。


 ペンを走らせながら、ふと思った。


 (三年間、外交文書を書いてきたのは伊達ではないわ)


 論点を整理し、根拠を並べ、反論の余地を潰す。この作業は、大使への報告書と何も変わらない。


 ──違うのは、今回は自分のために書いているということだけ。


 書き上げた文書を読み返した。不備はない。論理の飛躍もない。


 これを魔法省に提出すれば、公的な鑑定を受けられる。鑑定の結果が出れば、噂は覆る。


 問題は時間だ。魔法省の鑑定には、申請から結果まで数ヶ月かかる。その間に宿が潰れては、元も子もない。


 机の上に、もう一通の手紙が置いてあった。今朝届いたばかりの、グレーテ伯爵夫人からの二通目。


 封を切った。


 『リディアさん。先日の件、手を打ちました。昨日のフリードリヒ大使夫人の茶会で、わたくしから申し上げておきました。「ヴィンター家の精錬魔法は三代前から公知の技術です。禁術などという噂を信じる方は、お勉強が足りませんわね」と。──大使夫人を含む六名が、その場で深く頷いておいでした。効果は期待できるかと存じます。追伸。噂の出所を追っておりますが、まだ特定には至っておりません。引き続き探ります。──グレーテ』


 手紙を膝の上に置いた。


 (……グレーテ夫人)


 あの方は、いつもこうだ。頼む前に動いてくださる。母の友人というだけでなく、社交界の機微を知り尽くした人。「お勉強が足りません」の一言で、茶会の空気がどう変わるか──想像がつく。


 噂を流すのは簡単だ。けれど、それを信じることが「無教養」だと烙印を押されれば、貴族たちは手のひらを返す。社交界とは、そういう場所だ。


 まだ完全には消えないだろう。けれど──噂の勢いは、確実に削がれる。


 「ありがとうございます、グレーテ夫人」


 誰もいない研究室で、小さく呟いた。


 ◇ ◇ ◇


 夕方、テラスに出た。


 カイが手すりに肘をついて、山を見ていた。夕日が銀嶺の残雪を赤く染めている。


 「予約の状況は聞いた」


 わたくしが何も言う前に、カイが言った。エルザから聞いたのだろう。


 「ええ。貴族の方々がゼロですわ。禁術の噂のせいで」


 「噂か」


 カイの声に、苛立ちが混じっていた。この人が感情を声に出すのは珍しい。


 「対策は考えております。精錬魔法の原理を文書にまとめて、魔法省に鑑定を──」


 「リディア」


 遮られた。


 カイがこちらを向いた。夕日が、鋭い目元を照らしている。


 「君の能力を疑う人間は、能力がない人間だけだ」


 短い。


 いつも通り、短い。


 けれどその一言に、全部入っていた。傷病兵の回復を見てきたこと。薬湯の調合を間近で知っていること。事業計画書を何時間もかけて添削した上で、わたくしの能力がどの程度のものか──正確に把握していること。


 (──この人は、わたくしの仕事を見ている)


 能力を「信じている」のではない。見て、確かめて、数字で検証した上で言っている。軍人の目で。将軍の判断で。


 信仰ではなく、評価だ。


 だから──重い。


 「……ありがとうございます」


 また同じ言葉になってしまった。もう少し気の利いたことが言えないものかと思うけれど、この人の前では語彙が半分になる。困ったものだ。


 「文書は俺も確認する。軍の治療記録を添付すれば、証拠の厚みが増す」


 「よろしいのですか? グランツ公国の軍の内部記録を──」


 「傷病兵の回復データに機密はない。公開して構わない」


 カイが腕を組んだ。


 「むしろ、この宿の薬湯が潰れる方が軍にとって損失だ。公国としても噂を放置する理由がない」


 (──将軍としての判断と、個人としての判断が、この人の中では矛盾しないのだわ)


 殿下は違った。個人の都合で公務を歪めて、公務の成果を個人の名声にすり替えた。


 この人は逆だ。公の判断の中に、私情を──にじませる。推薦文に書いたように。


 「では、お言葉に甘えますわ。明日、文書をお見せします」


 「ああ」


 カイが山に目を戻した。夕日が沈みかけて、銀嶺の頂が紫に変わっていく。


 テラスに、薬草茶の香りが漂ってきた。ハンナが淹れてくれたらしい。


 ◇ ◇ ◇


 夜。


 研究室の灯りの下で、もう一通の手紙を開いた。


 差出人の名前はなかった。封蝋の紋章もない。無地の封筒に、几帳面な筆跡で宿の住所だけが書かれている。


 中身は短かった。


 『リディア・フォン・ヴィンター様。お名前を記すことはできませんが、あなたに知っていただきたいことがございます。銀嶺の湯に関する「禁術」の噂を流しているのは、ナターシャ・エルストです。彼女は現在、グリューネヴァルト辺境伯に同行しており、辺境伯の指示のもと、王都の社交界に書簡を送っています。さらに申し上げます。辺境伯は、銀嶺地方のゲルハルト子爵と共謀し、貴殿の宿への物資供給路を妨害しています。子爵は辺境伯から「温泉資源の利権の分配」を約束されています。これ以上は書けません。どうかご自愛ください』


 手紙を、机の上に置いた。


 ナターシャ。


 (──あなたでしたか)


 驚きは、なかった。むしろ腑に落ちた。


 侍女仲間に「リディア様は冷たい方ですわ」と囁いていた女。書類を何度も消した女。──あの人が噂を流しているなら、筋は通る。


 そしてアルベルト殿下とゲルハルト子爵の共謀。物資の妨害と噂の流布が、同じ根から出ていた。


 差出人。名前を書けない。けれど辺境伯の内情を知っている人物。几帳面な筆跡。


 (──クラウスさん、ですか)


 殿下の側近。あの真面目な書記官。王宮を去る時、書記官のペーターが「あの方は、何を捨てたのかおわかりになっているのだろうか」と呟いていたと、マルタが教えてくれた。


 王家への忠誠と、殿下個人への忠誠は、別のものだ。そしてこの手紙の主は、前者を選んだのだろう。


 手紙をもう一度読み返した。


 物資妨害の仕掛け人。噂の出所。共謀の構図。──証拠としてはまだ弱い。匿名の手紙では、公的な場で使えない。


 けれど、地図は手に入った。


 敵の配置が見えた。誰が何をしているのか、わかった。


 (焦ることはないわ。証拠は、集めればいい。相手が動けば動くほど、足跡は残る)


 手紙を丁寧に折り畳み、母の調合手帳と同じ引き出しにしまった。


 灯りを消す前に、窓から夜空を見上げた。銀嶺の上に、星がいくつか光っている。


 春の夜風は、まだ少し冷たい。

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社交界で総スカン食らった男爵令嬢の言い分をなんでみんな聞くんだろう、とそこに疑問が。
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