第4話 裏山の抜け道
今週三度目の荷馬車が、来なかった。
帳場の帳簿を開く。食材の在庫。燃料の残量。修繕用の木材と釘。どれも、あと五日分を切っている。
「エルザ。麓の問屋に確認は取れた?」
「はい。問屋の主人は『荷は出した』と言っています。けれど荷馬車が宿に届いていない以上、途中で止まっているとしか──」
エルザが帳面を繰りながら、眉を寄せた。
途中で止まっている。
十日前、ハンナが村で聞いてきた話を思い出す。荷馬車の通り道が、手前の分岐で別の道に回されている。あの時は季節の問題かと思った。
三度続けば、季節のせいではない。
「ハンナは?」
「朝から村に出ています。もう少しで戻るかと」
帳簿を閉じた。
物資が止まれば、宿は回らない。客に出す食事。浴場を温める燃料。壊れた箇所の修繕。どれも麓からの荷馬車に頼っている。
(──誰かが、意図的に止めている)
問屋は荷を出した。宿には届かない。つまり、途中の道で誰かが荷馬車を別の方向へ誘導している。
それができる人間は、限られる。
◇ ◇ ◇
昼前、ハンナが戻ってきた。頬が赤い。走ってきたらしい。
「お嬢様! わかりました!」
「落ち着いて。座りなさい」
「ゲルハルト子爵です!」
ハンナは息を切らしたまま、一気に話した。
分岐のところに、子爵の家の番人が立っていること。荷馬車の御者に「この先は道が崩れている、迂回しろ」と指示していること。けれど道は崩れていないこと。村の男衆が確認に行ったら、何も壊れていなかったこと。
「御者さんが言ってました。『子爵様の番人に逆らえるわけがない』って」
ゲルハルト子爵。
銀嶺地方の有力貴族。地元の名士で、温厚な老貴族──と聞いていた。街道沿いの宿場町に利権を持っていて、地域の交易路の仲介を取り仕切っている人物。
銀嶺の湯が繁盛すればするほど、宿場町の客が減る。わたくしの宿は、子爵にとって商売敵ということになる。
(──なるほど。利権ですか)
アルベルト殿下の使者と、この妨害。時期が近い。偶然かもしれないし、そうでないかもしれない。
けれど今は、目の前の問題を片付ける方が先だ。
「ハンナ。村の皆さんの様子はどうだった?」
「それが──もう動いてくれてます」
「え?」
「村のおじさんたちが、裏山を通る道を使って、荷物を運び上げるって言ってて。今朝から、もう始めてます」
わたくしは目を瞬いた。
裏山のルート。カイが「狭いが、人と馬一頭なら通れる」と言っていた道。冬場の退避路として把握していたあの道を、村の人たちが自分たちで使い始めている。
「……わたくしは、何も頼んでいないわよ」
「はい。でも、村のおばあちゃんが──」
ハンナが、少し照れたように笑った。
「『女将さんが来てから、この村に仕事ができたんだ。恩返しくらいさせてくれ』って」
──恩返し。
三年間。王都で。わたくしは外交文書を書き、茶会を仕切り、晩餐会を企画した。成果は全て殿下の名前で差し出されて、感謝の言葉は一度も返ってこなかった。
ここでは、頼んでもいないのに、村の人たちが裏山を越えて荷物を運んでくれている。
(……あの方が三年かけても手に入れられなかったものを、わたくしはここで)
それ以上は考えなかった。考える必要がない。
「ハンナ。村の皆さんにお礼を伝えて。それと、裏山ルートを使う方々には、帰りに薬湯を無料でお出しすると」
「はい!」
ハンナが飛び出していった。
帳簿を開き直す。裏山ルートで物資が届くなら、当座は凌げる。子爵の妨害への対処は──冷静に、法に基づいて。
(焦ることはないわ。証拠を集めて、然るべき場所に訴えればいい)
◇ ◇ ◇
午後。
カイが帳場に顔を出した。
「薬草の採集に行く。付き合え」
唐突だった。
「……今日ですか?」
「この時期にしか採れない薬草がある。裏山の北斜面に群生している。場所は把握済みだ」
物資の妨害でばたばたしている時に薬草採集。──正直、余裕はない。けれどカイが「この時期にしか」と言うなら、逃すわけにもいかない。季節の薬草は、待ってくれない。
「わかりましたわ。支度してまいります」
背負い籠と採集用の小刀を持って、裏山の道に入った。カイが先を歩く。軍人の歩幅は大きくて、わたくしは小走りになる。
「カイ様。もう少しゆっくり歩いていただけません?」
「……すまない」
歩幅が狭まった。それでもまだ大きい。この人は加減が下手だ。
山道を三十分ほど登ったところで、北斜面に出た。日陰に白い花をつけた薬草が群生している。母の手帳に記載のある、解熱と鎮痛に効く品種だ。
「これですわ。根元から切らないように、茎の途中で──」
言いかけた時、空が暗くなった。
見上げると、山の向こうから黒い雲が迫ってきていた。風が急に冷たくなる。
「降るな」
カイが空を見て、短く言った。
次の瞬間、大粒の雨が落ちてきた。
「こっちだ」
カイに腕を引かれて、岩陰に滑り込んだ。頭上を岩の庇が覆い、雨を遮ってくれる。狭い。大人二人が並んで座れば、肩が触れるくらいの空間。
雨脚が強まった。山道が白く煙る。
「……すみません。採集は中途半端になってしまいましたわね」
「雨は長くない。山の天気だ」
カイは岩壁に背を預けて、淡々と言った。軍人は天候を読むのが仕事の一部なのだろう。
沈黙が降りた。
雨の音だけが、岩陰に響いている。
わたくしは背負い籠を膝に抱えて、雨を見ていた。銀嶺の上半分が雲に隠れて見えない。
「……カイ様」
「ああ」
「少し、昔の話をしてもよろしいですか」
何故そう言ったのか、自分でもわからない。雨の音のせいかもしれない。岩陰の薄暗さのせいかもしれない。隣に座っている人の体温のせいかもしれない。
「三年間」
声が、思ったより小さく出た。
「わたくしは三年間、王都の宮廷で──名前を、呼ばれませんでした」
雨音。
「外交文書を書きました。茶会を仕切りました。晩餐会を企画しました。全部、殿下の名前で差し出されて。わたくしの名前は、一度も」
岩陰が暗い。カイの顔は、よく見えない。
「辛くなかったと言えば嘘になりますわ。でも──辛いと思うことすら、贅沢だと思っていました。婚約者とは、そういうものだと」
言葉が、止まらなかった。
一年間、誰にも言わなかったこと。マルタにも、エルザにも、ハンナにも。
「名前を呼ばれないのは──存在しないのと同じなんです。三年間、わたくしはあの宮廷で、透明でした」
雨が、強くなった。
カイは何も言わなかった。
ただ──左手が、伸びてきた。
わたくしの右手を、握った。
大きくて、固くて、温かい手。
何も言わない。言葉はない。ただ、握っている。
(──この手は)
この手は、嵐の夜に屋根板を打ちつけた手だ。事業計画書に赤字を入れた手だ。外套を肩にかけた手だ。
そして今、わたくしの手を握っている。
涙は出なかった。出す気もなかった。
けれど──手の中の温かさが、胸の奥まで届いた。
雨は、十五分で上がった。
カイが言った通りだった。山の天気。
手は、雨が上がるまで離れなかった。
◇ ◇ ◇
宿に戻ると、レオンが廊下を歩いていた。
将軍の執務室──宿の二階の角部屋を、カイは滞在中の執務室として使っている──の扉が開いていて、中から書類の束が見えた。
ふと、目に留まった。
机の端に、事業計画書の添削紙が重ねてある。カイが赤字を入れたあの書類だ。──が、一部の頁だけ、別の紙挟みに分けて置かれている。
何気なく手に取った。
紙挟みの中身は、全てリディア──女将さんの筆跡の頁だった。彼女が書いた提案書。収支の見通し。薬湯の配合記録の写し。
赤字の添削紙は混在しているのに、女将さんの直筆の頁だけ、別にしてある。
(……将軍)
レオンは紙挟みをそっと元の位置に戻した。
何も見なかった。そういうことにした。
◇ ◇ ◇
夕刻。
帳場で、一通の手紙を開いた。
グレーテ伯爵夫人からだった。
母の友人。社交界で噂を否定してくれた恩人。あの方からの手紙は、いつも美しい筆跡で短く、要点だけが書かれている。
今回も短かった。──けれど、内容は短くなかった。
『リディアさん。不愉快なことを書きますが、知らせないわけにはいきません。王都の社交界で、あなたについて新しい噂が流れ始めています。「銀嶺の湯の女将は、禁術を使って薬湯を調合している」と。出所はまだ掴めていませんが、広まる前に手を打った方がよいでしょう。──グレーテ』
手紙を、膝の上に置いた。
禁術。
(──誰が、そんなことを)
窓の外に目をやった。夕日が銀嶺を染めている。穏やかな春の山だ。
その山の向こうで、何かが動き始めている。




