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婚約破棄は予定通りです〜私は既に逃げる準備を終えている〜  作者: 秋月 もみじ
第2章

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第3話 勅令なき者に権利なし


 「王家に連なる辺境伯閣下の命により、この泉源の調査を──」


 応接間に通した使者は、痩せた中年の男だった。仕立ての良い外套に辺境伯の紋章入りの書筒。アルベルト殿下──いえ、今はグリューネヴァルト辺境伯か。


 (……また、ですか)


 一年前は「戻れ」だった。今度は「調査させろ」。


 手を変え品を変え、とはこのことだ。


 使者の傍らに、マルタが静かに立っている。わたくしが応接間に入った時、老従者の目が一瞬だけ鋭くなったのが見えた。


 「──失礼。もう一度仰っていただけますか」


 「はい。グリューネヴァルト辺境伯アルベルト閣下の命により、銀嶺の泉源について調査権を行使いたしたく参上しました。温泉資源は天然資源であり、国益に関わる資源として──」


 「お待ちくださいませ」


 わたくしは、微笑んだ。


 三年かけて磨いた微笑みだ。王都の社交界で、どんな無理難題を持ちかけられても崩さなかった笑顔。


 「一つ、確認させてくださいませ。辺境伯閣下の『命』と仰いましたが──閣下は、この泉源に対してどのような法的権限をお持ちですか」


 使者の口が、僅かに止まった。


 「……辺境伯としての統治権に基づき──」


 「辺境伯の統治権は、ご自身の領地内に限られますわ。銀嶺の泉源はグリューネヴァルト領内にはございません」


 使者が書筒を握り直した。


 「しかし、温泉資源は天然資源であり、国益に関わる資源として認定されれば──」


 「認定されれば、ですわね」


 わたくしは椅子の背に手を添えて、ゆっくりと続けた。


 「国益に関わる資源の認定には、魔法省の学術的調査と、国王陛下の勅令が必要です。辺境伯の命令では、認定も調査も行えません」


 使者の顔が強張った。


 「さらに申し上げますわ」


 書棚に手を伸ばした。一冊の帳面。父が仕込んだ婚約契約書の控え。──もう婚約は破棄されているけれど、この契約書に記された法理は生きている。


 「この泉源は、ヴィンター侯爵家の私有財産です。個人所有の泉源に対する調査には、所有者の同意か、国王陛下の勅令が必要ですわ。──勅令は、お持ちですか」


 使者が沈黙した。


 持っているわけがない。勅令があるなら、最初にそれを見せるはずだ。


 「……お持ちでないようですわね」


 わたくしは書筒を丁寧に使者の手に戻した。


 「勅令もなしに、調査権は発生いたしません。辺境伯閣下にはそうお伝えくださいませ」


 使者が口を開き、閉じた。もう一度開き──結局、何も言わずに頭を下げた。


 「……失礼いたしました」


 応接間の戸が閉まった。


 蹄の音が遠ざかっていく。


 わたくしは小さく息を吐いた。肩の力が抜ける。──笑みも、同時に消えた。


 「お嬢様」


 マルタが、茶を運んできていた。


 「……ありがとう、マルタ」


 受け取った茶碗が、ほんの少し揺れた。


 (……怖くはなかった。怖くはなかったけれど──煩わしい)


 あの方はまだ、わたくしの持ち物に手を伸ばすのだ。婚約者だった三年間、わたくしの書いた文書を自分の名前で差し出し、成果だけを取り上げた。今度は泉を。


 (──でも、もう渡さない。この泉は、わたくしのものだ)


 茶を一口飲んだ。カモミールの甘さが、強張った喉に染みた。


 ◇ ◇ ◇


 テラスで、カイに報告した。


 「辺境伯の使者が来ましたわ。泉の調査権を要求して」


 「断ったのか」


 「ええ。勅令がなければ法的根拠がございませんもの」


 カイは腕を組んだ。眉間に、薄い皺が刻まれている。将軍の顔だ。


 「辺境伯が動いているということは、泉の価値に気づいている」


 「のようですわね。──奇跡の湯の評判は、あちらにも届いているのでしょう」


 「次の手を読む必要がある」


 カイが手すりから身を離した。


 「法的に正面からは通らないとわかれば、別の手段を探る。物資の供給路を押さえる。地元の有力者を抱き込む。──軍ならそうする」


 「物資の供給路、ですか」


 「この宿は、麓の街道からの物資に頼っている。その道が止まれば、宿は干上がる」


 わたくしは少し考えた。


 確かに、食材も燃料も修繕資材も、全て麓からの荷馬車で運んでいる。街道整備のおかげで道は良くなったけれど、その道が使えなくなれば──


 「カイ様。この辺りの地形で、別の補給路は確保できますか」


 「裏山を越える道がある。狭いが、人と馬一頭なら通れる。冬場の退避路として把握済みだ」


 「ではそちらのルートの状態も、確認しておいた方がよさそうですわね」


 カイが、ほんの一瞬、こちらを見た。


 「……君は、こういう話になると速いな」


 「外交文書を三年も書いておりますと、嫌でも補給線に詳しくなりますの」


 「なるほど」


 カイの口元が、僅かに緩んだ。──ほんの少しだけ。見逃すくらいの。


 ◇ ◇ ◇


 テラスから縁側に移り、二人で宿の運営書類を広げていた時のことだ。


 カイの外套の左胸に、銀の釦が一つ、ぐらぐらしているのが目に入った。


 糸が切れかけている。あと一日も持たない。


 「カイ様」


 「何だ」


 「お外套の釦が取れかけておりますわ。──お繕いしましょうか」


 カイの手が、止まった。


 「……気にしなくていい」


 「気になりますわ。将軍の外套に釦が取れたままでは、部下の方に示しがつきませんでしょう」


 正論だ。正論で押した。


 カイは一瞬黙ってから、低い声で言った。


 「……頼む」


 外套を脱いで、こちらに差し出した。


 受け取った。ずしりと重い。濃紺の布地は使い込まれて、肩の部分が少し色褪せている。裏地に補修の跡が二箇所。──この人は自分で繕っているのだ。不器用な縫い目が、妙に微笑ましかった。


 裁縫箱を持ってきて、縁側に座った。針に糸を通す。釦を押さえて、一針ずつ。


 (……こんなことをするのは、初めてだわ)


 殿下の服を繕ったことは、一度もない。


 三年間の婚約中、殿下の身の回りの世話は侍女たちの仕事だった。わたくしの仕事は書類。外交文書と報告書と礼状と段取り。殿下の釦が取れていても、わたくしが触れることはなかった。


 触れたいと思ったことも──正直、なかった。


 (なのに今、この人の外套を繕っているのは、何だろう)


 将軍の外套は大きい。わたくしの膝の上に広げると、裾が縁側の板にかかった。


 針を刺す。糸を引く。釦が固定される。


 「──できましたわ」


 顔を上げると、カイがこちらを見ていた。


 見ていた、というより──視線を逸らし損ねた、という顔だった。耳が赤い。首の後ろまで赤い。


 「ありがとう」


 短い。いつも通り。


 外套を受け取る手が、ほんの少しだけ、ぎこちなかった。


 (……風邪でも引いたのかしら。顔が赤いけれど)


 聞くのも野暮だと思い、わたくしは裁縫箱を片付けた。


 ◇ ◇ ◇


 夕刻。


 帳場に、ハンナが駆け込んできた。


 「お嬢様! ちょっと気になることがあって──」


 息を切らしている。薬草の採集帰りらしく、背負い籠に蓬が山盛りだ。


 「落ち着きなさい、ハンナ。何があったの」


 「村の人たちに聞いたんですけど、最近、荷馬車の通り道が変わったみたいなんです」


 「変わった?」


 「はい。いつもは街道をまっすぐ上がってくるのに、ここのところ、手前の分岐で別の道に回されているって。村のおじさんたちが不思議がっていて」


 わたくしは眉を寄せた。


 荷馬車の道が変わった。分岐で別の道に回されている。


 季節の問題だろうか。雪解けで道が緩んで、迂回しているのかもしれない。春先にはよくあることだと聞いている。


 「……もう少し詳しく聞いてきてくれる? いつ頃から変わったのか、誰の指示なのか」


 「はい! 明日、また村に行ってきます!」


 ハンナが元気よく頷いて、帳場を出ていった。


 わたくしは帳場の帳簿を開いた。今週の物資の納入状況を確認する。


 ──今のところ、目立った遅れはない。


 (気のせいかもしれないわ)


 帳簿を閉じた。


 窓の外で、夕日が銀嶺の残雪を橙色に染めている。穏やかな春の夕暮れだった。


 何も起きていない。まだ、何も。

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