第2話 母の手帳、もうひとつの秘密
母の調合手帳の最後の頁には、かすれた文字で三行だけ書かれていた。
『この泉の本当の力は、まだ誰も知らない』
一年前に初めて読んだ時から、ずっと引っかかっている。
母は適当なことを書く人ではなかった。調合手帳の他の頁は全て正確な記録だ。泉質の分析。湯温の推移。季節ごとの薬草の効能変化。几帳面な筆跡で、一つの誤りもなく書かれている。
なのに、最後の頁だけが違う。文字が震えている。説明がない。まるで、書き切る前に力が尽きたように。
(お母様。あなたは、何を見つけていたの)
わたくしは宿の奥の部屋を研究室にしていた。母の手帳と、泉から汲んだ湯の標本。それから──精錬魔法。
ヴィンター家に代々伝わるこの魔法は、薬草の効能を高めるだけのものだと思っていた。けれど試しに、薬草ではなく泉の湯に直接かけてみたらどうなるか。
「マルタ。あの小瓶を取ってくれる?」
「こちらですか」
マルタが棚から硝子の小瓶を差し出した。今朝、泉から汲んだばかりの湯が入っている。乳白色。微かな硫黄の匂い。
小瓶を手のひらに載せ、精錬魔法を──ほんの微かに、流す。
湯が、光った。
淡い青白い光が、硝子の内側を一瞬だけ照らして消えた。
「……お嬢様、今の」
「見えた?」
「光りましたわね。確かに」
二度、三度と繰り返す。同じだ。精錬魔法を流すたびに、湯が応じるように光る。
普通の湯なら、こうはならない。薬草に精錬魔法をかければ効能が高まる──それは知っている。けれど、湯そのものが魔法に反応するなど、手帳のどこにも書かれていない。
つまり、この泉の水には、精錬魔法と共鳴する何かが含まれている。
(……魔力だわ)
天然の魔力。泉の水に、微量の魔力が溶け込んでいる。
精錬魔法が薬草の効能を高めるのと同じ原理で、泉に含まれる天然の魔力と共鳴し、治癒効果を飛躍的に引き上げている。だから傷病兵の傷がありえない速さで治った。わたくしの精錬魔法だけでは説明のつかない回復力の正体は、これだ。
では、天然の魔力はどこから来る?
母の手帳を遡った。泉質の記録。鉱物の分析。地層の断面図──母は、この泉の地質まで調べていた。
頁の隅に、小さなメモ。
『銀嶺の地下。魔鉱脈の可能性あり。要調査』
魔鉱脈。
魔力を帯びた鉱物の脈が地下を通っていて、そこに泉源が接している。だから天然の魔力が水に溶出する。
仮説としては筋が通る。けれど、確証はまだない。
「お嬢様。お母様は、この先を調べる前に──」
「ええ」
病に倒れた。研究は、途中で止まっている。
小瓶を光にかざした。乳白色の湯の中に、ほんの微かな青白い粒子が漂っているように見える。
(お母様の仮説が正しいなら──この泉の力は、わたくしの魔法のせいではない。地質そのものの力だ)
それはつまり──「禁術」などではない、ということだ。
誰かに疑われたわけではない。けれど「奇跡の湯」という評判は、いずれ疑いを呼ぶ。精錬魔法の使い手が運営する温泉で、傷がありえない速さで治る。怪しいと思う人間が出てきてもおかしくない。
証明できる手段は、持っておいた方がいい。
「もう少し調べるわ。母の仮説を、わたくしが引き継ぐ」
マルタがゆっくりと頷いた。
「お母様も、お喜びになりますよ」
◇ ◇ ◇
縁側で、遅い朝の茶を淹れた。
薬草茶。母の手帳にある配合で、わたくしが毎朝淹れている。カモミールの花と、乾燥させた白檜の若葉と、ほんの少しの蜂蜜。
カイが縁側の柱に背を預けて座っていた。レオンがその隣。二人とも軍務の合間に立ち寄ったらしく、軍服のまま。
「どうぞ。薬草茶ですわ」
茶碗を差し出す。カイが受け取った。
レオンにも一つ渡すと、赤毛の副官は片手でひょいと受け取って、すぐに口をつけた。
「うまい。女将さんの茶は本当にうまいですね」
「ありがとうございます」
カイは──黙って、茶碗を両手で包むように持った。
湯気が立ち上る。カモミールの甘い香り。カイの大きな両手が、茶碗をすっぽり覆っている。
「将軍。それ」
レオンが、小声で言った。
「何だ」
「いや……また両手ですよ」
「茶碗が熱いだけだ」
「俺のと同じ茶碗で、同じ温度ですけど」
「黙って飲め」
カイの声が一段低くなった。レオンが「はいはい」と肩をすくめる。
(……何の話かしら)
よくわからないが、レオンさんがカイ様をからかっているのだろう。この二人はいつもこうだ。
わたくしは自分の茶碗を片手で持って、一口飲んだ。──うん、今日は蜂蜜を少し多く入れすぎたかもしれない。
「カイ様。少しお時間をいただけますか。お見せしたいものがありますの」
「ああ」
カイは茶碗を飲み干して──丁寧に、縁側の板の上に置いた。
◇ ◇ ◇
研究室の机に、母の手帳と標本の小瓶を並べた。
「泉の水に天然の魔力が溶出している可能性があります」
小瓶に精錬魔法をかけて見せた。青白い光が一瞬、硝子の中を走る。カイの目が細まった。
「母の手帳には、銀嶺の地下に魔鉱脈が通っている可能性が記されていました。もし仮説が正しければ、薬湯の治癒力はわたくしの魔法だけによるものではありません。泉の地質そのものが持つ力です」
カイは黙って聞いていた。腕を組み、小瓶を見つめている。
「……つまり、君の精錬魔法と、泉の天然魔力が共鳴して、効果を高めている」
「はい。まだ仮説の段階ですが」
「仮説が証明されれば、この泉は──」
カイが言葉を切った。顔つきが変わっている。将軍の顔だ。
「一宿の話ではなくなるかもしれないな」
「……どういう意味でしょう」
「天然の魔鉱脈に接した泉源。傷病兵の治療に効果がある薬湯。軍事的にも、外交的にも──価値が跳ね上がる」
わたくしは少し考えた。
軍事的価値。外交的価値。──確かにそうだ。傷病兵の回復を早める泉は、軍にとっては戦力の維持に直結する。そして天然の魔鉱脈が国境付近に存在するとなれば、それは一宿の経営者の手に余る話になりかねない。
「まだ確証はありませんわ。焦る必要はないかと」
「ああ。だが──調べる価値はある」
カイが腕組みを解いて、母の手帳に目を落とした。
「君の母上は、優秀な研究者だったようだ」
「……ええ。わたくしなどより、ずっと」
「君も同じだ」
短い。いつも通り。
返す言葉が見つからなくて、わたくしは手帳の表紙に目を落とした。母の筆跡で書かれた名前。使い込まれた革の表紙。
(お母様。わたくしが、続きを調べますわ)
◇ ◇ ◇
グリューネヴァルトの執務室は、埃っぽかった。
僕は机の上に広げた税収報告書を睨みつけていた。数字が並んでいる。ただそれだけの紙のはずなのに、読み方がわからない。
いや──読み方は知っている。税収の合計。支出の内訳。差し引き。そのくらいはわかる。
問題は、差し引きの結果がほぼ零だということだ。
「殿下。今期の税収ですが──」
側近のクラウスが横から帳簿を差し出した。
「見ればわかる」
わかっていない。数字の羅列が、頭に入ってこない。王都の執務机には、いつも整理済みの報告書が置かれていた。要点だけをまとめた一枚紙。署名すればそれで済んだ。
あれを誰が作っていたか──今は、考えたくない。
「……ナターシャ。何か良い策はないか」
窓際の椅子で刺繍をしていたナターシャが、顔を上げた。
「あら、殿下。わたくしに政のことは……」
「わかっている。だが、何かないか。このままでは領地が持たない」
ナターシャは刺繍の手を止めて、少し考える素振りを見せた。
「……殿下。あの温泉のことですけれど」
「温泉?」
「銀嶺の湯ですわ。リディア様が辺境で始められた宿。奇跡の湯と評判で、隣国の軍人まで通っているとか」
僕の眉が動いた。
「あの女の宿が、そんなに繁盛しているのか」
「ええ。──殿下のご領地からも、そう遠くはありませんわ。あの泉を手に入れれば、殿下の領地は豊かになります」
「手に入れる? あの女が渡すわけがないだろう」
「渡していただく必要はございませんわ」
ナターシャの声が、ほんの少し甘くなった。
「温泉は天然資源ですもの。国益に関わる資源と認定されれば、国が買い取り権を行使できます。殿下は王族でいらっしゃいますわ。──いえ、元王族でも、陛下に進言する権利くらいはおありでしょう?」
僕はナターシャの顔を見た。潤んだ大きな目。いつもの、あの目。
「……国益に関わる資源、か」
「ええ。殿下が辺境の資源を発掘して、領地を復興された──そうなれば、陛下もお認めくださいますわ」
悪い案ではない。
──いや。良い案だ。
あの女の温泉が「国益に関わる資源」なら、個人で独占させておく道理はない。僕は辺境伯として、この地域の資源を管理する立場にある。
「クラウス」
「はい、殿下」
「銀嶺の泉源について、調べろ。法的に接収が可能かどうか。──温泉資源に関する法令を、全て集めてこい」
クラウスが一瞬、口を開きかけた。何か言いたそうな顔だった。
「……承知いたしました」
一礼して退室する側近の背中を見送りながら、僕は椅子に深く腰を沈めた。
(──あの女の成功は、僕の資源で成り立っている。取り返すだけだ)
窓の外に、灰色の空が広がっていた。グリューネヴァルトの冬は長い。雪が降り積もる小さな領地に、銀嶺のような湯気は立ち上らない。




