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婚約破棄は予定通りです〜私は既に逃げる準備を終えている〜  作者: 秋月 もみじ
第2章

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第1話 帰路の銀嶺


 馬車の窓から見える銀嶺は、春の陽光を受けて、あの日とは違う色に輝いていた。


 あの日──一年前、王都を逃げるように出た朝。朝靄が山肌を覆って、銀嶺の頂は見えなかった。


 今日は、よく晴れている。


 「お嬢様。ぼんやりなさっていますね」


 向かいの座席で、マルタが小さく微笑んでいた。


 「……ぼんやり、していたかしら」


 「ええ。領主会議の後からずっと」


 していた。自覚はある。


 昨日のテラスの声が、まだ耳の奥に残っている。低くて、かすれていて、手が震えていた。


 『君を──迎えたい』


 ……思い出すだけで耳が熱くなるのは、どうにかならないものかしら。馬車の中で一人赤くなるなど、正気の沙汰ではない。


 (正気ではないのかもしれない。昨日から、ずっと)


 「マルタ。正式な手続きはこれからよ。公爵への許可。陛下の認可。時間はかかるわ」


 「ええ。ですが、お嬢様」


 マルタが、ほんの少し声を落とした。


 「お嬢様が笑っておいでです。それだけで、充分でございます」


 ──笑っている。わたくしが。


 窓の外を見た。山道の脇を流れる小川が、雪解け水で膨らんでいる。馬車が揺れるたびに、針葉樹と硫黄の混じった空気が入り込んでくる。


 帰ってきた、と思った。


 ◇ ◇ ◇


 宿の前に着いた時、最初に聞こえたのはハンナの声だった。


 「お嬢様──っ!」


 馬車から降りるなり飛びつかれた。目が真っ赤だ。またか。この子は本当に涙腺が緩い。


 「おかえりなさいませ、お嬢様──!」


 「ただいま。ハンナ、鼻水」


 「ふぇっ」


 その後ろから、エルザが帳面を胸に抱えて小走りで出てきた。髪はきっちり。顔は生真面目。──口元だけが緩んでいる。


 「おかえりなさいませ。ご不在中の宿泊状況をまとめてございます」


 「ありがとう。後で見るわ」


 玄関の向こうに、見慣れた顔がずらりと並んでいた。


 村の老婦人。若い夫婦。薬草園を手伝ってくれている男衆。厨房に野菜を卸してくれるおじさん。


 「女将さん、おかえり!」


 「領主会議、大変だったでしょう!」


 「女将さんが来てからよ、この村に人が戻ったのは! 胸張って帰ってきてくださいよ!」


 次々と声がかかる。老婦人がわたくしの手をぎゅっと握った。節くれだった手。一年前と同じ温かさ。


 「お母様も、きっとお喜びですよ」


 ──一年前、王都では、わたくしの名前は一度も呼ばれなかった。


 ここでは、みんなが「女将さん」と呼ぶ。わたくしの顔を見て。わたくしに向かって。


 たったそれだけのことが、こんなに温かい。


 「……ありがとうございます。ただいま、戻りました」


 泣きはしない。泣かないと決めている。


 ◇ ◇ ◇


 帳場で書類を広げていると、玄関に蹄の音がした。


 カイだった。


 昨日の旅装ではない。濃紺の軍服。銀の釦。胸の階級章。──正装だ。


 (……わざわざ着替えてきたのね)


 その几帳面さは、事業計画書を何時間もかけて赤字だらけにする人らしいと思った。


 隣に副官のレオンが控えている。いつもの人懐こい顔──だが、目だけは鋭い。


 テラスに案内した。昨日、あの言葉を聞いた場所。


 「改めて報告する」


 カイは背筋を伸ばし、こちらを見た。


 「グランツ公国への婚姻申請を、本日付で正式に開始した。俺の名と、公国近衛将軍の官職名で」


 官職名で。


 それは、軍人としての信用を全て賭けた、ということだ。


 「……ありがとうございます」


 「手続きには時間がかかる。公爵の許可、両国の国王の認可。書面のやり取りだけで、最短三ヶ月」


 「ええ。覚悟しておりますわ」


 「だが──」


 カイが一歩、近づいた。


 大きな手が、わたくしの右手を取った。


 ペンだこがあって、薬草の匂いが染みついて、爪の際に小さな火傷の痕が残っている手。三年間、外交文書を書き続けた手。この一年は薬湯を調合し、帳簿をつけ、岩を積み直した手。


 お世辞にも淑やかとは言えない。


 カイの手は、それを包んで余りある大きさだった。


 「今後は──この手を、一人で酷使させない」


 ……短い。いつも通り、短い。


 なのに、全部入っている。わたくしの仕事を見ていたこと。一人で抱えてきたと知っていること。


 (──殿下は、三年間一度も、わたくしの手を見なかったわ)


 比べるつもりはない。もう関係のない方だ。──けれど、勝手に浮かんでくるものは仕方がない。


 「……ありがとうございます」


 同じ言葉を二度も言ってしまった。語彙が貧困にもほどがある。外交文書を何百通も書いた人間の台詞とは思えない。


 カイは何も言わず、手を離した。


 「それで」


 レオンが一歩、前に出た。


 声はいつも通り軽い。──けれど今は、ほんの少し硬い。


 「女将さん。一つ、お耳に入れておきたいことがありまして」


 「何でしょう」


 「ヴェルデン王国には『国益条項』という制度がございます」


 聞いたことのない名前だった。


 「国益に関わる能力を持つ人材が、他国に流出するのを制限できる──という法律です。精錬魔法の使い手。外交実務の経験者。条件は、いくつかありまして」


 レオンの目が、一瞬だけ、笑みを消した。


 「女将さんの能力は、この条項に該当する可能性があります」


 精錬魔法。外交実務。


 ──わたくしのことだ。


 「つまり、ヴェルデン王国側が婚姻を認めない可能性がある、と」


 「可能性の段階です。発動されたわけではありません。ただ、知らずにいるよりは」


 レオンが頭を下げた。


 テラスに風が吹いた。春の風のはずなのに、少し冷たかった。


 (……壁ですか)


 一年前にも壁はあった。殿下の無関心。ナターシャの噂。けれどあれは、わたくし一人で越えられる壁だった。


 今度は国の法律だ。一人ではどうにもならない。


 「リディア」


 カイの声がした。


 手すりに背を預けて、銀嶺を見ている。山頂の残雪が、午後の光を受けて白い。


 「壁があるなら壊す。壊せないなら、回り込む」


 振り向いた。


 「俺は軍人だ。障害の前で立ち止まったことはない」


 ──短い。相変わらず、短い。


 (この人は本当に、大事なことほど短く言う)


 反論する材料がない。というより、反論する気にならない。嵐の夜に駆けつけ、夜通し屋根板を釘で打ちつけた人が言う「壁なら壊す」は、比喩ではなく事実報告だ。


 「……では、壁の向こう側でお茶を用意しておきますわ」


 カイが、僅かに口元を緩めた。


 後ろでレオンが小さく溜息をついた。呆れたのか安堵したのか、判別がつかない。──たぶん両方だろう。


 テラスの向こうに、銀嶺が広がっている。


 谷間から湯気が立ち上り、春の靄と溶け合って、薄桃色に煙っていた。


 壁はある。


 でも──手続きは時間がかかるだけだ。三ヶ月。待てばいい。きっと、大したことにはならない。


 そう思っていた。

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