第10話 銀嶺の朝に
春の風が、銀嶺の残雪を溶かし始めていた。
一年前、この山に降り立った時は、まだ冷たい朝靄が山肌を覆っていた。今日もまた靄が出ている。けれど、その向こうに見える景色は——あの頃とは、まるで違う。
銀嶺の湯は、今や辺境で最も賑わう宿になっていた。
◇ ◇ ◇
朝の帳場で、エルザから報告を受けた。
「お嬢様。本日の予約は八組。うち二組は、グランツ公国の貴族の方々です」
「ありがとう、エルザ。お部屋の準備はできている?」
「もちろんです。ハンナが花を活けております」
帳場の窓から庭を見る。あの荒れ放題だった庭は、今は手入れされた薬草園に変わっている。エルザが管理する帳面の棚。ハンナが毎朝活ける季節の花。マルタが淹れる薬草茶の香り。
ここは——わたくしの居場所だ。
「お嬢様。それから、王都から書状が届いております」
エルザが差し出した封書を開いた。
父上からだった。短い文面。
『アルベルト殿下の辺境転封、ならびにナターシャ・エルストの宮廷追放が正式に発表された。違約金は分割で全額支払われる見込みである。——これで全て終わった。体に気をつけなさい。父より』
書状を畳んだ。
「……そうですか」
エルザがこちらを窺っている。
「何かございましたか」
「いいえ。もう関係のないお話ですわ」
穏やかに、そう答えた。
転封。追放。制度的な決着。殿下とナターシャに下された処分は、自業自得の帰結でしかない。
(もう、あちらの方のことは存じません)
それが——一番の「ざまぁ」だと、わたくしは知っていた。怒りでもなく、嘲りでもなく、ただ、もう関心がないということ。
◇ ◇ ◇
昼過ぎ。
馬の蹄の音がして、宿の前に人影が現れた。
カイだった。
軍服ではない。飾り気のない旅装。背中の旅嚢は小さく、長い旅をしてきた様子ではない。
「いらっしゃいませ、カイ様。本日はお湯ですか」
「いや。今日は——別の用だ」
声が低い。いつもより、ほんの少し。
テラスに案内した。露天風呂を望むテラス。ここからは銀嶺の山脈が一望できる。わたくしがこの宿で一番好きな場所だ。
カイはテラスの手すりに手をかけ、山を見つめていた。
「リディア」
名前を呼ばれた。いつもは「女将」か「君」なのに。
「はい」
カイがこちらを向いた。
——手が、震えていた。
あの、嵐の夜に夜通し修復作業をしても平然としていた手。戦場で刀傷を負っても怯まなかった手。その手が、今、微かに震えている。
「俺は——将軍としてではなく、一人の男として言う」
声が、僅かにかすれた。
「君を——迎えたい。公式の手続きは、これからだ。公爵への許可も、陛下の認可も。だが……まず、君自身に聞きたかった」
時間が止まった。
「レオンに指摘されるまで気づかなかった。けれど——あの嵐の夜に、外套をかけた時から」
カイの声が低く、静かに続いた。
「君を守りたいと思っていた」
わたくしは——黙っていた。
黙ったまま、カイの顔を見つめていた。
鋭い目元。日に焼けた肌。低い声。何も変わらない。初めて宿に来た時と、同じ人だ。
でも、わたくしの目には——あの時とは、まるで違って見えた。
口では何も言わないけれど、行動で示してきた人。嵐の夜に駆けつけた人。事業計画書を何時間もかけて添削した人。推薦文に私情をにじませた人。
信じていた。信じていたのだ。
——信じてよかった、が正しい。
涙が出た。
初めてだった。
王宮を離れた日も、嵐の夜も、使者を追い返した日も、一度も泣かなかった。
でも今、涙が止まらない。
「……はい」
声が震えた。
「はい。——よろしくお願いいたします」
カイの目が見開かれた。
それから——あの不器用な笑顔が、もう一度。
◇ ◇ ◇
テラスに、二人で並んだ。
朝日が銀嶺の残雪を照らし、山脈がゆっくりと橙色に染まっていく。谷間から湯気が立ち上り、靄と溶け合って——七色に、煙っている。
カイの手が、わたくしの手にそっと触れた。大きくて、温かくて——もう、震えていなかった。
風が吹いた。春の風だ。
わたくしは銀嶺を見上げて、小さく呟いた。
「ここが、わたくしの居場所です」




