第1話 ありがとうございます
「——リディア、お前との婚約を破棄する」
薔薇園の空気が、一瞬で凍った。
……ああ、やっと言ったのね。
わたくしは内心でそう思いながら、目の前の第三王子——アルベルト殿下の顔を見上げた。
よく晴れた午後だった。手入れの行き届いた薔薇が咲き誇る庭園に、殿下の声だけがやけに大きく響いている。
殿下は胸を張っていた。困っている顔ではない。むしろ晴れやかですらある。
「お前は悪くない。ただ——俺にはもっとふさわしい女性がいた、ということだ」
ふさわしい女性。
殿下の傍らで、その「ふさわしい女性」が小さく身じろぎした。
ナターシャ。わたくしの侍女。殿下の袖口にそっと指先を添えて、潤んだ大きな目で殿下を見上げている。
——あの潤んだ目。半年間、何度見たことか。よくできた芝居だと思う。
(——でもね、ナターシャ。あなたの指が殿下の袖に触れているの、周りの人たちにも丸見えよ)
わたくしの侍女が。わたくしの婚約者に。衆人の前で。
周囲には数名の貴族たちが、茶会の帰りに足を止めてこちらを見ていた。遠巻きにひそひそと囁き交わす声。殿下はそれを気にする様子もない。むしろ見せつけている。
「聞いているのか、リディア」
殿下が苛立ったように眉を寄せる。
——ええ、聞いていますわ。半年前から、この日が来ることを知っていましたもの。
わたくしは背筋を伸ばした。
三年かけて磨いた姿勢で。一度も崩さなかった微笑みで。
——そして、誰より深い礼の角度で。
「ありがとうございます」
声が出た。自分でも驚くほど穏やかに。
殿下が瞬いた。一度。二度。三度。
ナターシャの頬から赤みが消えたのが見えた。この反応は、二人の台本にはなかったのだろう。
泣き崩れる。取り乱す。縋りつく。——そのどれかを、期待していたはずだ。
「……何だと?」
「殿下のご決断に感謝いたします」
わたくしはもう一度、深く頭を下げた。薔薇の甘い香りが、傾けた顔に触れた。
「三年間、婚約者としてお仕えできましたこと、光栄に存じます。どうぞ末永くお幸せに」
顔を上げた時、周囲の貴族たちが息を呑んでいるのが分かった。
誰も、何も言えずにいる。
囁きの中に、かすかに聞こえた。「——見事な方だ」と。殿下の顔が、ほんの一瞬だけ強張ったのを、わたくしは見逃さなかった。
一礼。背を向ける。薔薇園を後にする。
振り返りたい気持ちなど、欠片もなかった。
◇ ◇ ◇
自室の扉を閉めた途端、マルタが立ち上がった。
「お嬢様」
白髪交じりの老従者が、わたくしの顔を見て何かを察したらしい。問い詰めはしない。この人はいつもそうだ。母がまだ生きていた頃から、わたくしたちの傍にいてくれた人。
「予定通りよ、マルタ」
わたくしは机に向かい、引き出しから紙束を取り出した。
半年分の計画書。日付は六ヶ月前——殿下とナターシャの密会を、偶然見てしまったあの夜から始まっている。
資産の整理。母から受け継いだ辺境の別荘の改装手配。信頼できる使用人の選定。新しい事業の下準備。
一枚一枚、確認していく。漏れはない。
わたくしがこの三年間で身につけたのは、外交文書の作成だけではない。計画を立て、静かに、確実に実行すること。
(殿下もナターシャも知らないでしょうね。わたくしがこの半年、毎晩この計画書を書き足していたことを)
荷造りはほとんど終わっていた。必要な衣服。母の形見の調合手帳。そして——
「あ……また」
引き出しの奥を探って、小さく溜息をついた。先月まとめておいたはずの外交書簡の写しが、一部なくなっている。
また、だ。
この半年、わたくしの書類はたびたび行方不明になった。最初は自分の不注意だと思っていた。けれど四度目にして気づいた。
消えるのはいつも、わたくしの仕事ぶりを示す書類だけ。
誰の仕業かは、もう考えないことにしている。どうせ明日にはここを出るのだから。
幸い、写しの写しは別の場所に保管してあった。わたくしは慎重な女だ。書類仕事を三年も任されていれば、嫌でもそうなる。
「マルタ、この箱を」
「はい、お嬢様」
外交書簡の控え。各国大使夫人との書信記録。慈善事業の企画書の原本。
これらは全て、わたくしが個人の時間と人脈で築いたもの。殿下から指示を受けたことは、一度もない。
殿下は社交の場でお酒を酌み交わすのはお上手だけれど、翌日の礼状すら書かない人だった。
(あの方の社交界での評判は、わたくしの手紙の上に成り立っていたのよ。……まあ、もう関係ないけれど)
——これは、わたくしの財産です。
重荷を下ろした。三年分の書類を箱に詰め終えた左手が、不思議なほど軽い。
「婚約契約書の控えも、忘れずに」
マルタがほんの一瞬、口元を緩めた。
「お父様が、随分と知恵を絞られた契約書でしたね」
「ええ」
父上が婚約の契約書に何を仕込んだか、殿下は読んでいないだろう。あの方は書類を読まない。いつもわたくしに任せきりだったから。
(いずれ届く請求書に、殿下はきっと目を丸くなさるわ。いえ——請求書の意味を理解できるかどうかすら怪しいけれど)
最後に、机の奥から図面を取り出した。辺境の別荘の改装計画。温泉を活かした宿の設計。三ヶ月前に現地の大工へ送った指示書の控え。
全ての準備は、整っている。
◇ ◇ ◇
廊下は静かだった。
西日が差し込む長い回廊を、わたくしは一人で歩いた。すれ違う者はいない。この時間、宮廷の人々は茶会か散歩に出ている。
足を止めた。
一瞬だけ、唇を噛んだ。
三年。三年間、わたくしはこの宮廷で微笑み続けた。
殿下のために外交文書を書き、大使夫人たちとの茶会を取り仕切り、慈善晩餐会を企画し、成果の全てを殿下の名前で差し出した。
それを「ふさわしくない」と切り捨てたのだ。切り捨てて、侍女の手を取ったのだ。
(——怒ってなんかいない。怒るのは、期待していた人間だけがすること)
信じていた。信じていたのだ。
——信じたかった、が正しい。
……もう、いい。
顎を上げた。前を向いた。
わたくしの足は、もう振り返らない。
さようなら、殿下。三年間のお茶番は、これでおしまい。
わたくしにはもう、自分の居場所を用意してありますの。
◇ ◇ ◇
自室に戻ると、マルタが計画書の紙束を丁寧に革紐で束ね終えていた。
半年前の日付から始まる、びっしりと書き込まれた離脱計画。わたくしの字で、わたくしの未来が綴られている。
「明朝、出立でよろしいですか」
「ええ。馬車はもう手配してあるわ」
マルタがその紙束を、荷物の一番上にそっと載せた。
わたくしは窓の外を見た。王都の空が、夕焼けに染まり始めている。
明日の朝には、この部屋は空っぽになる。三年分の書類も、外交の人脈も、慈善事業の段取りも——全て、わたくしと一緒にこの宮廷から消える。
殿下がそれに気づくのは、いつ頃かしら。
——きっと、手遅れになってからでしょうね。
わたくしは小さく笑って、窓辺から離れた。




