何者
揺れる、大きく震える。瞳が捉える光景は一定の姿を見せない何者か。肩をつかまれ揺らされているのだと、現実に意識を引き戻そうとしている者がいるのだと気が付いたのは視界が現状を見てから数秒遅れ。
遅れていた意識がようやく今をつかみ、肩をつかむ人物に意識の帰還を言葉で示して止めるよう頼む。
「俺は無事だ」
きっと声は震えていただろう。力が無く、情けない声にジェードル自身までもが驚きを得てしまう。
肩を揺すっていた女はそのまま勢い付いて抱き締めた後、額に手を当て肩にジェードルの頭を置き、そのまましゃがみ込む。
「リニだな、この肩幅の狭さは」
そのような見分け方が通じてしまうのは彼女としては如何なる心情を得てしまうものだろうか。
「よかった、めちゃ心配したんだ」
リニの心配が声の温度に残っている一方で安心の温もりが身体から伝わってジェードルの心をほぐして行く。
「女の子を心配させるなんて、俺もまだまだだよな」
「うるせえ、それ言うな」
リニの拗ねた声などいつ以来だろうか。突き放して睨み付ける彼女にとって女の子だからと言うのは冗談の一つなのかも知れなかった。
辺りは相変わらず荒れ果てており、地面に散りばめられた青の欠片は傾き始めた太陽によって紫色がかった青の輝きを放つ。
「夕暮れ空なんていつ以来だろうな」
リニの問いに答える事が出来ない。赤く焼けた空などジェードルにとっては空想の世界の中の出来事でしかなかった。つまるところ初めて目にするものだったのだから。
「一旦第二休憩所に戻る」
ユークの一言によって気が付いた。意識がクラゲたちの記憶によって奪われている間にある程度進んでいたらしいということ。ジェードルの手を引きながら進むのは多大な労力を費やした事だろう。
「ごめん」
「メリーに礼を言ってやれ」
見回して現状を見て取った。誰一人として斧を手にしておらず、拳銃を構えたメリーが言の葉と引き金の動きでクラゲを一掃していたよう。踏み出した一歩は疲れに浸されて来たのだろう。覚束ないそれは今にも倒れてしまいそうで、タルスが支えながら進んでいた。
「クラゲさえいなくなれば進むのは容易だ」
そう告げると共にメリーを背負い、大股で歩き始める。タルスに背を預けながら、疲れに圧されながら、メリーは閉じようとする瞳と口を必死に開く。
「ジェロード……ううん、ジェードルに背負って欲しいわ」
「名前間違えてるのにか」
毒づくユークに構うことなくタルスは背にかかる重みに対して現状を突き付け拒否を示す。
「ジェードルは疲れている。共に倒れたかったらどうぞだが、俺たちにも責任が来る」
「ジェードルと一緒に倒れるのならいいわ」
「俺はクラゲがうようよいるところで倒れたくないけどな」
ジェードルの言葉に返されたのはマルクの豪快な笑い声。ジェードルは思わずマルクの方へと目を向けてしまう。彼がここまで感情をむき出しにしたのは初めてではないだろうか。
「さっきクラゲがうようよいるところで倒れたのは誰だったか」
押し黙るジェードルを見つめながらユークは立ち止まり、怪しい笑みを浮かべて小さく口を動かす。
「戦場って残酷だな、つくづく思う」
夕日に透き通る傘の姿をクルミ色の目で捉えると共に斧を取り出して飛びつき振るい、新たな鉱物生命体の死骸を二つ増やした。
「最初の一振りで二体、沈黙させる」
「まさか」
ジェードルの記憶の中にあった二振りで三体倒すユークの戦いの基本をようやく形として捉える事が出来た。
「俺の技術は力任せだ、素早く打つ二発目には二体を狩るだけの力は無い」
そう告げて再び飛びつき、薄っすらと赤みを帯びた輝きを纏う傘を断つ。素早く放った二発は残像と言う形で交差し、三つの傘を地面へと叩き付ける。例え仕組みがわかっていたとしてもジェードルの目で彼の動きの全てを読み取る事は叶わない。その素早さに敵わず結果を見つめて情報と言う形で捉える事が精一杯だった。
「リニには見えたか、二発で三体倒す瞬間」
「全然だな」
即答に呆れが混ざっている事を鑑みるに彼女は初めから見るつもりはないのだろう。もしかすると気取った姿勢や異色な手段への憧れに対する感情も声と揃っているのかも知れない。
草木が見えて来た。そこに混ざって輝く金属の殻。透き通る薄青い膜が金属製だと情報では分かっていても目にするたびに感覚が疑いを抱いてしまう。
第二休憩所へと入ると共にユークはジェードルの鞄から紙の束を取り出して捲り始める。
「コールドスリープしていた超能力者が実験のために出されたが逃げ出したらしいぜ」
紙に綴られた事を告げるユークの表情はどこか楽しそうで、男の心の若々しさはいつまでも失われないものだと実感した。
それから幾つかの記事の見出しだけを読み上げつつ軽く目を通しているのだろう。しばらくは素早くページを捲っていたものの、あるページで手を止め驚きの声を上げた。
「ほう、鉱物生命体の個体ギガンティックメタリッククリーチャーが近くまで来たか」
ユークの声が狭い室内に響き、マルクの身体を揺すって行く。顔は強張り目は見開かれて余裕が見えて来ない。その反応についてくる感情がジェードルには理解できなかった。
「あれが来るのか」
「なんだよその何とかメタル何とかって」
リニの脳には言葉として上手く残らなかったようでジェードルはほっと一息ついた。安堵の溜め息が示す通りにジェードルもまた名前を覚えていない。恥をかかずに知ることが出来た嬉しさの影でリニに言わせてしまった後ろめたさがチラついてしまうも今は無理やり押し込める。
「巨大なクジラだ、コイツが厄介でな。鉱物生命体を乗せては時たま落とす」
宇宙船のようなものだろうか。リニが感心を呆けた表情に薄く塗っている間にもジェードルはクラゲたちの記憶を思い返していた。
――あそこに乗っていた女、もしかして地球に来ているんじゃないのか
クジラに乗り込んでいる女の口ぶりから恐らく他にも地球外の人類は訪れているだろう。クジラに未だに乗っているのだろうか、だとすると戦いは避けられない。
マルクは大きな咳払いをしてパンの入った袋を開いて広げる。話の雰囲気と場違いな香りが緊張感を呼び起こすという稀有な体験を得てジェードルの中に気まずさが滲み出る。
「あれは破滅の雨が降ってからすぐに現れたらしい。俺が医者を目指す前から噂はあったからな」
パンの香りに挟まれる声の重々しさ、かけられた完全栄養ペーストの薄っすら漂う甘い香りに言葉の示す状況の苦み。全てが青く色付いていて、その青をもたらした根源が敵なのだと改めて心に抱く。
「でだ、その長くダサい名前を覚えている者など少数、我々は姿を見てこう呼んだ」
パンを齧り、一呼吸置く。マルクが見渡す限り彼らはテーブルに置かれたパンに一切手を付ける事すら無く耳を傾けている。
気まずさを誤魔化すように大きな咳払いを挟んで続きを述べた。
「鉱物生命体を乗せたクジラ型兵器ということで――軍艦クジラ、そう名付けた」
誰にでも伝わるもので尚且つ戦場でもすぐさま呼ぶことの出来る名称を耳に染み込ませ、ジェードルは一つの疑問を形にした。
「それって一頭なのか、倒せてないのか」
「個体数は一だろうと推測されている」
「討伐難しそう、最悪逃げるしかないじゃんね」
リニは理解していた。これまでに学んで来た事の中にある実在の歴史を基にした映像作品を収めた教材が今になって頭を出していく。記憶の中で情報は踊る。
「あの大きな鉄の塊みたいなのが空を飛んでるんだって、おっかないだろ」
「リニは勉強頑張っていたみたいだな」
マルクは感心と歓心を交えて残りのパンを頬張る。そこでようやく他の面々も倣うようにパンを頬張り始めた。
レコードから鳴り響く美しき音を止め、記憶の中に刻み込んで進む。空に浮かぶ雲が不完全な音符となって幾つも漂う。言葉だけを知って形も分からない五線譜と呼ばれるものを空に描いて雲と音を乗せながら地下都市の護衛に確認を取り、地下に飲み込まれて行く。
立派な肩書きを背負うだけ、ただそこに居座り楽を満喫するだけの人物に紙の束を手渡して各々の部屋へと戻ろうとしたその時、メリーだけが残ると告げた。
「調べたいことがあるの」
「クジラの事とかか」
ジェードルの声を耳にしてメリーの微笑みはいつになく濃く刻まれ明るみを帯び始める。そこに無いはずの暖かな風が彼女を包み始めた。
「そうね」
それからジェードルは部屋に戻り、マルクが淹れた紅茶に口を付けながら身に沁みる疲れと湯気を見つめながら大きな欠伸をした。
「そうだな、疲れているよな。何せ気が付いていないのだからな」
笑いながら放たれたマルクの一言に首を傾けながらジェードルは辺りを見回すと、勢いの付いた声と共に頬をつかむ柔らかな感触に出会ってしまった。
「今日もお邪魔してるよ、アホみたいな顔いただき」
「リニ」
久々に作られた落ち着きに浸された時間は瞬く間に溶け落ちて。愉快な声が不満に膨れた顔から、尖らせた口から響き出す。
「そろそろフリュリニーナって呼んでくれよ、ほら」
「マルクおじ」
助け舟を求めたジェードルは振り向いた先で驚きの光景を目にした。救援の言葉など差し出される事は無いのだと示された。マルクの顔には満面の笑みが張り付いていたのだから。
「なあ、いいだろ、本名でさ」
ジェードルは顔を赤くしながら俯く。熱がこもって思考すら危うい彼の口は紡ぐべき言葉を失ってしまっていた。
「愛称も可愛いけどさ、フリュリニーナっていい響きだと思わないか」
このまま抵抗できず、初めの一文字を、次の一文字を、たどたどしく繋ぐように声にしたところで状況は一変した。
入り口が開く音が鳴り、誰もが同じ方向へと顔を向ける。そこに立っている女は細い左腕と肉感を纏った右腕の持ち主。金の髪が同じ色の瞳と共に揺らめきジェードルに向けられている。
ジェードルの脳裏にクラゲたちの記憶の中に居座るあの女の姿が過り、口は力なく開かれ言葉は開かれずそのままそこにあり。
――あの時の左腕、メリーの右腕にそっくりだ
そんな右腕にメリーが何者かという疑問を乗せている間にもメリーは細くありつつも肉感の塊のような右手の指でジェードルを招いていた。




