[第27話]
<第27話>
ジュゥゴセー紀・中山と呼ばれたリウクー王国。
宮古島の英雄 仲宗根豊見親を中心に、
歴史と幻想が交錯するシリアス琉球史ファンタジー・第27話。
*** *** (ストーリー) *** ***
遥かな大海に抱かれし動乱の島・ミャーク。
永劫の青波が寄せ引く汀に、宿命の英雄が生まれ落ちる。
仲宗根豊見親玄雅──
稀代の英傑か、それとも……。
傷持つ心に刃を纏い、人ならぬものと睦む孤高の魂の代償は。
愛憎と血潮に彩られし大海の王の物語、遥かな海の底より蘇る。
あくまでパラレルなミャークの英雄物語として楽しんで頂けましたら幸いです。
古琉球史・古先島史への入り口としても。
不定期更新・気長にお付き合い頂けましたら幸いです。
現在のところ、
第一部(第1-10話):ミャーク編
第二部(第11話以降):王都シュリ編
となっております。
※※※R-15※※※
※無断転載を禁じます※
※「pixiv」様にも重複投稿しています※
※扉絵は [嵐山晶 様] に描いて頂き、ご本人の許可を得て掲載・使用しております※
雫が一つ、落ちた。
流した墨の闇を揺らすのは、互いの肌を撫ぜる息の音だけ。
──この女の、瞳。
若い甘さと、節くれだった老いがゆらめく、奇妙な瞳。
一度覗けば捕らわれて、気づけば互いの瞳が混じり合い、二度とそこから出られない。
──まるで、
刃だ。分かっていてもなお、切っ先に触れて、滴る血を確かめずにはいられない。
奈落の安息と、ちりちり身を焼く焦げた恐怖。
気づけば、荒く捕らえた髪をするりと落とし、指がその先へと伸びていた。
触れた肉のふくらみの、気が狂いそうなほどの瑞々しさが、理性を浸してゆく。
──この、瞳。貝の肉からえぐり取った、真珠の一粒。死肉滴る海の宝珠を、骨を刳った眼窩の窟に押し込めたに違いない。
不躾な指を咎めるように、甘ったるいくすくす笑いがこぼれていた。
「窟は墓。窟は奈落。窟はすべてを匿って、窟は全てをおさめゆく。
私の玄雅、籠の鳥──あなたがあのイラブの大殿の、見るも無残な死体を放り込んできたのも、こんな窟だったに違いない。
思い出せる? あの独特なにおい。塩と、爛れた肉が混じり合い、死のさなかに生がうごめくあのにおいを」
またしても、記憶に触れる痴れ者が一人──その不快に抗う気力さえ、貪欲な闇が吸い上げる。
胡乱な頭が、それでも意識を留めようと抗っていた。
少女の声の向こうにたゆたうのは、つい先程まで脳裏にぶちまけられていた、霞んだ光景だ。
金丸。天降の童子から、ちっぽけな凡夫に堕ちた、哀れな男。
そして、その妻オギヤカ。動かぬ足に血を流し、生きながらに死んだ狂女。
一幕ばかりの痴話げんか。ねじれてほどける、生の縒り糸。
「すべては影絵の人形劇。こうして、人の世の長い唄、終わりなき狂騒曲は続きゆく。天も地も、過去も未来もない、回り続ける舞台の上で」
「私は、芝居は好かぬ。つまらぬ戯歌も」
「ああ──私によく似た籠の鳥。嘘をうそぶく、玄い獅子。
ありふれた茶番とさやあてを、取るに足らぬと蔑みながら、決して届かぬぬくもりの、素朴な熱に身を焦がす」
自らの手が、少女のそれに捉えられるのを、玄雅は感じていた。
見上げる白い額に、五弁の花がぼんやりと咲いていた。
指を無残に押し付けて、痛みに滲んだ痣のような──死の花。血の花。後世の紅い花。
意志を奪われた指が、導かれるままに唇に沈んだ。
甘い声が囀る。
「私はいつも自問する。互いを押しとどめているものは、何なのか。欲望を、飼いならしているつもりでいたいのか」
迫る瞳が、像を結ばぬ鼻先にぼやけ、互いの額が触れる。
「あけすけな脈動など、自らには属さぬふりをしたいのか」
触れ合う額の下、白い骨の硬さだけが、あやふやな境界をかろうじて争っていた。
頭蓋の骨。とろりとやわらかい脳を納めた、白い棺。二つの棺を蓋うのは、十字の道票と、花に結ぶ死を染め抜いた肉の掛け布。
「ため息ついて見つめても、この大海の嬰児は、真珠の瞳で私を見かえすことはない」
淡い指先が、胸を這い、止まる。
心の臓の真上に押し付られた掌が、ゆるゆると鍵爪の形に結んでいった。
「決してとらえておけぬのならば、波を駆けゆく黒獅子の翼、喰い千切ってしまおうか」
囁きのひだに、妙な香りがかすめた。
うだる暑さに爛れゆく、腐れた果実の、あのにおい。
「その蛮行の手始めに、心の臓でも抉る気か? 堕ちた果実を踏みにじり、末期の腐汁をまき散らすように?」
「ああ──そんな荒っぽいことを、この私が?」
囁く甘い唇も、きっと爛れた果実の味に違いない。
「だが、確かめたいとも思わぬな。我らには似合わぬ」
少女の片眉が、僅かに上がる。
「そなたと、私。戯言の交わし合い、惰性の馴れ合い睦み合いなど、最も似合わぬ一幕だ」
鼻先が、互いの意を確かめるように触れた。
歪んだ逢瀬のあいかたが、次の言葉の息を吸う。
だが、その先を玄雅は許さなかった。
刹那、弾けたのは、闇を切り裂く鮮やかな香り。
もわ、と広がり抜けてゆく、なじみの澱み。
耳に刺さるのは、闇を裂く絶叫だ。
短く嗤いを投げてやるついでに、鼻の奥にこびりつくにおいを息で拭った。
「幻とは、もっとうまく見せてほしいものだ。
赤い唇など、五弁の花など──流した闇には見えはせぬ。だが、味はどうやら本物らしい」
口の中のものを吐き出せば、ぷ、と躍ったそれは、つくりものの闇に、ちんまり落ちた。
「血と、蛆の味がする。それにしても、腐れていても固いものだな。人の鼻とは」
「犬子さん──さけびごえが、しましたね?」
重い湿気に、曖昧な返事が滲んで消えた。
「ねえ、犬子さん」
気の抜けた声がもう一つ返ってくる。
「なんだよ、モイちゃん。あのね、オイラは眠くて、なーんにも考えたくないの。
うん、お昼寝してないから、おねむなんだな。
子守歌でも歌ってやるから。それ聞いて、おねんねしなさい」
茣蓙敷の板間、使用人たちが憩いをかこつ小さな部屋で、ごろりと延びた背が尻を掻く。
その手をはたく小さな姿が、必死の声を投げていた。
「うたは、もういいです。きいたでしょ? おんなのひとが、きゃーっ、て……ううん、ぎゃー! って、さけんだ」
尻を掻く手が止まり、そのまま動かなくなった。丸めた背を揺さぶっても、噓寝を決め込む主人の傍らで、赤い犬が申し訳なさそうに「くうん」と鳴くだけだ。
「……何も、聞こえやしねえよ。聞かねえ方がいいこともある。
では、おねむでぐずるモイちゃんに、オイラが心を込めて歌わせて頂きます。
──みんなは ついたよ シュリの町 つかれーる 旅でした
──オイラは まったく かなしいよ なんにーも 見たくない
……ので、オイラは寝ます」
着物の背が、もう一段丸くなる。
数拍ののち、小さな掌でぴしゃ、と尻を叩いてみても、何が起こるわけでもない。
「犬子さん…….ぜんぜん、だめ」
宿の壁の向こうで、無関心な往来がさざめいていた。
茂と金丸、オギヤカとグラーと赤犬子。この奇妙な一行、長くウチマの村を離れたことのなかった田舎出の一団は、散々な道中の末、ようやくシュリの館に荷を解いていた。
もともと歩くことのままならぬオギヤカに加え、持病の腰痛を押して馬上に上った金丸である。
良いところを見せようと、久方ぶりの馬の扱いに腐心していたこの老人は、下馬した拍子に足首をひねった。
『あァ……骨が、もろくなっている!』
なんで人はこうなんだ、弱すぎやしないか、などと、子供のように喚く父と、その横でおろおろするグラーに、茂はこっそりため息をついたものである。
足首は、ひどく腫れた。
気が利くゆえの苦労性のグラーは、オギヤカと金丸という、突如倍に増えた世話に追われることとなり、歌うことの他は何も得意でない赤犬子が、ここに至るまで茂の世話をしている。
まあそれでも、と茂は思わないこともない。
万事に雑な赤犬子のおかげで、茂にとっての道中は、楽といえば楽だった。
ウチマの村での自分たちは、一種の見世物なのだ。そうとははっきり言葉にできずとも、茂はおぼろげながらに自覚し始めている。
祖父と言っても良い年の父。それとはあまりに対照的な、娘盛りの体を持つ母。
それに加えて、額に汗する農民たちを尻目に、歌ってばかりの赤犬子と、万事において浮き上がってしまう、心優しい大男のグラー。
何をしても何を言っても、誰かが誰かの目であり耳であり──すべてが筒抜けの小さな村で、この一家は目立ちすぎていた。金丸が領主という立場になかったなら、たちまちはみ出し、居場所を追われていたに違いなかった。
その息苦しさが、たまらなかった。
ゆえにこの旅は、良いものだった。いつもだったら、娘の一挙一動を心配そうに見やってくる父も、渋面を噛み締めながら痛む足をさするばかり。
そんな様子を歯牙にもかけず、陽気に歌う赤犬子の先導で、好きなだけ馬上の旅景色を眺めていることができたのだ。
村では貴重な馬を、二頭も借り出した甲斐があったというものだ。
──もし、あのひとが一緒でなかったら──、
心にじわ、と罪悪感が滲む。
──もっと、楽しい道中になっただろうか。
半分が本音で、半分が裏腹だった。
金丸とオギヤカと、茂。
ウチマの屋敷での三人家族は、いつも誰かが欠けていて、いつもだれかに遠慮をしていた。
──この旅が、何かを変えてくれるのだろうか?
答えなどそこには無いと知りながら、それでも茂はもう一頭の馬の背に視線を投げる。
ぼんやり揺られている、若い女。
霞んだその目が何を映しているのか、茂は知らない。
だが──、と茂は唇を噛む。
草むらで拾われるのを待っていた鳥の羽。炉端で光る白い石。秋に赤く結ぶ、つやめく木の実。
ちいさな掌がそっと差しだす贈物の上を、いつも通り過ぎていった瞳が、娘を映していないことだけは確かだった。
旅に流れてゆく、知らぬ木々が草が、知らぬ村の知らぬ顔が、心を埋め合わせてくれた。
馬上の父と母が交わす、どこかこそばゆいような、それでいてくつろいだ目線も、その様子を笑みを浮かべて見やるグラーと赤犬子も。
大人たちの傲慢さと無関心を、流れる雲に黙殺した。
かろうじて、無責任な大人たちと心が噛みあったのは、あの時だけだったのかもしれない。
抜けるような青空に、小高い城がゆるゆると姿を見せたとき、だれからともなく歓声が上がっていた。
高い陽に目を細めながら、父は呟いた。
『シュリ──王の城。王の都だ』
その声に込められた昏さの理由を知るには、茂はまだ幼い。
その横で、馬上の母が同じものを見つめていた。
淡い回想から引き戻されて見下ろせば、膝の上の拳が、固くなっている。
このまま、物分かりよくしているのも癪だった。
腹立ちまぎれに、着物の尻の真ん中にぶつけてやれば「うあ」と胡乱な声が漏れ、犬が「くぅ」と鳴いた。
壁の向こうの雑踏で、何かの鳥が鈍重に鳴いている。
「いてえなあ、もう……。
あのね、モイっ子お嬢ちゃん。オイラはなんも、聞こえやしねえの。そういうことにしちまって、モイちゃんも昼寝しな?
子供と犬の特権は、見ても見えず、聞いても聞こえず。言葉の一つも言わねえことだ」
「犬子さん!」
気乗りのしない青年は、 茣蓙の上で駄々っ子のように体をねじる。
まるで木から落ちた芋虫だ、と呆れたところで、不意に勢いをつけて跳ね起きた。
ぎょっとするような、俊敏さだった。
──人の身体とは、こんなにしなやかなものだろうか?
小さな姿を見下ろす瞳が、奇妙に冷たい。
鳥が低く、鳴いている。何かを咎めるような、しつこい、羽持つものの声。
「ああ……相変わらず、壁が薄いときてやがる。ヒトの世ってのは、とにもかくにも面倒くせえ」
「──犬子さん?」
奇妙な違和感がこみ上げる。
ぼりぼり、と寝起きの頭を掻きむしる爪が、やけに厚く、鋭い。
茂が生まれる前から、ウチマの村に居ついていたという旅芸人。物心ついた時から、同じ屋根の下で過ごしてきた青年と、その犬。
今もこちらを見つめている、全ての光を吸い取ってしまうような、奇妙に深い瞳。
よく知っているはずの赤犬子が──急に、何か知らないものに見えた。
「やっぱりオイラ、シュリの都は好かねえや。ニライとオボツが、節操なしの乱痴気騒ぎ。調子が狂って仕方ねえ」
皮肉な具合に肩頬が上がり、茂は知らずに身を固くしていた。
おもむろに伸びた片手が、壁に預けたサンシンを掴み、丸い胴が和音に震える。
いつか、言っていたのではなかったか。
大変な顛末の末に、ようやく剥ぎ取ってきた蛇の皮を張ったのだと──その時瞳をかすめた、獣じみた光。
楽器の胴をぐるりと守る、鈍色の鱗の並びが、にやり、と笑った気がした。
はたして、聞き慣れた声、珍妙な歌詞には不釣り合いな豪奢な声が、黴臭い湿気を揺らした。
「──みんなが めざすは シュリのしろ いつでも ここが果て」
サンシンを抱いたまま、すらりとした背が立ち上がる。
「──オイラは 止めたよ 金丸ちゃん 都は 行っちゃだめ」
──ああ、いつもながらの、酷い歌詞だ!
村の田植え歌から、母が戯れに歌い伝えたという異国の歌々の数々まで、どんなに複雑な音色の綾も、どんなに速い旋律も、その気になれば違わず吟じ奏でることができるというのに。
「──だあれも だあれも 聞きやしない みんなで おちてゆく」
尻尾を垂れた赤犬が、歌う背中についてゆく。
「犬子さん……どこいくの?」
歌をこぼしながら、長い編み髪を揺らす背が、宿の出口へ遠ざかる。
「──オイラは ずうっと 知ってるよ だれもが 囚われて
──あなたも わたしも またここよ 見慣れた 巡り辻」
「犬子さん、へんなうた、やめて!」
取りすがる横顔が、胡乱に遠い。
「犬子さん、ワンちゃん! まってってば!」
──ああ、大人たちの、この話の通じなさはどうなのだ!
無駄にあたりを見回し、唇を噛む。
役に立つ大人など、ここには一人もいないのだ。
『王に会う前に、用事を済ませてしまいたいんだ』
まだ日の早い頃、ちょっとした秘密を教えるように、懐から小さな布包みを出してみせた、皺っぽい父の手。のぞき込めば、解いた布の中で、鈍い光を放っていた華奢な鎖。
『オギヤカの鎖。切れてしまったからね。都の細工師に直してもらおうと、持って来た』
母の手首にいつも揺れていた、一粒の真珠をつないだ鎖。
近くに寄せぬ娘の代わりとでもいうように、片時もその身から離さなかった、あざ笑う宝珠の金鎖。
足を引きずりながらも、どこか浮かれた様子で出て行く父を見送ってから、数刻は過ぎているに違いない。
グラーを呼ぼうにも、こちらはこちらで町に出てしまっている。
シュリに着くやいなや、ずっと走り回っている、哀れなグラー。それと言うのも、あの店の餅を買ってこいだの、どこそこの井戸の水が飲みたいだの──母の他愛ないわがままが、この大男に憩うことを許さなかった。
ままならぬ自らの足への当てつけだとでもいうのか。
下男というものはそういうものなのだ、と分かり始めているものの、気まぐれに人を振り回す母を見ているのは、決して愉快なものではなかった。
「犬子さん! わたしのこもり、しなくちゃだめでしょ? ここにいて!」
必死の声に、一つの声が割り込んだ。
「あら、お出かけですこと?」
振り返ることが、できなかった。
よろめく足で、柱を頼りに体を支えているのか。波立つ嫌悪と憐憫に、足を取られて動けない。
「おお、オギちゃん。永の酔夢からお目覚めで。
哀れな下僕のグゥちゃんを、今度はどこへ走りにやったんだい?」
ほ、ほ、ほ、と軽やかな笑いが揺れ、香がかすめて消えていった。
「花を買いに。都の花、高貴の花。月季の花束。
海棠の花が無理ならば、せめていっぱいのあの花を、わたくしに。
グラーは、見つけることができるかしら。
ありきたりの石竹色ではだめですことよ。
あるかないかの淡紅色──海棠色の花弁を重ねて、ほんのひと筋、花弁の頬に、血の赤よぎって。五葉のおもては、月の雫を張った翠玉色。
手に入れたなら、好きなままに千切りましょう。
髪の飾りに花首もぎとり、湯あみの水面に、紅散らして。
青ざめた花たちが、ゆらめきほどけて死んでゆく。まるで、長い春を惜しみさざめき、最後の嘆きを舞い納めて逝くように」
うわごとを謡う唇を、深い紅が染めている。
いくばくかうつむき、背を優美に傾けた姿は、雨を含んで散る寸前の、末期の花を思わせた。
「そいつぁ素敵な春の夢だ。でもオギちゃん、ご用心。
美しきは月季花。鋭いその棘、死出の一刺し、胸を突き──ってな。
わざわざ痛い目見ることはねえ。もっと別の、やさしい花にしたらどうなんだい? 後生花はきれいだぜ」
「仏僧花が、やさしい花ですかしら?
あれは、おとむらいの花。いつだって、お墓の横には仏僧花。陰気臭い墨染の、衣を引きずるお坊様。むせ返るような香華のけむり。
孤独をかこつ死にびとは、仏僧花の紅に、在りし日の熱情を託してこちらを見つめているのですかしら」
言葉が、途切れる。
「犬子ちゃん──花とは、恐ろしいもの。
零れては散り、また零れては散ってゆく。本当は意味などないくせに、無限の英知をうそぶき、ほのめかす。
忌々しいのに、そのうつくしさとかなしみに、抱きしめずにはいられない。
刺す棘の、その赤ですら確かめたい。それがどうして、人の性──。
それで……犬子ちゃんは、どちらへ?」
返す作り笑いに、乾いた寂寥が滲んでいる。
「いやなに。この身に騒ぐは、遊芸人のあわれな血。
門付け芸の投げ銭集め、うるわし愛しのオギちゃんに、しがねえオイラも花束一つ捧げてみたいと、長年ぶりの商売はじめ……と、言いてえところだが。
まずは犬とオイラとモイちゃんで、昼の下がりの、浮世の透き見というところ」
何も言わずに微笑んだ美しい女は、少しの思案の内に、袂に手を入れた。
「まだ、日差しが厳しくてよ。シュリの太陽は、特に」
ふわ、と視界を覆ったものに、茂は目を白黒させる。
それは、やわらかな手巾だった。
布地に、香が淡くくゆっている。
信じられないことに、伸びてきた白い手が、纏わる髪をさらりと押しやり、手際よく頭を包むと、顎下で結んだ。
戸惑う目を上げれば、淡い笑みを含んだ目とかち合う。
「気をつけて、行っていらしてね」
赤犬子と犬が往来に消えてくのを、茂は戸惑いの中で見つめる。
二つの影が、午後の日に伸びていた。
──もし、ここで否と言えば、
見返す母の瞳に込められた感情を、幼い声は名付けることができない。
──二度と、こんなことはしてもらえないだろう。
往来の向こうで、鳥が鳴いた。
あれは、鳩だ。赤い目をした、偽善の鳥だ。
声から逃げるように、赤犬を追って、駆け出した。
<第二十八話に続く>




