~Episode of Summer IV~
薄い煙が天に立ち上り、集まろうとした虫たちを追い払う。
ひんやりとした高原の空気と、頬を撫でる程度の風を感じていると、夏がどこかへ逃げ去ってしまったようにも感じられる。
「……火、か」
炭の塊が五つ、六つ。
赤々と熱を振りまいて、コンロに敷いた網の上にならんだ肉と野菜を踊らせている。
パチンと何かが弾けたような音がして、白化した炭の一塊がその形を崩す。ほんのわずか、灰が燃え立つコンロの中で舞う。
三鳥栖志智にとって━━それは遠い日の悲しい記憶を思い起こさせるものだった。
「……志智?」
「いや、何でもない。……ん、うまいな。これ。やっぱ炭で焼くと違うのかな」
我ながら作った表情だなと思いつつ、志智は赤い部分の残る牛肉をくわえながら、訝しげな亞璃須へ笑顔をむけてみせる。
鍋にわかした湯で炊きあげたレトルトパックの白米を口へ運ぶ。
実にうまい。不思議なことに、最高級のブランド米よりも上等に感じられる。
(そう……うまい)
胸の中を通りぬける虚無の風と裏腹に、彼の味覚はこんなにも食という本能的行動を楽しんでいる。
「やっぱり外で食べるご飯はいいですよね~!」
妙にテンションの高い声をあげながら、ティックはジンジャーエールをあおっている。
あれだけ肉ばかり食べていても、背丈が伸びないのはかわいそうだなと志智は思う。
対して姉の方は野菜八割、わすれた頃に肉といった様子で、トングばかりを持って網奉行に徹していた。
「ああ、おいしいな~!
お兄さん、もっと食べてくださいね。結構たくさん買い込んできましたから」
「言われなくても、腹一杯くわせてもらうさ。キャンプ、本当に好きなんだな」
「向こうにいたときも、よくやっていたんですけど、何といっても一番楽しいのは、こうやってご飯を食べるときなんです!
本当はその場で調達した食材を調理するのが一番で……あっ、今度は釣りもしましょうよ、釣り。最高なんですから!」
「わかったわかった。……ああ、わかったよ」
「……そうですわね。
海辺にいくのもいいと思います。もちろん山の中でも」
燃える火を。
そして、燃え尽きて白骨のように崩れおちていく炭を。
何かにとりつかれたようにじっと眺め続ける志智の横顔を、亞璃須のオッドアイが見つめている。
「………………」
「………………」
「あれっ。姉さん、もっと食べたら?
この前、千歳ちゃんより大きくなるって言ってたじゃないか。お肉からも、ちゃんと脂肪をとらないと━━」
「ティック。後で痙攣するまで腹筋です」
「えぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!? な、なんでっ!?」
「大きくなる? なんだ、お前も背がほしいのか?
別に気にしなくていいと思うぞ。あいつは結構あるし、追いつくのは無理じゃないか」
「………………志智も反応しなくてよろしい」
「あ、ああ……?」
呆然とする弟を。
そして、なぜ怒ってるのかさっぱり分からないという、志智の顔を。
じっと睨みつける亞璃須の双眸。
(綺麗だな……)
今更ながらに自分の隣にいるのがとびきりの美少女であることを認識させられつつ、志智の思いは巡る。
「………………」
「………………」
「……あっ、胸か?」
「し・い・た・け。そろそろ焼けてますわよっ」
「うごぉぉぉぉぉぉぉっ!? 熱っ! い、いきなり口に突っ込むな!!」
唇のやけどを気にしつつも、三鳥栖志智はたかがキノコがこんなにも香り高いものだったのかと、思い知るのだった。
~~~~~~Motorcycle Diary~~~~~~
夕食を終えて、片付けも手ばやく済ませて、午後九時。
特に言葉を交わすこともなく、なんとなく三人で満点の星を見上げて、午後十時。
早朝から走りつづけた疲れか、志智が漏らしたあくびにそろそろ寝ようかと言い合ったのが、午後十時半。
志智と亞璃須がキャンプ場の設備であるコインシャワーを使っている間、ティックが三百回ほどのシットアップ運動(その時点で腹筋が痙攣した)を強いられたものの、特に大事もなく、二人の男子と一人の女子は同じテントの中で眠りにつく。
━━つまり、三鳥栖志智が目を覚ましたのは、およそ四時間後になる。
「……何時だ? まだ三時過ぎか」
目覚まし代わりにと、亞璃須が枕元に置いたケータイのサブディスプレイが、控えめに時を刻んでいた。
「う……」
辺りは静かだった。しかし、静かすぎた。
いやに耳鳴りがする。なぜか脳裏によくないものが張り付いている気がした。
(……ったく。ここ、ひょっとして『出る』んじゃないだろうな)
不思議と恐怖は感じないものの、背中を流れおちる冷たい汗の感触が強く意識されてしまう。
「といってもまあ、もうすぐ朝……か」
また眠りに落ちようか。
眠りに落ちて、夢の中に溶けてしまおうか。
(気持ちいいな……)
目を閉じる。ぐわんぐわんと耳の奥で、何かがわめきちらすように声をあげている。
それはミキサーにかけられる時のような感覚だった。自分の意識が粉砕され、溶けて、このまま自然の中へ消えていってしまいそうな━━
「……おいおい」
乱暴にスイッチを押したような覚醒。それは嫌だと、心の奥底が主張している。
(まだ……俺はここにいるんだからさ。
ジジイみたいな考えはごめんだね)
ほとんど何も見えないテントの中の闇で目をこらす。
志智の鋭い瞳が、そこに鎮座する見えない何かを射貫く。
そうはいかない、と。
俺はまだそちらへはいかない、と。
「ちっ……」
その『何か』が志智の錯覚だったのか、さもなくば逃げ出してしまったのか。
それは分からない。だが、彼の全身全霊を覆っていたけだるさと、何とも言えない虚無的な気分は、唐突に消え失せていた。
「……もう一度シャワーでも浴びるかな」
呟いたそのとき、このキャンプ場にはコインシャワーだけでなく、天然温泉も隣接していることを思い出す。
(ちょっとだけ歩くが……24時間無料で使えたよな)
テントの外に這い出すと、志智はロープに干してあるタオルを手に取った。
まだ湿っている。だが、十分に使えそうだ。
そろそろと歩き出す。草を踏みしめるたび、ざわりざわりと妙に音が響く。
空は快晴で、星空の見事さは感嘆の息を漏らさずにいられないほどだが、半分に割られた月がどこか笑っているように思える。
「なんだろう……な。ここ」
神経質になっているのだという自覚はある。それにしても、少し異様な感覚だ。
天然温泉の施設は消灯されていたが、特に施錠もされておらず、スイッチを入れると脱衣所の電気もついた。
ドアをがらりと開けるたびに、何か人ならざる者がいるのではと思ってしまう。もちろん、そんなものがいるはずもない。
「温泉もちゃんと入れるんだな」
よほど湯量が豊富なのだろう。掛け流しの大風呂は、志智だけの貸し切りだった。
「はあ……」
全身を伸ばして、首まで湯につかる。
それがひどく気持ちのいい感覚であることを、志智はやっと思い出す。自宅の風呂はとても彼の長身を受け止められるものではないからだ。
(昔……そうだ。一回だけ……来たよ……な)
こうして大きな風呂に入った記憶がおぼろげながら思い出される。
どこのキャンプ場だったろうか。あるいは、日帰りの温泉だったろうか。
その時は父がいて、母もいて、千歳はまだ幼稚園に通っていて━━
「う」
唐突な嘔吐感と共に、白化した炭が崩れ落ちる夕食時の光景がちらつく。
それは思い出したくない記憶と、徐々にリンクし、重なっていく。
(これ……あの時、か)
━━それは父と母の骨と対面した時の記憶だった。
と、そのとき、扉が開く音がする。
「……あれ?」
失神してしまいそうな衝撃から、志智はかろうじて現実へ引き戻される。
どうやら自分以外にも誰か物好きがいたようだ。
衣擦れの音がする。他にテントを張っている者はいなかったから、きっと朝風呂好きの老人あたりだろうか。
(それにしても早いな……田舎の爺さんは日の出より早く起きるのか……)
首を捻りながらも、孤独から解放されたという僅かな安堵をかみしめつつ、浴場の戸が開いた瞬間。
「おはようございます、志智」
「な」
すべての━━張りつめたものが吹き飛んだ。
「うぉわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!?
おまっ……お、お前! なっ、なななな、何やってるんだ、亞璃須!?」
「何と言われましても、朝の湯浴みですけれど」
「こっ……こ……ここはっ、お、おとっ、男湯だぞ!!」
「もちろん承知していますわ」
そこに立っていたのは、流体力学的に優れたボディラインの少女だった。
まきつけたタオルで半身を隠しつつも、意外に肉付きのよい太ももと、悩ましい鎖骨まわりが惜しげもなくあらわにされている。
「さて、と」
「ち、ちょっと待てっ……こ、こっちに来るなっ」
「水着のようなものですわ。隠すところはきちんと隠してますし」
「そういう問題じゃない!!」
「ああ、脱衣所の鍵なら掛けましたから安心してください。
管理人が鍵でも持ってこない限りはここ━━密・室ですから」
「おっ、お前な……!!」
愕然とする志智にかまうことなく、タオル一枚を体に巻き付けただけの日原院亞璃須は、しずしずと湯船につかる。
志智との距離は横2メートル。挑発するような流し目。
「マナー違反というのなら、タオルは取りますけれど?」
「い、いや、それでいい。取るな。いいか、取るんじゃないぞ?」
「意外にウブですわねえ……わたくしとしては、いつでも構いませんのに」
「か、構っ……構うだろ。そ、そういうのは」
「………………くすくす」
動揺する志智の姿がよほど楽しいのか、亞璃須はにやにやと笑いながら、小波も立てずに1メートルの平行移動。
ばしゃばしゃと音を立てて、志智の体が同じだけ逃げる。
「そんなに遠くにいると、話もできませんわ」
「十分聞こえるだろっ!!」
亞璃須が追う。志智が逃げる。
何度か等距離の移動を繰り返して、志智が壁際に追い詰められると、亞璃須はその正面に居を構えた。
「さて、これで王手ですわね」
「いったい何の勝負だよ……」
「志智。キャンプになにか嫌な思い出でもありますか?」
不意に真顔で問いかける亞璃須。志智はつまらない失言でもしてしまったかのように、顔を背けた。
「別に……ないよ」
「嘘ですわね。さもなくば、火に嫌な記憶でも?
夕食のとき、ひどく悲しい顔をしていましたもの。わたくしが見逃すと思いますか?」
「……お前、そういうところ鋭いよな」
「あなたのスパーダが細かくモデファイされていても見おとすでしょうけど、志智自身の変化は絶対に見おとしませんわ」
「そこまで断言されると、誤魔化しも効かないよな」
大きくため息をついて、肩をすくめる。
そんな志智の仕草を見て、亞璃須は満足げに微笑んだ。
「……葬式のことを、さ。思い出したんだよ」
「お葬式……?」
「うちの両親は……俺が中二の時に飛行機事故で死んだんだ。
戻ってきたのは骨だけだった。俺は当時、何がなんだかさっぱりわからなかったんだけど……いきなり、さ。
小さな箱が届けられて、そこに入ってる白い棒みたいな何本かが……これが父さんと母さんだって、言われてな。
もうとっくに骨だけになってるのに、燃やしたんだ。思い出の品とかさ……煙にして、送ってやるんだって。
その時のことを少し思い出しただけさ」
「………………志智」
「……夕食は楽しかったぜ。
炭火焼きっていうのは、うまいよな……千歳の料理もおいしいけど、キャンプならではのああいう味はなかなか出せないな……」
「あなたは優しい人ですわね。
そういうところ、とても好きです」
「そいつはどーも」
うつむいたその頬に流れた水滴が、温泉の湯気によるものなのか、そうではないのか。
亞璃須は確かめようとしなかったし、どちらでもよいことだった。
「でも、本当に楽しんでるんだぜ、俺」
「………………」
志智が顔を上げたとき、その瞳に悲しみはない。
ただ、僅かながらの脆さはある。
「ツーリングが楽しいなんて━━そんなことすら知らないで。
俺はバイクに乗り始めて。あの場所を……大多磨周遊道路をめちゃくちゃに攻めまくってさ。
お前と遭わなかったら、きっと今頃、父さんと母さんのところにいたんだろうな……」
「……そうですわね。
あの時のまま、走り続けていたら遠からずそうなっていたと思いますわ」
「それはそれで本望だったんだ。
俺は……それでも良かった。
ああ、それが良かった。お前だけが知っている通り、俺はそれを望んで走っていたんだ」
「………………」
「たまに思うんだよ。
俺は……あの時よりすこしくらいは、バイクに乗ることがうまくなっているかもしれない。
人生ってやつも楽しんでいるのかもしれない。
誰かと一緒に走って、話して、笑って、飯を食ってさ……こういうキャンプ場に泊まったりするのがすごく楽しいことだって……それも知ることができた。
だけど、思うんだ。
俺はあの時より……実は弱くなっているんじゃないかって、な」
「それは……」
そんなことはないと口にしようとして、亞璃須はなぜか言の葉を紡ぐことができない。
(確かに志智は。あの頃の志智は、今よりも……)
強かった。間違いなく強かったのだ。
だが、強いとはなんだ? モーターサイクルに乗って、速く走れるということだろうか。
そうではない。亞璃須の唇を思いとどまらせているのは、そんな単純な強さではない。
「……あなたは自分が弱くなっているとしたら、どう思いますか?」
「俺は男だからな。
なんていうかな……恥ずかしいとまでは言わないけど、残念だよ。大したことじゃないけどさ。
本能的にって言うか……やっぱり、残念な気持ちになるな」
「わたくしでは、あなたを強くすることはできませんか?」
「……強くする?」
「ええ、そうです。
弱いままでいいなんて軟弱なことは言いませんし、あなたは弱くなっていないなんて、適当な慰めを言うつもりもありません」
「……そう、か」
「志智。あなたは強い人です。強くなれる人です。
両親の死を乗りこえ、家庭を支え、妹を守ってあげることのできる、強い男の人です」
「そうなのかな。そんなの、兄貴としては当然のことじゃないか?」
「いいえ。当然を超えて、とてもとても立派なことですわ」
「自信ありげだな」
「わたくしも長女で姉ですから」
「なるほどな」
志智の表情がほころぶと、亞璃須はほっとしたように笑った。
それは理由も分からず泣き続けていた幼子が、やっと寝息を立て始めたときの母親のようだった。
「━━わたくしは。
わたくし、日原院亞璃須はあなたの隣に立ち続けられる女です。
あなたに置いていかれることはない。あなたをおざなりにすることもない。
三鳥栖志智。あなたと同じスピードで。あなたと同じ生き方で。
一緒に歩んでいける存在です。
だから、わたくしはあなたを強くする者です。
……あなたは、わたくしと共にあることで、強くなれるはずです」
「素直な感想言っていいか」
「どうぞ」
「すっげー抽象的。意味わかんねーや。何言ってんだお前。
……でも、不思議と伝わるな。
要するに俺がスパーダで走って、お前がXRで追いかけてくるってわけだ」
「ええ、そうです。油断すると、すぐに追い抜きますわよ」
「確かに抜かれたり、抜かしたりしそうだな」
「そういう時間をあなたと一緒に過ごしていきたいと言っているのです。
……これって、乙女の大告白ですわよ?」
「ふっ」
イエスともノーとも言わず、志智はただ目を閉じて笑った。
なぜか亞璃須には、その曖昧な表情が救いを求めているように見えた。
「……………志智」
「……………っ」
水の音がして、二人の体がすこし近づいて。
二つの唇が触れあった。
蕩々と流れる、湯の音だけが響き渡る。
最初に目を開けたのは、志智の方だった。
「……言っておくが。
今のはさ……いろいろ話聞いてもらった料金だからな」
「ふっ……うふふふふふふ。
うふふふふふふふふふふふふふ~♪
もらっちゃった~、志智の唇もらっちゃった~♪ わ~い、わ~い♪ やったあ♪」
「唄うなっ! あー……あと絶対、人に言うなよ! 秘密だからな!!」
「なるほど、わたくし達だけの秘密が二つになったわけですね」
「……まあ、そういうことだ」
数分ずつ時間をずらして外に出ると、山の向こうが太陽の朱に染まり始めていた。
星は急速にその姿を消し、笑っていた半月は白くその表情を固めていく。
朝が来て、ヒトが目を覚まし、世界の営みがはじまる。
これからどこへ行こうか。忍者屋敷? 神社? どこでもいい。一緒に行くなら、きっとそれは楽しいのだろう。
照りつける太陽の朱が夕陽の赤銅へと変わる前に、三人は帰路につき、夜遅くに自宅へ戻った。
三鳥栖志智にとって、そして日原院亞璃須にとって。
一生の思い出となった一泊二日のキャンプツーリングは、こうして楽しい記憶だけを残して終わるのだった。




