013:天音の変貌(1)
◇2038年5月@福島県岩木市 <矢吹天音>
五月の終わりに「光のチョウ」へ変異し、夜空を舞う事を覚えて以来、矢吹天音の毎日は、すっかり様変わりした。それまでのどんよりと濁った灰色の日々が、急に輝き出したのだ。
それは、単に夜空を舞うのが楽しいというだけじゃない。楽しい事を見付けた事で、生活に張りが出来たのもあるけど、他にだって理由はある。
今まで良く聞こえなかった耳が、逆に人一倍に聞こえるようになった事とか、やはり近視だった視力が誰よりも見えるようになった事とかも重要ではあるけど、それでも、まだ彼女の変化を語り尽くしたとは言い難い。
たぶん、天音の変化の一番大きな点は、彼女の心に初めて余裕が生まれた事だろう。
それまでの天音は、常に何かに怯えていた。耳が良く聞こえなくて、突然、誰かに怒鳴られたり叩かれたりする環境に置かれていては、心の平穏など得られる筈がない。
だけど、そんな彼女が誰よりも優秀な聴力と視力を得て、その上、いざとなれば完璧に逃げられる術まで身に着けたのだから、安心できて当然だろう。
天音が光を纏う術を身に着けて夜空を舞った翌日、彼女は久しぶりにすがすがしい朝を迎えた。それほど天気は良くなかったけど、そんなのは関係ない。
その朝の天音は、今までに初めて母の涼子に、「学校で何か良い事でもあったの?」と訊かれた。もちろん、「ううん、何にも無いよ」と答えたのだが、表情はニヤけたままだ。
「あら、そうなの? てっきり、誰か好きな男の子でも現れたのかと思っちゃったわ」
「もう、そんな訳ないじゃない」
「まあ、良いわ。とにかく、気を付けて行くのよ。今日は、夜の八時まで残業だと思うから、夕食は適当に食べて頂戴」
「分かったあ!」
ちなみに母の涼子は、いつだって大声だ。それは天音の耳が悪いのを補う為なのだが、それでも涼子は、『半分でも通じれば充分』ぐらいに思っている。そして、大切な事は必ずメールする。
それなのに、今朝の天音との会話はあまりにスムーズで、それを涼子はしきりに訝しんでいたのだが、少々浮かれた状態の天音に、それが分かる筈もなかった。
★★★
そして、少し浮かれた状態のままで学校の教室に入って行くと、やっぱり例のイジメっ子逹が待ち構えていた。
天音は心の中で溜め息を吐きながら、ぼんやりと彼女達に目を向ける。すると、何故か手前の女子が天音の足を引っ掛けようと「考えている」事が判った。天音は、一歩後ずさって、その足を避ける。天音の思い掛けない動きに、バランスを崩された女子が、すぐ横の机に倒れ込む。その机が大きな音を立てて倒れるのを、近くにいた不良男子達が慌てて支えた。
それは、今までの天音がされてきた事なのだが、そんなのは関係ないとばかりに倒れ込んだ女子がきつい目で睨んでくる。だけど天音は平然と素知らぬフリをして、大回りで自席へと向かう。席に座った天音の所に、イジメっ子逹がやって来て言った。
「あんた、今日の放課後、体育館の裏に来な。来なかったら、承知しないからね」
天音は、無表情を保って頷いただけだったけど、内心では狂喜していた。
そして放課後になって約束通り体育館の裏手を訪れた天音は、そこにイジメっ子の女子三人だけじゃなく、不良男子の二人にも迎えられた。どうやら、天音をハダカに剝いて色々と楽しみたいらしい。『痩せっぽちな私のハダカなんか見たって、しょうがないのに』と思いながら、サッと天音は変異してみせる。光を纏った天音を見た五人の生徒達は、天音の期待どおりにガタガタと震えてくれた。
『昼間だから』と少し心配だったけど、体育館の裏は繁みに覆われて元から薄暗かった上に、曇天だったのが幸いした。つまり、それだけ銀色の光が眩しかったという訳だ。
光を纏った天音は、彼らの身体を素通りすると、そのまま学校のフェンスをすり抜けて校外に出た。背中に小さめのリュックを背負っていたので、そのまま帰る事にした。
多少の物を身に着けた状態でも変異できるのは、実は朝のうちに試してあった。通学の途中、人のいない所で密かに変異してみたのだ。
その後、地面から大きめの石を持ち上げて変異したけど、持っていた石は足元に転がってしまった。昨夜、ポケットに小石を入れた時は大丈夫だったから、「手持ちは駄目、身に着けた物は運べる」という事のようだ。
ただし、これは後で分かった事だけど、大きすぎる荷物の場合は、「身に着けた」にならなくて運べないようだ。だから、リュックに入れる分量には注意しないといけない。
★★★
更に翌朝、天音が教室に入っても例のイジメっ子逹は絡んでこなくなった。その代わり、やはり化け物を見る目で遠巻きに伺っている。だけど、そんなのは今更だ。
そうやって開き直っていたら、前の席に座る髙木苑実という女子が、いきなり話し掛けてきて、好きな小説の話で盛り上がってしまった。実は彼女、こないだ天音が読んでいた小説が気になっていたらしい。
最近、本はスマホやタブレット端末とかで読むのが普通だけど、時々、天音は母から借りたりして、昔の文庫本とかを読んでいる事がある。きっと、その時に本のタイトルを見たんだろう。
「私も紙の本って、割と好きなんだ。なんか、スマホとかで読むよりも、『読書してる』って感じがするんだもの。うちの学校の図書館にある本も、時々借りたりするんだよ」
図書館にある本は、当然、紙ばかりだ。だから最近は、あまり人が寄り付かない。昔は「図書委員」なんてのもあったそうだけど、今じゃ古いラノベとかにしか登場しない。様々な所で親の世代の学校生活とは、すっかり様変わりしているのである。
ともあれ、この日、晴れて天音は、生まれて初めての友人第一号を確保したのだった。
★★★
その週の土曜日の朝、八時を過ぎて食卓テーブルに着いた天音に向かって、母の涼子が声を掛けてきた。
「ねえ、天音。あんた、あたしに隠してる事があるでしょう?」
涼子の声は、いつもよりも小さかったのだが、その事に天音は気付かない。目の前に置かれたお皿の上のトーストに、イチゴジャムを塗りながら、「別に、無いけど」と呟くように返しただけ。
それでも内心では、『何をどう話そうか?』と高速で頭を回転させていた。だって、隠している事があまりにも多すぎる……。
「まあ、隠したいんだったら、別に良いけどね。でも、あたしにはお見通しなんだよ。なにせ十二年以上も、あんたの親をやってるもんでね」
涼子もまた、独り言を呟くような物言いだ。普段の天音なら絶対に反応しない場面だけど、つい天音は、「別に隠したいって訳じゃないけど……」と答えてしまう。
その言葉を受け取った涼子は、静かに天音の前の席に座ると、一人娘の顔をじっと見ながら先を続けた。
「そうかい。じゃあ、話してくれる? あんたの耳、いつ治ったんかい?」
『ああ、その事か……』と思った天音は、小さく息を吐いてから、「数日前だよ」と答える。
「なんかさあ、朝、目が覚めたら鳥の鳴き声が聞こえるんだよね。今まで聞いた事なかったから、最初は何の音か分かんなくて混乱してたんだけど、学校に行かなきゃなんないから、慌てて支度してるうちに忘れちゃっててさ……」
鳥の鳴き声に驚いたのは、本当だ。その後、素早くスマホで動画サイトを開いて、「朝の音」でピックアップされたのをチェックしたら、すぐに分かった。
天音は、耳が聞こえるようになった理由を「分からない」で押し通す事にした。「光のチョウ」の事は、言っても信じてもらえないと思ったからだ。いくら親だって、「頭がおかしい子」だと思われちゃうのが目に見えている。
そして、月曜の午前中に学校を休んで掛かり付けの耳鼻科に行く事になったのだが……。
「私が診た限りでは、どこにも異常はありません。天音ちゃんの聴力は完全に戻ってますね。いやあ、信じられません。ですが、一応は大学病院で精密検査を受けられた方が良いかと思うんで、紹介状を書かせて頂きますね……。あ、いや、心配いりませんよ。たぶん、検査は一日で終わるんじゃないかと……」
先生は、その後も何やらごちゃごちゃと言ってたけど、全て天音はスルーした。そして、母の涼子に、「この病院、もう二度と来ない」と宣言した。
「大学病院は、どうするんだい?」
「そんなの、行く訳ないでしょう。どっこも悪くないって言うんだから、お金を払ってまで病院に行く必要なんて無いじゃない」
岩木市に大学病院は無いから、何時間も掛けて福島市まで行かないといけないのだ。あの医者の為に、そこまでやってやる必要なんてない。
実は、視力の方も戻っているのだが、当然、そっちも「なんか、耳と一緒に治ったみたい」で押し通す事にした。涼子は、「不思議な事があるもんだねえ……」と首を捻っていたけど、そんなのは無視だ。
この時、涼子が困惑していたのは、いつも気弱な娘のハキハキとした受け答えの方だったのだが、その事に天音は気付かない。
病院から出ると、外は良く晴れていた。今日から六月だけど、梅雨になるのはもっと先らしい。
今の天音には、「これから全てが変わる」という確信があった。
天音は大きく伸びをすると、母を促してバス停の方へと力強く歩いて行った。
END013
ここまで読んでくださってありがとうございました。
次話は、「天音のやらかし」になります。
できましたら、この後も、引き続き読んで頂けましたら幸いです。宜しくお願いします。
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