第13章 権限剥奪
三日間、俺は手帳に書き続けた。
この世界の仕様を、覚えている限りすべて。
作物の成長値の計算式。魔物の出現率の補正値。町ごとの安全地帯の範囲。隠しイベントの起動条件。当たり判定の穴の座標。裏コマンドは、どうせ消える。だから、コマンドではなく、仕組みそのものを書いた。権限がなくても、住人の手で動かせる仕組みを。
ページが足りなくなり、セシリア殿下に頼んで、王立書庫の白紙の帳面を十冊、届けてもらった。
「これを全部、書くの?」
壁抜けの角度にもすっかり慣れた殿下が、積み上がった帳面を見て、呆れた声を出した。
「権限が消えても、知識は消えない。……と、思いたいんです」
「思いたい、ね」
殿下は、書きかけの帳面を一冊手に取り、ぱらぱらとめくった。
「鐘の鳴らし方。北の森の壁の歩き方。東門の三本杉。……ねえ、これを王立書庫の禁書棚に並べたら、学者たちが泡を吹いて倒れるわよ」
「倒れる前に、使ってほしいんですけどね」
「使わせるわよ。必ず」
殿下は、書き上がった帳面を何冊か胸に抱えた。王宮で写しを作らせておく、と言って。
ナナは、その三日間、ずっと俺の隣にいた。俺が書いた帳面を、一冊ずつ読んでいた。
「アルト。この記述は、正確ですか」
ナナが指さしたのは、北の森のページだった。
《テスト区画の登録リスト:test_07のみ残存》
「ああ。お前だけが、あそこの正規の住人だ」
「正規の住人」
ナナは、その言葉を確かめるように繰り返した。
「私は、どこにも属していないと思っていました。役割はnullでしたから」
「北の森は、お前の故郷だ。役割なんか、なくていい」
ナナは、しばらく帳面を見つめていた。それから、そのページの端を、そっと指でなぞった。
「……故郷」
なむは、長机の上で眠り続けていた。御堂の攻撃から、まだ回復しきっていない。尻尾の光は、細い糸のようだった。
二日目の夜、俺は試しに、コンソールを開いて打ち込んだ。
「@root」
「debug.backup root_permission」
《エラー:このコマンドは存在しません》
権限の写しを取っておく方法など、最初から作っていない。当たり前だ。権限が消える日のことなど、開発中は誰も考えなかった。
三日目の、零時。
開発者ルームの窓から、王都の夜空を見上げていた。
最初に気づいたのは、星だった。
星が、止まった。瞬きをやめ、空に縫い止められたように。
次に、音が消えた。風の音も、遠くの犬の鳴き声も、時計塔のきしみも。
そして、空に線が一本引かれた。
王都の端から端まで、夜空を横切る、真っ白な細長い帯。その帯の中を、ゆっくりと、緑の光が左から右へ満ちていく。
「……進捗バー」
思わず、声が漏れた。
読み込み中の表示。アップデートの進み具合を示す、あの横長の帯だ。
それが、世界の空に浮かんでいた。
王都中の窓に、明かりが灯っていく。人々が、通りに出てくる。空を見上げ、指をさし、悲鳴を上げる者もいる。
この世界の住人が、初めて目にする、世界の外側の顔だった。
緑の光が、帯の三分の一を満たした。
俺は、手袋を外した。素手の両手を、目の前にかざした。
「@root」
時間が延びる。指先から手の甲へ、回路の光が走る。
《root shell ── 認証中……》
《認証:根津 創》
《権限:root(残存・一部制限)》
まだ、ある。
緑の光が、帯の半分を越えた。
指先の光が、ちらついた。回路の線が、端から一本ずつ消えていく。
《警告:権限情報の更新を検出》
《root(残存)── 無効化処理中》
「待て……」
緑の光が、帯の四分の三を満たす。
手の甲の回路が、消えた。
指先の光が、蝋燭の火を吹き消すように、ふっと消えた。
《権限:なし》
コンソールの窓が、端から砂のように崩れていく。
最後に残った一行は、見慣れた書式で、こう書かれていた。
《セッションが終了しました。ご利用ありがとうございました》
空の帯が、緑で満たされた。
帯が消える。星が、また瞬き始める。風の音が戻ってくる。
何事もなかったかのように、夜が続いていく。
「@root」
何も起きなかった。
「@root」
時間は延びない。指先は光らない。窓も開かない。
「@root、@root、@root……!」
声が、むなしく開発者ルームの壁に吸い込まれていく。
片眼鏡をかけた。何も浮かばない。真鍮の縁取りの、ただのレンズだった。開発用の道具も、まとめて無効にされたらしい。
十年間、毎日打ち込んできた文字列が、ただの音になった。
俺は、ただの十四歳の少年になった。
膝から、力が抜けた。床に座り込んだ。
「アルト」
ナナが、俺の前にしゃがんだ。
「状態を確認します。損傷は、ありますか」
「……ない。どこも、怪我なんかしてない」
ただ、何もなくなっただけだ。
「質問します」
ナナは、首をかしげた。かくり、と、少しだけ角度が大きすぎる動きで。
「アルトの頭の上の名前は、まだ表示されています。『アルト・ラディクス』と。これは、アルトがまだここにいる、ということですか」
俺は、ナナの顔を見た。
ナナには、まだ名前が見えている。
片眼鏡は、ただのレンズになったのに。
だが、その時の俺には、その意味を考える余裕がなかった。
「……ああ。いるよ。いるだけだ」
窓の外では、王都の住人たちが、まだ通りで空を見上げていた。不安げに。怯えながら。
どこかで、大神殿の鐘が鳴り始めた。誰かが、鐘の坊主の真似をしたのだろう。三つ鳴らして、二つ待ち、もう一つ。
城壁は、光らなかった。
聖域の鐘のイベントも、消されていた。
夜明け前、眠り続けていたなむが、かすかに目を開けた。
「……創造主」
「なむ」
「空に……大きな、穴が開きます」
琥珀色の瞳が、窓の外を見ていた。
「パッチの次は、収穫です。王都全域の、大規模な」
東の空が、白み始めていた。
その白さの中に、もう一つ、白いものがあった。
王都の真上に、巨大な白い輪が、ゆっくりと開き始めていた。




