ロロスの森 其の三
気配を感じたのか、女はゆっくりと振り返った。阿利襪色の髪が揺れ、白い顔が見える。
背の高い女性だった。均整の取れた体つきをしている。だかそれはたおやかという言葉で飾るよりも、女らしい丸みを残しながらも鍛錬を積んだしなやかな勇ましさを感じさせた。服装や装備からいっても、傅かれ守られる側の人間とは思えぬ。きりりとした眉や閉じられた唇、このような状況に遭遇しても狼狽えることなく冷静を保てる態度など、戦士のものといえるだろう。
それもそのはず。この女性は、大地女神カヤトを奉るグウィデオン大神殿に仕える神女にして、必要とあらばその手に剣を握る武者でもあった。
糸杉のような麗人は憂いを含んだ表情ではあったが、凜々しい青灰色の瞳はリューゼとセオリエ主従をしっかりと捉えていた。
「メレルカを道案内に遣らせたが」
――無事にここまで辿り着けたか、と云いたいのであろうか。主従はずぶ濡れ泥だらけの惨憺たる姿ではあったが、怪我はない様子なので彼女にとっては「無事」の内らしく、声には安堵感のようなものがかすかに滲んでいた。
ちなみにメレルカとは、彼女が使役する体長が40寸もある妖鳥ホルグの名前である。やはり魔導師ヴィラから彼らの窮地を救い、アジブローズの庵へと導いたのは、この女性の使い魔であった。
「ナミュリス殿」
セオリエが彼女の名を呼ぶ。礼を言おうとしたのだが、それは無用途ばかりにナミュリスと呼ばれた女性は首を振った。その表情は、当然のことだと言いた気でもある。
だが、このやりとりを一歩後ろでみていたリューゼは、面白くなさそうに片眉を吊り上げた。無礼にも映る彼の態度だが、その理由を知っているセオリエとナミュリスは小さな苦笑で受け流してしまう。乳兄弟と女武者には、アビナ家の公子が不機嫌なのはいつものことだ、という認識なのかも知れない。
そこもリューゼとしては面白くないのだが、ナミュリスの助力が不快だったわけではない。ことを見透かして、高見から救援を指示したであろう人物――彼女の主人であるグウィデオン大神殿の祭司長が嫌いなのである。
「私がここに来たときには、すでにこの老人は死んでいた」
淡々と、事実だけを告げる。素っ気ないが、いかにもこの女らしいとリューゼは思った。
ナミュリスの方も、それだけで全てが通じると考えているのだろうか。再び骸へと向き直ると、目を閉じ頭を垂れ、小さな声で死者を悼む祈りを唱え始める。
風采は戦士でも、ナミュリスはカヤト女神に仕える神女。神話ではカヤトが産んだとされる死の女神のもとへと、死者を送り出すのも、また彼女たちの役目。
高く低く静かに流れる旋律、老人のための挽歌が冷えた洞窟内に響いていた。
女武者の言葉を疑うわけではなかったが、セオリエはアジブローズに近寄ると、追悼の意を示したあとその遺骸を観察し始めた。
老人はうつ伏せに倒れていたが、首は横にねじれている。死に顔は目をカッと見開き、驚いたような顔をしていた。暗殺者の意図を探る間もなく、訳もわからず命を奪われたのか。恨みがましく歪んだ口元から、なにか言いたげな舌の先が見えた。
哀れを感じたセオリエは、そっとアジブローズの目と口を閉じてやる。
視線を移すと、ざっくりと背中から袈裟に切りつけられているのが確認できた。それが致命傷となったのだろう。痩せ細った小さな身体から流れ出た血の量は多くなかったが、辺りに充満する泥とカビの臭いに、胸の悪くなるような生臭い臭いが混じっていた。
だがまだ遺体は硬直が始まっておらず、体温が残っている。死斑も浮き出ていないくらいだから、アジブローズは殺されてから、まだいくらも時間が経っていないといえるだろう。
「すると、我らと入れ違いに暗殺者は立ち去ったということか」
後方から憮然とした顔で様子を眺めていたリューゼだったが、何者かによって目的が邪魔されたこと――それも僅かな差で老人の言葉を聞けなかったことを知ると、よほど悔しかったのか拳で思い切り土壁を叩き怒りを爆発させた。
その行動をみていたナミュリスが、不思議そうに首を傾げる。
「公子殿は、この老人になにか用事があったのか?」
瑠璃色の瞳に怒りをため込んでいる主人はその問いに答えようとしないので、代わりにセオリエが説明することになる。
「夢占のお告げを。なにやら公子の将来のことについて、不思議な夢をみたと言っていたのです。こういった占い師やまじない師がよく使う手段で、途中まで喋って、あとはその場では話せないからここまで聞きに来いと言われました」
「ふうん。適当な言葉を並べて、不安を煽り惑わせて、料金を採取る輩か。しかし、そんなお告げとやらにどんな信憑性があるのだ。公子殿はロサの王になるのだと、グウィデオン大神殿の祭司長がおっしゃったのだ。神託ぞ、これに勝る保証はあるまい」
神殿に仕える神女であるナミュリスにとっては、大神殿の長である祭司長の言葉は絶対であったから、それに疑問を抱くリューゼの心情が理解できなかったとしても仕方がないこと。
だが彼には、祭司長の神託さえも眉唾物にしか聞こえない。
簒奪者からロサの王位を奪還したいのは、リューゼ・リ・アビナの本心であり悲願でもあるのは間違いない。だが、それをいいように反バック同盟の旗印に利用されるのは本望ではなかった。
闇神の復活を願う闇公バックと、大地女神の威勢を守りたい祭司長。闇公の支配力が強くなるほどに、このふたりの反目はあからさまとなり、ソル大陸の国々を巻き込んでいた。
闇の進行を阻止するためだけならば理解も出来ようと、リューゼは考える。だが大地女神を奉り、奉仕するのが本来の仕事であるべき祭司長が、その威光を笠に着て政治にまで平気で嘴を挟むようになったのは、いつの頃からか。
聖地グウィデオンの神殿の奥深くで、誰にも姿を見せず、神女を介してソル大陸の情勢を振り回そうとする人物が信用ならないのだ。
ナミュリスがここに現われたということは、今回もそんなことだろうと彼は考えていた。神託という名を借りて、ロサ王家の生き残りという駒を動かそうとしている。承服しがたいことだが、現在のリューゼはそれに従うしかないのも事実だった。
カヤト女神の神託があるからこそ、祭司長という後ろ盾があるからこそ、彼はアビナ家の公子としての地位が保たれているのだから。
今は大人しく利用され、その影で爪を研ぐ時期なのだと反発心を押さえ込む。
「して、今回はなにを言ってきたのだ祭司長は」
いつもの事ながら、どうして彼らの行く先々に神女を派遣できるのかは謎であるが、女武者に訊いても答えることはないだろう。グウィデオンの怪だ。
「公子殿にはフェドライン公国へ行くように、と仰せになった」
それを聞いて驚いたのはセオリエだ。
「フェドラインというと、ロサの王家の血をひく姫君がおられる……」
フェドライン公国――。ソル大陸の中部、シルド平原を南北に走るグルザール山脈の南にある国だ。北部は山地だが、南はペトロニユ海に面し、交易が盛んな国である。
国主の大公が住まう首都はラリスだが、隠居した前の大公であるイザク老公が、ヴェルドワと云う地で「黄金の都の黄金の竜騎士公」と呼ばれたレゼヴィエ公の遺児を養育していた。
「――マーミリージュ姫と云うのだそうだ」
ナミュリスがうなずいた。
寸= 3センチ
前回の魔導師ヴィラに続き、グウィデオン大神殿の神女ナミュリス、フェドライン公国のイザク老公、そしてリューゼと同じくロサ王家の血をひくマーミリージュが(名前だけですが)登場。
もうひとり、祭司長という人物が裏で糸を引いているようですが、少しずつソル大陸の情勢が明らかになってきました。
さて。祭司長はリューゼにフェドライン公国行きを要求していますが、どうなりますことやら。
次回をお楽しみに。それでは、また。




