75話
懐かしく、そして幸せの象徴だった屋敷の前で、カルは複雑な思いを抱く。
父が亡くなり、母と共に追放されたクライズ家に、まさか再び戻ってくるとは思わなかった。
もし父がまだ存命していれば、何一つわからないままフィンソスの伴侶として過ごしていただろう。
そしてルキアに会うこともなく。
そう思い、カルは微かに笑みを浮かべ頭を振る。
いいえ、そんなことになってもきっと貴族の生活に馴染めず、母のように精神を病んでいただろう。
だからここを追放されて良かったのだ。
自分にとって守りたいものでき、そのためならどんなことも厭わない強さを身につけたのだから。
そのためならば、クライズ家の屋敷に忍び込むことなど怖くはなかった。
ただ……心配なのは、現当主である叔父がいない時間にやらなければならないのだが…。
カルは警備兵に見つからないよう、屋敷の裏口に回った。
と、密かに手紙を渡していた人物を人影を見つけ、カルは警戒しながら近づく。
「サラ」
「!」
白髪交じりの茶髪を結い上げた女性ははっと顔を強ばらせ振り向き、カルだとわかると安堵と怯えが入り交じった表情を浮べた。
「ああ……カルスティーラ様……本当に生きておいででしたのね!」
「ええ。サラも……元気そうで安心したわ」
「カルスティーラ様はとても……苦労されたのですね。ですがここにお戻りになられたからには、誠心誠意お仕えいたします」
「それは……叶わぬ望みだわ、サラ。私はクライズの名を剥奪された身。今の私は、ルキア王女付き侍女のカルよ。だけどあなたがまだクライズ家に残っていてくれて、感謝しているわ。どうやってこの屋敷に忍び込もうか悩んでいたから」
ちらりと皮肉げに笑うカルに、サラは不安げな面持ちで見返す。
「……本当に、この屋敷に入るのですか? 見つかればただではすみませんよ」
「見つからなければ大丈夫なのでしょう? …仮に見つかったとしても、その覚悟はできているつもりよ。乳母だったあなたに、こんなことをさせてしまって申し訳ないと思っているわ。だけど……どうしても私はこの屋敷に用があるのよ」
強い光をたたえた瞳で断言するカルに、サラも決心したように頷いた。
「たとえカルスティーラ様がクライズの名を剥奪されても、私は死ぬまであなたの乳母です。カルスティーラ様が望むのであれば、私はなんだっていたします」
その言葉にカルは嬉しいような、切ないような笑みを浮べた。
「……ありがとう、サラ。そしてごめんなさい、あなたを巻き込んでしまって」
「気になさらないでください。これもきっと何かのお導きなのかもしれません。…さあ、時間がありません。マルバノ様は今、外出していています。うまく侍女として紛れ込めば、しばらくは他の者の目を誤魔化すことができます」
「わかったわ」
うなずき合うと、サラの先導に従って、カルは屋敷の中に入った。
サラに誘導されながら、カルは用心深く周囲を見回す。
屋敷はかつて住んでいた頃とあまり変わらず、カルは記憶を頼りに回廊を進む。
ただし母が好んで飾り付けていた手織りの壁掛けや装飾品は取り払われ、重厚でいかにも貴族が好みそうな精緻な細工物に掛け変えられていた。
それだけで屋敷内の雰囲気が変わり、高級感が辺りに漂う。
改めてここはもう、自分の住んでいた屋敷ではないのだと気づく。
カルは悲しみを振り払うように軽く頭を振り、レクシュに教えられた部屋へと進んでいく。