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チェンナの森  作者: 香_t
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序章 チェンナ

 チェンナの鼻は黒すぐりの実のように黒々としている。


 どんぐりの形をしたまなこは、すこし取り澄ましたように跳ね上がっている。

 チェンナが微笑むと、緑玉石の瞳が長く柔らかい睫の下にうっとりと隠れる。

 体にまとう灰色の毛並みは、薄雲りの空のまにまに注ぎ込む光りに当ると、ほのかに青みがかったビロードの輝きを放つ。

 それは本当に、美しい毛並みで、誰もがあたりまえのこととして賞賛する。


 けれど、チェンナは、そういわれると、いつも、ピンと立ち上がった二つの耳を、気恥ずかしげに伏せる。

 チェンナは、何につけても、良く言われるのが、苦手だ。

 見た目のことは生まれつきのもので、努力の必要もないことだし、それ以前に、自分はそれ程のモノではないから、というのがいつもの言い訳。

 チェンナがすばらしいってことは、誰もが知っていることなのに。


 チェンナは東の空がこがねに染まった頃に家を出て、一本道のずっと先の畑へと出かける。

 手には、おにぎり二つ。

 時々、家の前で育てた青菜を添えたお弁当を持って。


 影が一番短くなったお昼時に、チェンナは畑の真中で弁当を食べる。

 食べ終わると大きく伸びをして、小さな綿菓子のような両手にもう一度鍬を持つ。


 そして、西の空にお日様が傾きかけた頃、細い畦道を家路につく。


 それが、チェンナのいつもの生活。



 けれど、最近、この辺りは冷たい雨が多い。

 夏の間も気温があがらず、みんなが、今年の収穫を不安に思っている。


 もちろんチェンナもそう。

 畑仕事のできない日が続くと、チェンナの表情も陰る。


 そんなチェンナの所に、昨日、テイさんがやってきた。

 テイさんはチェンナと畑の隣あった人だ。

 だから忙しい時はお互いに手伝いに行っている。


 テイさんは普通の人だ。

 チェンナに比べたら、なんて面白味のない人だろうって思うけど、でも、悪い人じゃない。


 テイさんは、チェンナと、蒸した赤芋を縁側で剥きながら、マツリダケの話をした。

 マツリダケなら、この辺の山にはごろごろしている。

 暑すぎも寒すぎもせず、一年を通して、じめりとした場所にはよく育つというから、この辺りの気候は一番いいのじゃないだろうか。

 けれど柄が大きい分大味で、そんなに好んで採る人はいない。


 そう、つい最近までは。


 去年の夏の終わり頃からだったろうか。

 そのマツリダケを村の人たちがこぞって採りに行きだした。

 その噂はずっと風のまにまに耳にしていたけれど、テイさんもその一人とは思わなかった。


 チェンナは手の中の赤芋を、小さな口で一つ噛りながら、独り言を呟くように、


「最近はみんな、マツリダケをとるのに必死で、畑の世話にまで、手が回ってないようですね」


 と、言った。 


 それに対してテイさんは、こびるような笑いを浮かべてみせた。

 チェンナに悪く思われるのが嫌なんだ。

 誰だってそうだろう。

 だから、今までは誰もチェンナの所までマツリダケの話はもってこなかった。


「××も、採りに行っているよ」


 突然、名前を出されてびっくりする。

 ひどい。まるで悪事の片棒を担がされたような気にさせられる。

 けれどチェンナは振り返らなかった。

 多分そうだと思っていたけど、チェンナはもうとっくにそんなことは知っていたんだろう。


「畑を耕すより、ずっといい実入りになるんだよ。ヤッテンなんか、マツリダケ一本で、今までの一年分の収入を得たって話だよ」


 テイさんはどうしても、チェンナにもマツリダケ採りに参加してもらいたいみたいだ。


 それはそうだろう。

 そうしてくれれば、テイさんを始め、村中の人が、ただ一人、今も昔もずっと真面目に畑仕事を続けるチェンナに後ろめたさを感じずにすむから。


「東の国の人は、よっぽどマツリダケが好きなんですね。一本に、それ程の高値をつけるなんて」

「ああ、面白いね。私たちは見向きもしなかったものが、大金に変わるんだから。ねえ、チェンナ、マツリダケなんか採っても、うちの村の者は誰も困らないよ。それどころか、豊かさを運んでくれるんだ」


 チェンナは、爪の間に挟まった赤芋の欠片を舌先で嘗めとった。

 そうしてから、剥がれかけの爪を噛み切る。

 一本、二本と。

 そうする時のチェンナは、何か気がかりな事があって、それに心を囚われている。


「ボクは、××には何もしてあげることができないから、××が自分で山に入るのは構わないと思うよ。でも、××はまだここら辺のことに詳しくないから、一人でやらすのは不安だったんだ」


 また、名前を呼ばれた。

 三度も続けて。

 その度にどれ程どきりとさせられるか分かって欲しい。

 でも、自分でまねいた不安の種だから、誰にも文句を言えない。

 ましてや、チェンナには。


「なら、どうして一緒に行ってやらない」

「今度は、そうするよ。××、今度は、一緒に行こう。今度、山に行く時は、ボクにも声をかけてくれる?」


 小さく頷くことでしか、返事ができなかった。

 チェンナに対しての申し訳のなさが、胸いっぱいに広がって、息ができなくなりそうだった。




 チェンナの指は長くない。

 だから、手を繋ぐ時には包みこんであげる。

 まるで、ウサギの手のようだね、といつか言った時、チェンナは鼻の頭にシワを寄せて、私を驚かせた。

 ウサギが好きじゃないの、と問いかけると、チェンナの額はもっと狭くなった。


 そしてチェンナはこう言った。


 ボクはウサギは食べたことがないから。


 チェンナの細く尖った牙を思い出し、私はどきりとなった。


 食べるの?

 ウサギ?


 可愛い、ペットで飼われているようなウサギを想像していたけど、チェンナからしてみたら、そんな風にはウサギは見えないのかも知れないと、急に戸惑いを覚えた。


 そんな空気が伝わったのか、チェンナは、少し小首をかしげるようにして静かな眼差しを返してきた。


 大丈夫だよ。

 ボクは肉は食べたくないんだ。

 それに今は肉を食べなくても、大分楽に暮らしていけるようになったから。


 チェンナは、肉を食べられないんじゃなく、食べない。

 そういうことらしい。

 その訳を、その時はっきりと聞きはしなかったけど、そうしたくないっていうことは、もうその答えになっているのかもしれない。


 誰にだって、そうしたくないことはたくさんある。

 私にとっては、チェンナと離れたくないってことがその一つ。


 何故、をつければ、数え切れない程にその理由をあげることができるだろうけど、でもやっぱり、それはそれでもう答えになっているように思える。


 ウサギの手のようにふかふかしたチェンナの手を包み込み、二人並んで小雨の降り注ぐ中、ぬかるんだ山道をゆく。

 そんな所にチェンナを連れ出してしまったことが、ひどく申し訳なかった。


「……チェンナ、ごめんね」


 私の肩先でチェンナの両耳が小刻みに震えた。

 それに雨の雫が小さく弾き飛ばされる。


「新しい服を買おうか」


 と、目を優しく細めて、チェンナが見上げてくる。


「チェンナの分も?」


 と、聞き返す。

 まるで恐る恐るといった口調でしか聞けないことが情けない。

 それでもチェンナは、ふくふくとした白毛の多い口元を微笑みに変えてくれた。


「××、頑張ってマツリダケを探そう。ボクも、欲しいものがあるし」

「何?」


 チェンナにも、お金で買うしかない欲しいモノがあったのかと驚いた。


「内緒」


 そう言って、チェンナはその細い目をもっと細くした。


 力をかければ折れてしまいそうな細い木の幹を頼りに、急な斜面を何時間も歩き周り、見つけたマツリダケはたったの一本だった。

 もう、村の人たちがみんな採ってしまった後なのかもしれない。

 それでもチェンナは濡れた朽ち葉の下から掘り起こした小さなマツリダケをそっと手の平に乗せて、腰につけた袋の中に入れてくれた。


「よかったね」


 と、言って。




 それを見たのは、途中、激しく降りだした雨の中、山を下りてきた時だった。

 村から町へと延びる一本道の先に、その姿があった。


 雨に霞む泥道の先の木立ちの元に、それは居た。

 陰欝な大きな黒い影が塊となり、まるで誘いかけるかのように、こちらを伺い見てる。

 それは、夜の闇の奥から這い出たような、鳥肌立つ悪寒を感じさせるものだった。


 チェンナの視線もはっきりとその方を見つめていた。

 そして、その灰色の毛並みの全てが逆立っていた。

 そんなチェンナを見るのは初めてのことだった。


 次の瞬間、チェンナと一緒に、逃げるように、影に背を向け、村への道を駆け降りた。


 二人濡れそぼって家に帰ると、ヒルコとオトがいた。


 いつも頭の先から足先まで被っている真っ黒な外套を、軒先にひっかけて、勝手に靴を脱いで上へ上がっていた。

 彼らが村に現れるとろくなことがないってことは、村の人はみんな知っている。

 それでも内に上げてやるのはチェンナぐらいだということを、彼らも知っているから、こうして、臆面もなくやってくるのだ。


「やあ、ヒルコ、オト」


 チェンナは、誰に会っても変わらずに、親しみを込めて声をかける。

 けれど、今は、その口調にほっとするような安堵感が含まれていた。


 ヒルコもいつもと違うチェンナの様子に敏感に気づいたのか、板張りの床の上を滑るように近づいてきた。

 まだ子供と言ってもおかしくない、幼さの残るヒルコは、チェンナと同じ位の背丈で並ぶととても親しげな風に映って、なんとなくしゃくに触ってしまう。


 それに反してオトの方は、もっとずっと背が高く、誰にあっても見下ろす側になる。

 そんなオトは気難かしやのヒルコの同行者だ。


「チェンナ、元気だったかい」


 オトは、火の熾った囲炉裏端ですっかり横になってくつろいだ姿勢で、掠れた声を発した。

 喉の奥を風が擦り抜けていくような声だった。


 オトのことはそんなに悪く思ってはいないが、その声にだけは、何か心騒ぐものを感じさせられて苦手だ。


 そんなことを思って、ふと隣を見ると、ヒルコの黒く汚れた手がチェンナの綿毛の手を握りしめていた。

 のどの奥底から、不快が栗のいがに包まれてせり上がってくる。


 いつもそうだ。


 どうしようもない、独占欲。

 黒い、黒い、気持ちの渦。

 チェンナには絶対気付かれたくないくせに、気付いてくれないチェンナにもこらえようのない、泥の感情が渦巻く。


「木が、燃えた。七日前の落雷で」


 泥の沼に沈み込むような声音が、オトの口元からもれる。


 あの日のことはまだ記憶に新しい。


 あたりが薄闇に包まれだした夕方、あっというまに黒い雲が群となり空を覆い尽くし、ものすごい雷雨となった。

 何本もの稲光が地上に突き刺さった。

 目に焼き付く閃光と同時に、家を、大地を揺るがす程の雷鳴。

 心臓を鷲掴みにされるようなその激しさに、何一つ、その間は手につかなかった。


 ちょうど降り始めに家に辿り着いたチェンナは、それからずっと、縁側に腰をかけて、空の様子を静かに伺っていた。

 けれど別に怖がったそぶりは見せていなかった。


 オトが言っているのはその日のことだ。

 ヒルコがそれに、勘の立った細く高い声で後を続けた。


「たくさん、空に登っていった。でも、登らなかったものもいる」


 チェンナは何も答えず、ただじっとヒルコの大きく黒い目を見つめ返していた。

 けれど、それは話を解せない者の表情ではなかった。


 ヒルコはいつも意味の分からないことばかり言っている。

 だから余計、嫌だ。

 言葉足らずのヒルコの言を、オトだけでなくチェンナも解している風なのも、嫌なことの一つだ。


 育ちそこねた赤芋のようにやせ細っていて、肌は乾ききった黒土のようだ。

 その口は蝦蟇のように、ぶかっこうでひらべったく横につぶれている。

 そして、不釣り合いな程に大きなその黒い目で、いつも怒ったように相手を凝視してくるヒルコなんかを好きになれる人なんて、滅多にいないだろう。


 それでも、そんなヒルコたちを、家にはあげないにしても、村の人たちが受け入れているのは、彼らが負っている役目のせいだろう。

 役目といっても、本人たちにはそういった使命感はないかもしれない。

 彼らは、ただ呼ばれるままに、流離っているにすぎない。

 そうでなければ、この世の理を乱されることを厭うがために、昨日も今日も明日も、乱れの源を探ることに余念がないだけか……。


 ヒルコのことは分からないけれど、オトの感じには、そういった探索者の雰囲気がある。

 彼は、人から厭われる程には、この役目を嫌ってはいない。

 どちらかといえば、楽しんでいる。

 自分の能力を疑っていないから、そしてまた、ヒルコの特異性を認め、受け入れているからできることだろう。


 そう、オトはヒルコを受け入れている。

 なら、それだけで充分だろうに……ヒルコは、チェンナの関心まで、労せず手にしている。


「中有の森の『チェンナの老爺木』のことだ」


 遠くから、オトが言葉を足した。

 ただでさえ薄目を開けたような目が、今は、面白い噂話に興じでもするかのように笑みを含んでいて、何か良からぬ事を企んでいるようで、気味が悪かった。

 早く、二人が帰ってくれればいいのにと思ってはみても、更に密になった雨の様子では、今夜はこのまま泊まっていくのではないだろうか。


 きっと、そうなるだろう。

 チェンナが客を追い立てるようなことをする筈はないのだから。


 でも、チェンナの老爺木?


「チェンナと同じ名前だわ……」

「それはそうだ。チェンナの名は、あの木からもらったものなんだから」


 チェンナの代わりに、オトがそう答えた。

 チェンナは、どこか心ここに有らずといった風に、中空を見つめている。


 そんな中、ヒルコの手がまだじっとチェンナの両の手を包んでいた。

 そして、その目は、ひどく心配気にチェンナを見上げていた。

 いつもは近寄りがたい無愛想さを隠そうとしないのに、チェンナに対してだけそうなれるヒルコの変わり身が勘に触った。


「気をつける、チェンナ。あれはお前を探している」


 一瞬、心臓がどきりと鳴った。

 あれ、という言葉に、思わず、先程坂の上に認めた、あの不吉な影を思い出したからだ。

 思い出されると同時に、先よりもずっと大きな震えがこみ上がってきた。

 一体、あれは何だったのだろう。

 ヒルコの不安を染されてしまったかのように、胸の奥が軋んだ。


 チェンナの方を伺うと、チェンナは、困惑に包まれた顔色で、両の耳をひどく垂らしていた。

 それから、その細かく泡立ったメレンゲのような白い口元を小さく開いて、


「ボクが必要で探しているのなら、ボクは構わないよ」


 と、呟いた。

 その言葉を聞き終わるのを待たず、ヒルコの狭い眉間が更にぎゅっとすがめられた。


 囲炉裏の側で横になっていたオトの体もやっと起きあがった。


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