コラボ打診:甘い檻
オファーは、だいたい画面の向こうから来る。
最初はタグだ。
次に切り抜き。
その次に、知らない名前のアカウントが、こっちの名前を口にする。
そして最後に、条件になる。
条件になった瞬間、人は急に現実の重さを持つ。
「すごいですね」では終わらない。
「いくらです」「どこまでです」「誰を連れてきますか」に変わる。
戦術カメラ。
指揮官カメラマン。
#カメラマン誰。
昨日まで画面の向こうで騒いでいた言葉が、今日の朝には紙の上に載っていた。
---
Aゲート横の会議ブースは、今日も白かった。
白い壁。白い机。均一な蛍光灯。
影がない。影がない場所では、人の打算だけが妙にはっきり見える。
玲奈がいた。
スーツ。完璧な髪。完璧な笑顔。
でも今日の玲奈は、いつもより少しだけ機嫌がよかった。営業が機嫌のいいときは、たいてい誰かの値段が上がっている。
白石は壁際。クリップボード。缶コーヒー。
ミラは俺の三歩前。黒いジャケット。右手のグローブ。
いつもの配置だった。
なのに、空気だけが違った。
カメラケースを机の横に下ろす。右肩から重さが抜ける。
ここ数日でやっと馴染み始めた重さ。手が軽くなった瞬間、指先が少しだけ所在なく宙を掻いた。重さがないと、何をしていいか分からなくなる。いつからそうなったのか、自分でも分からない。
机の上に、見慣れないロゴがあった。
銀の盾を模したエンブレム。
その下に英字。
VALKRAID MEDIA
知らない名前じゃなかった。
大手だ。配信を見ている人間なら、誰でも知っている。ギルド系の大型チャンネル。安全管理が売り。設備もスタッフも揃っている。切り抜きも強い。サムネも強い。炎上しても、燃え方が綺麗だ。
つまり、俺たちと正反対の場所にいる連中だった。
玲奈が、薄い資料の束を揃えながら言う。
「正式なコラボ打診です。相手はヴァルクレイド。条件はかなり良いです」
“かなり良い”。
営業がそう言うときは、だいたい本当に良い。もったいぶる必要がないくらいに。
俺は資料を開いた。
出演料。
機材補償。
安全管理。
拘束時間。
数字の桁が、いちいち整っていた。
危険手当が最初から高い。
機材損壊時の補償割合が、今の契約よりずっとまともだ。
現場人員も多い。サブカメラ。補助スタッフ。安全ワイヤー常設。医療班の常駐。
読んでいて、胃の奥が少しだけ冷えた。
まともだったからだ。
まともな条件は、この業界ではそれだけで暴力になる。
今まで「仕方ない」で飲んできたものが、全部「飲まなくてもよかったかもしれない」に変わる。
その変化は、金より怖い。
玲奈が続ける。
「単発コラボの形ですが、先方はかなり前向きです。結果次第では、継続の話にもなります」
継続。
その言葉が、机の上に置かれたまま、じっとこちらを見ていた。
---
白石が先に聞いた。
「条件の本命は」
短い。無駄がない。
この人はいつも、包装紙を剥がすのが速い。
玲奈は笑ったまま答える。
「佐久間さん込みです」
俺の名前が、営業の口から出た。
画面の向こうでは何度も見てきた言葉だった。
#カメラマン誰。
その“カメラマン”に、やっと名前がついた。
でもその瞬間、嬉しいより先に、首の後ろが冷えた。
佐久間込み。
それはつまり、ミラ単体ではなく、組み合わせそのものに値段がついたという意味だった。
玲奈がモニターを点ける。
制御区画の切り抜き。
ドローンの音で群れを流し、補助灯で死角を切り、ミラの剣が一番細い線だけを通る——あの場面だ。
一度見たはずの映像なのに、別のものに見えた。
画として見ていたものが、商品説明に変わっている。
自分が作った場面を、自分で見て冷める。奇妙な感覚だった。
玲奈が言う。
「先方の評価は明確です。MIRAさんの単体性能はもちろん高い。ただ——」
一拍。
「この構図は、佐久間さんがいないと成立しない、と」
ミラは何も言わなかった。
でも右手のグローブの指先が、膝の上でほんの少しだけ動いた。机の上には置かない。隠したまま動く。何かを握ろうとして、握るものがない動きだった。
白石が缶を開ける。プルタブの音が、静かなブースに小さく鳴った。
「で、向こうは何が欲しい」
玲奈が資料のページをめくる。
「安全です」
あまりにも即答だった。
「安全な現場で、同じだけ映える画。そこにヴァルクレイド側の演出と編集を乗せたい」
それは、夢みたいな条件だった。
安全。
高給。
設備。
補償。
スタッフ。
そして、同じだけ映える画。
現実には両立しないから、みんな危険のほうを差し出している。
それを向こうは「安全なまま出来る」と言っている。
本当かどうかは別として、言葉としては隙がなかった。
整いすぎていた。中身が見えないくらいに。
---
そこで初めて、ミラが口を開いた。
「誰と?」
玲奈はすぐ答えた。
「メインはグラナイト・ホロウです」
ヴァルクレイドの看板だ。
顔も画も強い男。安全を売りにしているくせに、映える瞬間だけは必ず危ない位置にいる。——いや、危なく見せるのが上手いだけかもしれない。そう思ったのは、たぶん少しだけ俺の僻みも入っている。
「向こうはかなり乗り気です。昨日の配信でも、はっきり名前を出しています」
玲奈がタブレットをこちらへ向けた。
昨日の配信クリップ。
軽い笑い方で、グラナイト・ホロウが言う。
> 「……なあ、そのカメラマン、どこで雇った?」
昨日モニター越しに聞いた声だった。
今日聞くと、昨日よりずっと具体的に嫌だった。
冗談じゃない。
軽い口調のときほど、本気のことがある。
画面の中の男は笑っていた。
でも目だけが、値段を計算している。人間を見る目じゃない。商品を見る目だった。
俺は資料から目を離した。
見続けると、自分の足元が少しずつ動いてしまいそうだった。
---
白石が言った。
「佐久間、どうだ」
急に振られて、喉が乾いた。
どうだ。
そんなの、良いに決まっている。
まともな補償。
安全管理。
壊れた機材の交換で顔をしかめなくていい現場。
橋が抜ける前提じゃない配信。
昨日までなら、考えるまでもなかった。
飛びついていたと思う。
でも今は、飛びつけない。
それがなぜかを、言葉にする前に、自分で少しだけ嫌になった。
情でも義理でもない。もっと面倒なものが混ざっている。
俺は答えた。
「……条件は、いいです」
白石が頷く。
「当たり前だ」
玲奈が笑う。
「かなり破格です」
破格。
そうだろう。破格だ。
破格な条件には、たいてい別の罠がついている。罠が見えないくらい、整っている。
「ただ」
口が勝手に続けた。
「向こうは“安全なまま、同じだけ映える”って言ってるんですよね」
玲奈の笑顔が、ほんの少しだけ営業寄りになった。
「そうです」
「それ、出来るんですか」
会議ブースが静かになった。
失礼な問いだったかもしれない。
でも今の俺には、その問いがいちばん現実だった。
白石が横で鼻を鳴らした。否定でも肯定でもない。
答えの形だけを聞いている。
玲奈は崩れなかった。
「出来るかどうかを試すのが、今回のコラボです」
綺麗な返しだった。営業の言葉だ。
嘘じゃない。でも、答えてもいない。
出来るかどうか分からない。だから試す。
要するに、向こうもまだ保証なんてしていない。
---
ミラはそこまで聞いて、資料を閉じた。
指先が静かだった。
さっきまで膝の上でわずかに動いていた右手が、止まっている。止まっているほうが怖かった。動いているうちは考えている。止まったときは、もう決めている。
「条件は?」
玲奈が少し身を乗り出す。
「配信二枠。事前打ち合わせ一回。先方演出とのすり合わせあり。あと——」
一拍。
「カメラ構成は先方が主導です」
その一言で、ようやく本当の条件が見えた。
高給。安全。待遇。
でも、主導権は向こう。
佐久間込みで呼ぶ。
でも、撮り方は向こうが決める。
安全な檻だ、と思った。
綺麗で、高くて、折れない檻。
今の現場よりずっとマシだ。
ずっとマシなのに、首の後ろが冷える。
ミラが静かに聞く。
「佐久間のカメラも?」
玲奈は笑顔のまま答えた。
「先方ディレクションに合わせてもらいます」
そこで、ミラの目の温度が変わった。
怒ってはいない。
でも冷たさの種類が違った。商談の冷たさじゃない。もっと個人的な、もっと狭い場所の冷たさ。そこを触るな、という温度だった。
白石が缶を机に置く。
「つまり、欲しいのは佐久間本人じゃなくて、佐久間の成果物だけだ」
玲奈は否定しなかった。出来ないのだ。
営業は、嘘をつくときほど全部を否定しない。
「違います。もちろん佐久間さん本人の判断力も評価されています」
「だが、現場主導は向こうだ」
「それはコラボですから」
綺麗な言い方だった。
でも要するに、俺の手を借りたいが、俺の判断はいらないと言っている。
いちばん美味しいところだけ欲しい。
それが大手の言い方だった。
---
沈黙を切ったのは、ミラだった。
「行くなら勝手に」
あまりにも平坦だった。
怒鳴らない。笑わない。刺しもしない。ただ、すっと冷えた。
会議ブースの蛍光灯は何も変わっていない。
同じ白さ。同じ明るさ。なのに、空気だけが一段落ちた。影のない部屋で、ミラの声だけが影を作った。
玲奈の笑顔が、そのまま固まる。
白石は何も言わない。缶を持つ手も動かない。
俺だけが、自分の呼吸の音を聞いていた。
行くなら勝手に。
その一言で、初めてこの話が「案件」じゃなくなった。
条件の話でも、コラボの話でもない。去就の話になった。
ミラは続けなかった。言い足さない。言い訳しない。
その代わり、一度だけ視線がこっちに来た。
冷たい。
でも昨日の保守室の冷たさとは違う。もっと深くて、もっと静かで、もっと危ない。
本当に傷つく前にだけ、人はこういう目をするのかもしれない。
俺は口を開きかけて、閉じた。
ここで何を言っても、たぶん全部安くなる。
行かない、と即答するのも。
条件が良すぎると迷う、と言うのも。
どっちも違う。違うのに、正しい言葉が出てこない。
玲奈が空気を戻そうとした。
「もちろん、まだ打診の段階です。即答の必要はありません」
白石が低く言う。
「必要あるだろ」
玲奈が止まる。
白石はそれ以上言わなかった。理由も足さない。
でも分かった。こういうのは、即答しないと心の中に残る。
残ると、次の現場で邪魔になる。
蒸気の中で。崩れかけの橋の上で。ふと、「向こうならこんな目に遭わないかもしれない」と思う。その一瞬が、現場では命取りになる。
白石がようやく俺を見た。
「どうする」
逃げ場のない問いだった。
俺は資料を見た。
高い数字。整った補償。安全。待遇。そして、先方主導。
その下に、机の横へ置いた俺のカメラケースが見えた。
昨日までの傷。交換したストラップ。まだ完全には馴染みきっていない重さ。
でも、さっき下ろしたとき、指が探した重さだ。
向こうは俺を欲しがっている。
でも、俺が作った戦況までは欲しがっていない。
欲しいのは結果だけだ。
結果だけ借りて、主導権は渡さない。
制御区画で、ドローンの音で導電狐を流し、補助灯で死角を切り、ミラの前に一本の線を通した。
あれは俺の判断だった。俺のカメラだった。
向こうの現場では、あの判断は俺のものじゃなくなる。
それが、妙に腹に落ちなかった。
俺は言った。
「……移る気はありません」
会議ブースが静かになった。
玲奈の笑顔が、営業の形のまま一段だけ薄くなる。
白石は缶を持ち上げたまま、何も言わない。
ミラは机の上を見たまま、動かなかった。
俺は続けた。
「でも、単発のコラボなら受けます」
玲奈の目が、そこで初めて少しだけ戻った。
営業の目だ。完全には失わない。次の道を探す目。
「受けるんですね」
「はい」
「条件付きで?」
「今の俺のカメラのまま、なら」
玲奈がすぐ聞く。
「先方主導の構成には?」
「全部は渡しません」
言い切った。
喉は乾いていた。でも声は揺れなかった。
「向こうが欲しいのは、たぶん結果だけです。でも俺が今やってるのは、結果だけじゃない」
白石が、そこでほんの少しだけ目を細めた。
「安全で高い現場なのは分かります。条件もいい。でも、向こうのカメラになるなら行かないです」
短い沈黙が落ちた。
玲奈が指先で資料の端を揃える。
細い音。営業が計算をやり直す音だった。
「……分かりました。では、移籍・継続交渉は現時点で保留。単発コラボ案件として先方と詰めます」
保留。綺麗な言葉だった。
断りを断り切らず、次の糸だけ残しておく言葉。
そこで、ミラが口を開いた。
「コラボなら行きなさい」
平坦な声だった。
さっきと同じくらい冷たいはずなのに、意味だけが違った。
「でも、向こうには行かないで」
胸の奥で、何かが静かに鳴った。
嬉しい、とは少し違う。
認められた、でも違う。
もっと狭くて、もっと深いところで鳴る音だった。骨の奥、心臓の裏側、名前のつかない場所。
俺ははっきり言った。
「行きません」
それだけで十分だった。
綺麗な理由も、上手い言い方もいらなかった。
ミラは何も返さなかった。
ただ、机の下で止まっていた右手が、一度だけゆるんだ。グローブの指先が、ほんのわずかに開く。
たったそれだけだった。
たったそれだけなのに、会議ブースの蛍光灯の白さが、さっきより少しだけ柔らかく見えた。
玲奈が資料を閉じた。
「分かりました。では今回は、単発コラボとして進めます」
一拍。
「ただ、こういう話はまた来ます」
脅しじゃなかった。事実だった。
戦術カメラ。指揮官カメラマン。#カメラマン誰。
画面の向こうが名前をつけた時点で、もう始まっている。もう止まらない。
白石が鼻で笑った。
「面倒だな」
その一言で、会議が終わった。
---
ブースを出たあと、Aゲート横の通路を三人で歩いた。
玲奈は別方向へ切れた。もう次の電話が入っている。
白石は缶を持ったまま前。
ミラはその少し後ろ。
俺はさらに三歩後ろ。
いつもの距離だった。
でも、さっきのやりとりがまだ空気のどこかに残っている。消えていない。消えないまま、三人分の足音に踏まれている。
白石が先に角を曲がった。曲がる前に一言。
「遅れるなよ」
誰に向けたか分からない言い方だった。
でも、わざとだろうと思った。二人きりにするための、不器用すぎる気遣い。
ミラと俺だけになった。
しばらく、何も言わずに歩いた。
足音だけがコンクリートの通路に響く。
Aゲートの白い照明が、影を薄く引き延ばしている。
やがてミラが言った。
「もったいない」
前を向いたまま。
責めているようにも聞こえるし、違うようにも聞こえる。
「条件も、安全も、高かった。なのに向こうには行かない」
「そうですね」
少し考えてから言った。
「でも、単発でやるならまだいいです」
ミラは黙って聞いている。
「向こうの現場がどういうものか、見たいのも本当です。安全って言うなら、どこまで本当に安全なのかも見たい」
そこまで言ってから、息を一つ吐いた。
「でも、俺のカメラまで渡す気はないです」
言ってから、自分でも少し驚いた。
もっと上手い言い方があると思っていた。
でも口から出たのは、それだった。
俺のカメラ。
戦況を作る光。
引く判断。押す判断。
ミラが見えている押しと、必要に追われた押しの違い。
その全部を含めての「俺のカメラ」だった。
向こうは、それを欲しがっていない。
欲しいのは、そこから出てきた綺麗な結果だけだ。
ミラが歩きながら、ほんの少しだけ目を伏せた。
笑ってはいない。
でも、ブースの中にあった冷たさが、少しだけ薄くなった。
「そう」
それだけだった。
でも、その「そう」は、さっき会議ブースで玲奈に向けて言ったどの言葉よりも柔らかかった。
水に触れた氷の角が、ほんの少しだけ丸くなるような変化。目には見えない。でも手を伸ばせば分かる。
さらに数歩歩いてから、ミラが言った。
「……でも、次にもっと良い条件が来たら、揺れるでしょ」
「揺れます」
即答だった。格好つける意味がない。揺れないと言ったら、嘘になる。
ミラが小さく鼻で笑った。
「正直ね」
「ミラも、金に揺れてるじゃないですか」
言ってしまってから、少し遅れて心臓が跳ねた。
触れてはいけない場所かもしれない。
でも、もう遅い。言葉は出た。
ミラは怒らなかった。
ただ、前を向いたまま、少しだけ声を低くした。
「……必要なのよ」
短い。それ以上は言わない。説明もしない。
でも、初めてだった。
金を断れない理由の輪郭だけを、自分から置いたのは。
置いただけで、中身は見せない。
でも輪郭があるだけで、何かが重い。重くて、まだ開けてはいけない箱の形をしている。
俺はそれ以上聞かなかった。
聞いたら、たぶん安くなる。
まだ値段のついていないものを言葉にした瞬間に、何かが減る。
通路の先に、Aゲートの白い光が広がっていた。
ミラがその光の手前で、ほんの少しだけ立ち止まった。
振り返らないまま言った。
「佐久間」
「はい」
「次に同じ話が来ても」
一拍。
「勝手に決めないで」
それだけ言って、また歩き出した。
胸の奥で、何かが静かに鳴った。
嬉しい、とは少し違う。
認められた、でも違う。
もっと狭くて、もっと深いところで鳴る音だった。骨の奥、心臓の裏側、名前のつかない場所。
さっき突き放したはずの人が、今度は「勝手に決めないで」と言った。
同じ人の声なのに、距離がまるで違う。
突き放した手と、引き留めた手。
どっちも同じ手のはずなのに、温度が違う。
俺はカメラケースを持ち直した。右肩に戻す。重さが帰ってくる。
さっきブースで下ろしたとき、指が探していた重さ。これだ、と思った。道具の重さじゃない。役割の重さだった。
甘い檻は、これからも来る。
安全。高給。待遇。
その全部が、こちらの危険と交換するために並ぶ。
そのたびに揺れる。揺れるたびに、たぶんまた現場へ戻る。まだ理由は全部言葉にならない。でも今は、それでよかった。
Aゲートの白い光の中を、三歩後ろから歩く。
その距離は変わらない。
でも、さっきまでより少しだけ、空気が冷たくなかった。




