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編集室:神回は素材の墓場


配信が終わった瞬間、帰れると思った。


甘かった。


Aゲートの撤収口で機材ケースが積まれていく音を聞いたとき、やっと終わったと思った。鉱層の白が目の裏に焼きついたまま、肩の靭帯が呼吸のたびに鳴って、前腕の縫い目がじくじくしている。椅子に座れたら、そのまま意識を手放す自信があった。


でもミラは歩いていた。


救護も仮眠も打ち上げもない。鉱層の配信が終わって、機材を預けて、補助灯のバッテリーを抜いて、そのまま地下の編集室へ向かった。


「……帰らないんですか」


聞いた俺が馬鹿だった。


ミラは振り返らない。


「画が腐る前に切るの」


腐る。


映像が腐る。配信の素材にそんな表現を使う人間を、俺は初めて見た。食べ物みたいに言う。鮮度がある、と。撮った瞬間が一番新鮮で、時間が経つほど記憶が薄れて、判断が鈍って、切るべき場所が分からなくなる。


地下へ降りる階段の途中で、足が重くなった。重力が増えたんじゃない。体が「もう終わりだろ」と言っている。終わりじゃない。まだ階段がある。階段の先に、まだ仕事がある。


---


編集室は暗かった。


暗いのに、目が痛い。


壁際にモニターが並んでいる。波形。サムネの候補。タイムライン。チャットの流速グラフ。離脱率の折れ線。全部が青白い光で浮いている。空気は乾いていて、コーヒーと金属と、長時間回したPCの熱の匂いが混ざっていた。


ダンジョンの空気より乾いている。喉が張り付く。


現場の男がいた。


椅子を半分だけ回して、俺の新しいカメラから抜いたデータカードを受け取る。昨日も今日も寝ていない顔だ。寝ていないのに、目だけが異様に澄んでいる。深層の暗闇でも、この編集室の青い光の中でも、同じ目をしている。どこにいても現場の男だ。


「遅い」


男が言った。


「配信終わってから十分で席についてないと、もう古い」


古い。映像が。記憶が。判断が。十分で古くなる世界。深層では一秒が命取りだったが、編集室では十分が致命傷らしい。


ミラが答える。


「帰路で一本切れるでしょ」


「切れる。質は落ちる」


短い会話だった。喧嘩じゃない。確認だ。二人とも正しいと思っていて、正しさの優先順位だけが違う。速さを取るか、質を取るか。ミラは質。男は速さ。でも二人とも、遅いことだけは許さない。


俺は立ったまま、タイムラインを見た。


長い。


地獄みたいに長い。


鉱層の通路。最初の小部屋。白飛び。やり直し。二つ目の小部屋。飛沫。水面。二重のミラ。次の部屋。次の部屋。撤収。帰還。全部が一本の線に繋がって、モニターの上に細長く寝ている。


さっきまで自分がいた場所が、データになっている。あの湿度も、あの粘液も、あの靭帯の痛みも、全部が色と音の並びに変換されて、横たわっている。


死体みたいだ、と思った。


男が椅子を指した。


「座れ、カメラ」


座った。


椅子が低い。傷んだ肩に変な角度がついて、鈍い痛みが背中まで走る。モニターの光が近い。近すぎて、顔の皮膚が乾いていく。


男がカードを挿した。データ転送のバーが伸びる。じわじわ。じわじわ。深層の赤い線の脈動みたいに、少しずつ右へ進む。


「神回はそのままじゃ神回じゃない」


画面を見たまま言う。


「素材の墓場だ」


墓場。


鉱層の白より、そっちのほうが腹に落ちた。死んだ素材が並んでいる。使えるものと使えないものが混ざっている。どれも一度は生きていた。俺の手が撮った。俺の目が見た。俺の肩が痛んだ。でも今は全部がデータになって、切られるのを待っている。


ミラが後ろから言う。


「最初の小部屋、捨てる」


「全部ですか」


男が聞く。


「全部。白飛びが長い。息も乱れてる」


息。ミラの息だ。あの瞬間、ミラの呼吸が乱れていた。配信中は気づかなかった。いや、気づいていたけど撮らなかった。カメラを向けなかった。


でもマイクは拾っている。音は映像より正直だ。


ミラは、自分の乱れを、自分で切る。


そこでようやく分かった。配信が終わってからも戦いは続いている。敵はモンスターじゃない。一秒前の自分だ。弱さが滲んだ瞬間の自分を、今の自分が切り落とす。


---


転送が終わった。


タイムラインの上に、今日の全部が横たわった。


男が再生した。最初の数十秒。入口。白。暗。露出の迷い。ミラの背中。鉱層の粒立つ反射。


画面の中の俺の手が震えている。ファインダー越しには分からなかったのに、データで見ると分かる。自動補正が追いつかないほどの微振動。深層帰りの手。


恥ずかしかった。


自分の震えを、画面越しに見るのは、裸を見られるのに似ている。


「同接は悪くない」


男が言う。


「でも、このままだと維持率が死ぬ」


維持率。


言葉は知っていた。視聴者がどれだけ離脱せずに見続けるか。でも、今日初めて、その言葉の重さが変わった。


ミラが俺を見る。


「昨日、同接を見てた?」


「見てました」


「何を見てた?」


「……増えてるなって」


「それだけ?」


それだけだった。


配信中、右上の数字は生き物みたいに動く。増えれば息が詰まる。減れば腹が冷える。見ていたのはその増減だけだ。何万人いるか。増えたか減ったか。それだけで世界が変わる気がしていた。


でもそれは、心拍数だけ見て体の状態を判断するようなものだった。脈が速い。だから生きている。でも、なぜ速いかは分からない。


男がグラフを開いた。


同接の推移。離脱率。平均視聴時間。切り抜き到達率。数字の森だった。一本一本の線に意味があって、交差する点に真実がある。俺はその森の入口に立っている。奥は見えない。


男が一本の線を指で叩いた。


「ここ」


最初の小部屋。白飛びしたところだ。


「同接は上がってる。けど熱量が死んでる」


熱量。


「騒いでるだけだ。見えない、酔う、分からない。この手のコメントが増えると、数字は一回膨らんでから落ちる」


膨らんでから落ちる。風船だ。空気だけ入って、中身がない。膨らんだ瞬間は大きく見える。でもすぐ萎む。萎んだあとには、何も残らない。


ミラが薄く言う。


「見せたいものが伝わってない」


それが、負けだ。


同接が伸びても、負けることがある。視聴者が多くても、素材は死ぬ。数字が上がっても、中身がなければ墓場行きだ。


初めて分かった。


男がまた再生する。今度は二つ目の小部屋。飛沫。風。水面。上下のミラ。


画面の空気が変わった。


さっきまでの白飛びとは違う。光が柔らかい。輪郭が立っている。水面のミラと本体のミラが、一枚の画面の中で共存している。


《微風》を使い始めた場所だ。


コメントの流れが変わる。笑いが止まる。語尾が短くなる。「やば」「えぐ」「今の」。短い言葉ばかりになる。


言葉が短くなるのは、考える暇がないときだ。感情が先に来て、言葉が追いつかない。その状態を、男は「熱量」と呼んでいる。


男がグラフを拡大した。


「ここが熱量」


波が跳ねていた。同接だけじゃない。視聴時間も、クリップ発生率も、同時に跳ねている。


「人が増えた瞬間より、人が離れない瞬間のほうが金になる」


金。最終的には金だ。でもその金の手前に、離れない瞬間がある。離れない瞬間の手前に、画がある。画の手前に、俺の手がある。


全部繋がっている。


ミラが椅子の背に手を置いた。右手。グローブ越し。赤い線が見えない。見えないけど、ある。


「一回目を切って、二回目から入る」


「普通はそうですね」


男が言う。


普通。俺もそう思った。失敗は捨てる。使える画だけ残す。それが編集だ。


でもタイムラインを見た瞬間、少しだけ違う気がした。


最初の小部屋の白飛び。画としては死んでいる。でもその直後に、ミラが「盛れてない」と言った。あの声。あの温度。あの一言で空気が変わって、俺の腹の底が冷えて、二つ目の小部屋へ向かった。


あの流れを捨てたら、二回目がただの「うまい画」になる。


口が先に動いた。


「……いや」


男とミラが、同時にこっちを見た。


四つの目。男の澄んだ目と、ミラの冷たい目。どっちも温度が違うのに、向いている方向が同じだ。何を言う、という方向。


喉が乾く。編集室の空気が乾いているせいだ。でも、ここで引いたら何も残らない。撮るだけの人間に戻る。


「一回目、全部じゃなくていいなら、残したほうがいいです」


男の目が細くなる。


「理由は」


「ミラが『盛れてない』って言うところから入ったほうが、二回目の画が立つ」


言ってから、心臓が跳ねた。


今、俺はミラの失敗を残したほうがいいと言った。ミラが自分で切ろうとした流れを、拾ったほうがいいと。


でも止めても無駄だった。もう聞いている。


俺は画面を指した。指が震えていないことに、自分で驚いた。


「最初の小部屋は画としては死んでる。でも、失敗したって情報は強いです。失敗した直後に『やり直し』って言って、同じ現場に入り直して、今度は成功する。そっちのほうが二回目の画の意味が増える」


言葉が勝手に出てくる。


深層では一言しか言えなかった。「——後ろ」「——今」。それが限界だった。鉱層でも、三つのルールを言うので精一杯だった。


でも今、言葉が出てくる。画の話をしているからだ。カメラの話。映像の話。これだけは、昔から言葉が出る。追い出される前から。


「いきなり成功だけ見せると、うまい、で終わる。でも一回失敗してると、修正してるのが分かる。専属初日としては、そっちのほうがいい」


沈黙が落ちた。


長い。


男が動かない。ミラも動かない。モニターの青い光だけが、三人の顔を照らしている。


男がタイムラインを操作した。


最初の小部屋の終端を詰める。白飛びの大半を切る。ミラの「盛れてない」だけを拾う。次に二つ目の小部屋へ飛ぶ。


再生。


『盛れてない』


一拍。


二回目の侵入。柔らかくなった光。飛沫。風。水面。赤。


上のミラが斬る。下のミラが遅れて斬る。


男が止めた。


「……悪くない」


褒め言葉じゃない。でも切り捨てられていない。


この部屋では、切り捨てられないことが最高の評価だ。墓場に送られなかったということは、生きているということだ。


ミラがモニターの中の自分を見ていた。


「間が〇・二秒長い」


男がコマ送りにする。


『盛れてない』のあと。次のカットへ飛ぶまで、ほんの少し空いている。


俺には間に見えた。余韻。言葉が響く時間。


ミラには遅れに見えた。弱さが滲む時間。


「長いですか」


「長い」


即答。


「この〇・二で“言いすぎた”顔になる」


男が無言で詰めた。


たった〇・二秒。瞬きより短い。でも詰めた瞬間、画面の中のミラが変わった。迷いが消えた。後悔が消えた。冷たさだけが残った。


ぞっとした。


〇・二秒の中に、ミラの後悔があった。「盛れてない」と言った直後に、ほんの一瞬だけ「言い過ぎたか」という顔をしていた。配信中は見えなかった。データで見ても、俺には見えなかった。ミラだけが見えた。自分の〇・二秒の弱さを、自分だけが見つけた。


そしてそれを、自分で殺した。


編集は、時間を殺す作業だ。


〇・二秒の迷い。〇・三秒の呼吸。〇・一秒の視線。


それを殺して、残したい顔だけを残す。


ミラは深層でモンスターを殺した。編集室では自分を殺している。どっちも同じ目でやっている。


墓場、という言い方がまた腹に落ちた。


---


そこからは、ずっと同じだった。


切る。見る。戻す。また切る。


水面に映るミラは何フレーム残すか。飛沫がレンズを外れる瞬間はどこから使うか。白飛びは全部捨てるか、それとも一瞬だけ残して「死にかけた画面」として使うか。補助灯の迷いはどこまで許すか。切り抜き用の最初の五秒をどこに置くか。


一つ一つの判断が、深層の分岐と同じ重さを持っていた。


右に行けば画が死ぬ。左に行けば音が死ぬ。真ん中を取れば全部が中途半端に死ぬ。


正解がない。正解がない中で、一番ましな死に方を選ぶ。それが編集だ。


配信は終わっている。なのに、別の配信が始まっていた。


モニターの中で今日が何度も死んで、何度も蘇る。そのたびに使えない部分が増える。そのたびに使える部分だけが細く光る。


光る部分を見つけるたびに、胸の奥で小さな音がした。これだ、という音。深層でミラの動きを先読みできたときと同じ音。カメラの向きが合ったときと同じ音。


合っている。


この作業は、俺に合っている。


その実感が怖かった。合っている場所を見つけると、もう他の場所に戻れなくなる。追い出された場所には戻れない。戻る理由がなくなる。


途中で、男が缶コーヒーを机に置いた。三本目。ミラは飲まない。俺が手を伸ばす。片手で缶を開けようとして、右肩に痛みが走った。縫い目の引きつりが指先まで伝わって、缶が滑る。


男が何も言わずに缶を取って、開けて、戻した。


「……すいません」


「片手で生きろ。慣れる」


慣れるのか。片手で缶を開けることに。片手でカメラを構えることに。片手で戦うことに。


コーヒーは苦い。苦いのに美味い。疲労の底で飲むコーヒーは、味覚じゃなくて体温で味わう。冷えた腹に、熱い液体が落ちていく。


男が言った。


「同接が伸びたから勝ち、じゃない」


画面を見たまま。


「残る画を持ってるかどうかだ」


残る画。


同接は消える。数字は翌日には古くなる。でも画は残る。切り抜きとして、サムネとして、誰かの記憶として。残る画を一枚でも持っていれば、次がある。


ミラが続けた。


「残る画にするのが編集」


撮るのは現場の仕事。残すのは編集の仕事。


それで、ようやく全部が繋がった。


昨日まで、俺は撮るところまでしか考えていなかった。シャッターを切る。ファインダーの中で画が生まれる。それが終わりだと思っていた。


違った。


撮っただけじゃ、画は死ぬ。


撮って、切って、並べて、殺して、残して。そこまでやって、はじめて一枚になる。


裏方だ。ど真ん中じゃない。画面には映らない。名前も出ない。


でも、中心にいる。


画の生き死にを決める場所の、真ん中にいる。


その実感が、遅れて胸に落ちてきた。重い。重いのに、嫌じゃない。


---


最後の書き出しが始まったのは、時計の針が一周した頃だった。


地下に窓はない。時間の感覚がない。あるのは、コーヒーの空き缶の数と、肩の痛みの深さだけだ。


進捗バーが伸びていく。たった数分の動画になるのに、ここまで削って、並べて、殺して、詰める。数時間の素材から数分を抜く。残りは全部、墓場に送られる。


書き出し中の画面には、二つ目の小部屋の最後が止まっていた。上と下。本物と反射。その間を、赤が横切る。


俺はそれを見ていた。


昨日までの俺が、ここに座っている姿を想像した。できなかった。配信のあとに、こんな墓場みたいな部屋が待っているなんて知らなかった。神回の裏で、人間が寝ないで〇・二秒を殺しているなんて知らなかった。


知らなかったことが、恥ずかしかった。


視聴者として見ていたとき、神回は「すごい」で終わっていた。すごい画。すごい戦闘。すごいカメラ。でもその裏に、この部屋があった。この椅子があった。このコーヒーの苦さがあった。


知ったから、もう戻れない。


男が、はじめてこっちを真っ直ぐ見た。


モニターの光じゃなく、俺の目を見た。


「カメラ」


「はい」


「お前、裏方の才能あるな」


短かった。


短いのに、今日聞いたどの言葉より重かった。


戦える、じゃない。強い、でもない。裏方の才能。ど真ん中じゃない場所で生きる才能。画面に映らない場所で、画面を生かす才能。


追い出された理由と、同じ場所にある才能。


戦えないから追い出された。撮ることしかできないから切られた。そのはずだったのに、撮ることしかできない人間が必要な場所が、ここにあった。


笑う余裕はなかった。でも胸の奥で、何かが静かに鳴った。深層で聞いた「合格よ」とは違う音。もっと低い。もっと地味な。でも確かに鳴っている音。


ミラがモニターから目を離さずに言った。


「調子に乗らないで」


否定が、少し遅かった。


遅いということは、先に別の感情があったということだ。何が先にあったかは分からない。分からなくていい。ミラが〇・二秒で殺すような感情は、俺が拾うものじゃない。


でも、遅かった、ということだけは覚えておく。


男が最後に、書き出し終わったファイル名を確定させた。


『MIRA_鉱層_死ぬのはカメラから_1stcut』


一つ目。


墓場から拾った骨の、最初の一本だった。


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