初出勤:契約書が武器
Aゲートの朝は、昨日より白かった。
夜通し稼働した照明の白。消毒液の白。搬入用コンテナの白。眠っていない現場だけが持つ、乾いた白だ。
人が動いている。機材を運ぶ手。タブレットを叩く指。紙コップのコーヒーを握る拳。全部が「今日」のために回っている。昨日の深層は、もう処理済みのデータみたいな顔をしていた。
俺だけが、まだ昨日の体のままここにいる。
右肩が鳴る。前腕の縫い目が、歩くたびに皮膚の下で引っ張られる。膝はまだ笑っている。深層で死にかけた翌日に、出勤している。
頭のどこかが壊れているんだと思う。
でも今日は来た。昨日までなら絶対に来なかった場所に、今日は自分の足で来た。
ポケットの中に、黒いカードケースがある。
『DUNLIVE STAFF / MAIN CAMERA』
その薄い一枚が、昨日までの俺と今日の俺を分けている。薄いくせに、ポケットの中でずっと重い。歩くたびに太ももに当たって、お前はもう外の人間じゃないぞ、と主張してくる。
肩には新しいカメラ。
昨日の壊れた機材より軽い。レンズの軸も正常。ストラップも新品。ファインダーの右上に黒い染みもない。
きれいだ。何も映していない。何も傷ついていない。
なのに安心できなかった。
安心なんて、もっと古い感覚だった気がする。昨日より前にあったはずのものだ。深層に落としてきたのかもしれない。拾いに戻る気はない。
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Aゲートの搬入口横、仮設会議ブース。
壁は薄い。椅子は硬い。机の上だけがやけに綺麗だ。現場の泥や血を通さない場所は、だいたい人を切る話をする。縫い目のある腕で座る場所じゃない。
玲奈がいた。
スーツ。完璧な髪。完璧な笑顔。朝七時台の顔じゃない。寝たのか寝ていないのか分からない顔だ。でも目だけは起きている。昨日と同じ、数字を探す目。テントの中で俺たちの条件を飲んだ目。飲んだ翌朝にこの笑顔を作れるのは、才能だと思う。
横に運営の人間が二人。タブレット。胸のID。目だけが起きていて、他は全部死んでいる。
一番奥に、現場の男。短髪。クリップボード。コーヒー。名前はまだ教えない顔。
そして、ミラ。
黒いジャケット。黒いパンツ。右手だけグローブ。
深層のあとだというのに、座っている姿勢が崩れていない。疲労を形にしない人間はいる。でも近くで見ると分かる。肩の力の入れ方が半拍だけ遅い。立ち上がる前の呼吸が一回ぶん長い。グローブの下の右手が、机の上に置かれていない。膝の上に隠している。
赤い線の密度を、見せないようにしているように見えた。
俺はそこを見た。見て、カメラには手を伸ばさなかった。
もう癖になっていた。ミラの弱さを見つけて、撮らない。それが俺の仕事の半分だ。残りの半分は、ミラの強さを撮ること。
玲奈が笑った。
「おはようございます。専属初日ですので、まずは運用条件の最終確認から入ります」
運用条件。
人間を部品みたいに呼ぶ言葉だ。でもこの業界では正しい。人じゃなくて運用になる。そうすると壊れても処理が速い。交換も速い。昨日のカメラみたいに。
俺の前にタブレットが置かれた。
契約書。
昨日見たドラフトより、ページが増えている。一晩で育つものじゃない。最初から用意してあったんだと思う。神回が出た瞬間に差し込めるように。神回が出なかった場合の契約書も、別のフォルダに入っていたのかもしれない。そっちはもっと安い値段だったはずだ。
指でスクロールする。
拘束時間。危険手当。成果連動。守秘。再委託禁止。機密保持。途中から数字より文言が刺さるようになった。
『配信中の判断は出演者および現場責任者の裁量を優先する』
昨日、俺たちが勝ち取った条文だ。ライブの前で。視聴者の前で。
『負傷・損壊・死亡を含む予見可能な危険について、契約者は異議を申し立てない』
予見可能。昨日の深層は予見できたのか。落下は。崩落は。赤い線が中層まで浸食していたことは。全部「予見可能」に入るなら、この条文は何が起きても文句を言うなと同じ意味だ。
『機材損壊時の過失割合は別紙基準に従う』
別紙基準。機材の壊れ方にも値段表がある。落下。浸水。血液付着。魔力干渉。深層由来の不可逆損壊。昨日の黒い染みの項目があったら笑っていたかもしれない。笑える余裕は、まだない。
「どう?」
ミラが聞いた。声は平らだ。読む気があるか、じゃない。飲めるか、だ。毒を渡して「どう?」と聞く人間の声。
「地獄です」
本音が出た。
玲奈がすぐ笑う。
「そのぶん、報酬は高いです」
「高くても死んだら使えないでしょ」
言ってから、空気が一段だけ冷えた。言い返す立場じゃない。昨日の俺ならそう思って黙っていた。
でも昨日の俺は、深層で置いてきた。
あの暗闇に。赤い線の中に。ストラップが千切れかけた岩の角に。全部置いてきた。今日ここにいるのは、置いてきた後の俺だ。
玲奈は笑顔を崩さない。
「もちろん安全には最大限配慮します」
最大限。便利な言葉だ。何も保証しない。「できるだけ頑張る」を敬語にしただけ。
俺はタブレットを机に置いて、クリアファイルを出した。
昨夜、家で作った紙だ。寝ない頭で、痛む腕で、何度も書き直した。ペンを握るたびに縫い目が引きつって、字が歪んだ。歪んだまま、書いた。
A4一枚。表題はでかく一行だけ。
安全線ルール
それだけ書いた紙を、机の上に置いた。
玲奈の目が一瞬だけ止まった。運営の二人が同時にこっちを見る。現場の男だけが、コーヒーを飲んだ。
俺は読み上げた。
「一つ。初見の階層変質、視界異常、UI干渉が出た場合、俺の判断で距離を取ります」
ミラは黙っている。
「二つ。撤退か継続かの最終判断はミラでいい。でも、撮影不能だと俺が判断したら、その時点で前進は止める」
玲奈が口を挟もうとして、やめた。昨日の公開契約のせいだ。視聴者の前で飲んだ条件は、朝になっても消えない。ライブの記録は消せない。
「三つ。補助魔法の機材転用を最初から許可。光量調整、乾燥、簡易防滴、防眩。現場判断で使います」
「四つ。運営のUI割り込みは、配信中の俺の画面には出さないでください」
ここで、運営の一人の眉が上がった。
「それは——」
「昨日、出た」
被せたのはミラだった。
あの白い割り込み。深層で。人が死にかけている画面に、課金ボタンみたいな顔で出てきた文字。あれが出た瞬間、ファインダーの情報が一瞬途切れた。一瞬が、深層では命に直結する。
運営の表情が固まった。反論できない。できるわけがない。あれをライブで全世界に流したのは、そっちだ。
俺は最後を読んだ。
「五つ。俺が“撮れない”と思った時は、それを撤退ラインとして扱ってください」
読み終えたあと、紙を机に置いた。
薄い。たった一枚。契約書の束に比べたら冗談みたいな軽さだ。でも俺にとってはあっちより重かった。あっちは値段の話で、こっちは命の話だ。
玲奈が笑った。
「……かわいいですね」
かわいい。
紙一枚の安全線を、そう呼ぶ。
笑っていい。実際、かわいいんだと思う。深層だのスポンサーだの運営だのが回っている場所で、A4一枚で世界を止めようとしてる。子供が「ここから先は入っちゃだめ」って線を引くのと変わらない。
でも、止めないと死ぬ。子供の線でも、引かないよりましだ。
ミラが俺の紙を一瞥した。
「多い」
一言。
「三つにしなさい。現場で覚えられない」
「多くないです」
「多い」
「必要です」
「要点を絞れないなら、現場で死ぬ」
言い方が最悪だった。でも、言っていることは正しい。
五つのルールを見た。全部“昨日怖かったこと”がそのまま並んでいる。怖かった順に書いているだけで、生き残る順番にはなっていない。恐怖のメモ帳だ。ルールじゃない。
現場の男が、初めて口を出した。
「カメラ」
俺を見る。目に温度がない。でも冷たいんじゃない。余計なものが入っていないだけだ。
「覚えるのは三つだ。四つ目から先は、どうせ落ちる」
落ちる。忘れるんじゃなくて、落ちる。頭から抜けるんじゃなくて、現場で足と一緒に落ちる。この男は比喩を使わない。全部、現場の事実だ。
「……はい」
「で?」
コーヒーの缶を机に置いた音だけが、やけに響いた。
俺は紙を見たまま言った。
五つを、三つに削る。削るということは、二つを捨てるということだ。捨てた二つのぶんだけ、危険が増える。増えるのを飲む。飲まないと、現場に立てない。
「一つ。俺が撮れないなら前に出ない」
ミラが聞いている。目が開いている。値踏みじゃない。確認だ。俺の線引きが、ミラの戦場で機能するかどうかの確認。
「二つ。初見の異常は、一回引いてから撮る」
玲奈の笑顔が少し薄くなる。「引く」は「画が減る」と同じ意味だ。スポンサーにとっては損失。でも、死んだカメラマンはもっと損失だ。
「三つ。機材を守るための補助魔法は、現場判断で使う」
言い切った。
紙を置いた。さっきより軽い。五つの恐怖を三つに圧縮した。軽くなったぶんだけ、深くなった気がした。残った三つは、怖さじゃなくて覚悟だ。
ミラが短く言った。
「それでいい」
二秒の間があった。その二秒は、俺に言い切ったと思わせるには十分だった。
この女は、沈黙の使い方まで計算している。
玲奈が営業の笑顔で息を吐いた。
「……数字が出るなら」
その一言で全部が決まる。数字。昨日の数字。今日の数字。数字が出るなら安全線も飲む。数字が出なくなったら、安全線ごと俺を切る。そういう意味だ。
分かっている。分かった上で、座っている。
運営の一人が渋い顔をする。
「ただし、運営判断による緊急停止権は保持します」
「保持しなさい」
ミラが即答した。
「止められるならね」
運営の顔が固まった。止められない。昨日、止められなかった。深層で誰も止めなかった。止める判断をする人間が、現場にいなかった。いたのは俺とミラだけだった。
その事実が、今この会議室の全員の喉に刺さっている。
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確認は終わった。
終わったのに、誰も立たない。
まだ本題がある。契約書は武器だ。殴るだけじゃなく、今日どこに立たせるかも決める。
玲奈がタブレットを切り替えた。
今日の案件概要。
ダンジョン名。階層。危険度。スポンサーロゴ。配信予定時刻。
ぱっと見た瞬間、違和感があった。
危険度は中層相当。モンスターの強さも標準。深層と比べたら、遠足みたいなものだ。
なのに、撮影条件だけが妙に厳しかった。
通路幅平均六十センチ。高低差大。湿度九十二パーセント。反射鉱石多。低照度。飛沫性粘液あり。金属共鳴あり。
モンスターより先に、画が死ぬ場所だ。
「……なんですか、これ」
思わず言った。
玲奈が営業資料みたいな顔で答える。
「特殊鉱層です。敵性はそこまで高くありません。ただし、視覚的価値が非常に高い」
視覚的価値。要するに、映える。映えるから撮れ。撮れるかどうかは現場の問題であって、スポンサーの問題じゃない。いつもの構造だ。金を出す側が景色を注文して、命を出す側が届ける。
現場の男が補足した。
「被写体は弱い。現場は強い」
短い。でもそれで全部が分かった。
モンスターは弱い。だから油断する。油断した瞬間に、足場が殺す。反射が殺す。湿度が殺す。カメラが先に死んで、次にカメラマンが死ぬ。
ミラは資料の画像を見ていた。
鉱層のサンプル映像。壁一面の反射鉱石。水滴。細い足場。少しでも補助灯を間違えたら画面が白飛びして終わる。少しでも角度を誤れば全部が反射して被写体が消える。少しでも足を滑らせたら、撮るより先に落ちる。
「盛れるわね」
ミラが言った。
嫌な予感しかしない時の声だった。「盛れる」はミラの言葉で、命を賭ける価値がある画がある、という意味だ。嬉しそうに言うのがたちが悪い。
俺は資料をめくった。最後のページで、さらに嫌なものを見た。
配信演出指定。スポンサー要請。
鏡面反射を活かした接写カットを最低三回挿入。
最低三回。
条件が、戦術じゃなくて画面側から決まっている。しかも接写。六十センチの足場で、反射鉱石だらけの通路で、接写三回。接写するということはレンズを近づけるということだ。近づけるということは体を前に出すということだ。前に出るということは、さっき自分で決めた安全線の一つ目を三回踏み越えろという意味だ。
契約初日。自分のルールを自分で破れ、と書いてある。
「これ、現場見て書いてます?」
俺の声が硬くなった。
玲奈が微笑む。
「要求です」
要求。スポンサーは要求し、運営は通し、現場が払う。値段を決めるのは上で、支払うのは下。深層と同じ構造だ。上から降ってくるものを、下で受ける。
ミラが立ち上がった。
椅子が引く音が短く鳴った。その一音で、場の主導権が全部そっちへ移る。会議室の空気がミラの体温に書き換えられる。さっきまで玲奈の温度だった場所が、ミラの温度になる。
「行くわよ」
それだけ。
会議終了。反論終了。準備開始。この女が立ち上がると、言葉は全部、歩幅に変わる。
俺も立った。右肩が痛む。前腕が引きつる。縫い目が「まだだ」と言っている。
でも立つしかない。座っていたら置いていかれる。ミラは待たない。待たないことで選別する。ついて来られる人間だけが、隣に立てる。
玲奈が最後に言った。
「開始は九時。待機枠はもう立っています。今日は“専属初日”のタイトルが乗ります」
専属初日。言葉が軽い。軽いくせに、視聴者にとっては強いフックだ。昨日の神回のカメラマンが、今日どう撮るのか。期待と疑いと好奇心が、画面の向こうに並んでいる。
その全部を、この壊れかけの体で受ける。
現場の男がクリップボードで俺の新しいカメラを指した。
「今日、そいつが死ぬ」
「縁起悪いこと言わないでください」
「願望じゃない。予告だ」
本気で言っている顔だった。こっちを見ていない。カメラを見ている。カメラの耐久性を目で測っている。そして「足りない」と判断した顔だ。
ミラが出口のところで止まった。振り返らないまま、言う。
「佐久間」
「はい」
「今日の画、昨日より難しいわよ」
知ってる。資料を見れば分かる。
でもミラがわざわざ言うのは、別の意味だ。
昨日は「生き残れれば勝ち」だった。深層で、落下で、崩落で、生きて帰ってきた。それだけで、神回になった。
今日は違う。
生き残った上で、昨日と同じ画を出せ。偶然じゃなく。奇跡じゃなく。仕事として、再現しろ。
それが「専属」の意味だ。
「……分かってます」
「分かってないから言ってるの」
そのまま歩き出す。
黒いジャケットの背中。右手のグローブ。少しだけ遅い歩き出し。昨日の深層の代償を隠した歩き方。
俺はその背中を追った。追いながら、ポケットの中のカードケースを指で押した。
主契約。専属。危険手当。守秘。違約金。全部、紙の中にある。
でも本当に武器なのは、あっちじゃない。
契約書は人を縛るための武器だ。それに対して俺が持っているのは、画角と距離と撤退ライン。薄い。弱い。A4一枚。
でも、たぶん、こっちのほうが人を生かす。
搬入口を出たところで、待機モニターが見えた。
タイトルが出ている。待機人数の桁が、開始前とは思えない速さで増えていた。
カメラを持ち直した。ストラップの新品の硬さが、首にまだ馴染まない。昨日の壊れたストラップは岩の角で削れて、首の形に曲がっていた。新品は真っ直ぐだ。真っ直ぐなものは、まだ信用できない。
《空間把握》を薄く起動した。搬入路。段差。照明位置。人の流れ。そして、その先。
特殊鉱層の入口から、白い反射光が一瞬だけ返った。自然光じゃない。中の鉱石が、外の照明を拾って返している。
その反射の角度を見た瞬間、背筋が冷えた。
広さじゃない。強さじゃない。
撮るための安全地帯が、ほとんどない。
敵は弱い。現場は強い。
現場の男の言葉が、ここでようやく腹に落ちた。
ミラが入口の前で、ほんの少しだけ笑った。
「——死ぬのはカメラからよ」
冗談みたいに聞こえる。でも冗談じゃない。
俺は新しいカメラのグリップを握り直した。
まだ何も映していないレンズが、鉱層の白い光を反射している。
これから映す。
映して、生きて帰る。
それが仕事だ。




