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嘘のあとに、本当の朝を  作者: 久遠 睦


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泥濘(でいねい)のなかで:幸福という名の断罪

第2章:泥濘でいねいのなかで


第1部:幸福という名の断罪


 引っ越してから一ヶ月が過ぎた。  六畳一間の『あけぼの荘』での生活は、知美のこれまでの「常識」を、音を立てて塗り替えていった。  朝五時に起き、陽菜のお弁当と朝食を用意する。六時半にはアパートを出て、一時間半かけて都心のオフィスへ向かう。以前のような「ゆとりあるパートタイム」ではない。派遣会社に登録し、少しでも時給の良い、けれどその分だけ神経をすり減らす事務作業の掛け持ちを始めたのだ。


 帰宅するのは夜の八時を回る。  スーパーの閉店間際、半額シールが貼られた肉や魚を奪い合うようにしてカゴに入れる。かつて、輸入食材専門のスーパーで、産地にこだわった有機野菜を優雅に選んでいた自分が、遠い前世の記憶のように思えた。  指先は書類の束と格闘して荒れ、水仕事のせいで節々が痛む。  けれど、夜、狭い部屋で陽菜と向かい合って食べる夕食は、どんなに質素でも味が濃かった。 「お母さん、今日、数学の小テスト満点だったよ」  その一言を聞くためだけに、知美は自分の疲労を押し殺し、微笑むことができた。


 ――けれど、運命というやつは、どこまでも残酷だ。  知美がようやくこの「泥濘」の中での歩き方を覚え始めた頃、それは唐突に訪れた。


 金曜日の午後。  知美は派遣先の指示で、お使いに出されていた。新宿の百貨店まで、取引先への手土産を買いに行く。  冷房が効きすぎた店内に、高級な化粧品や香水の匂いが漂っている。知美は自分のヨレかけたブラウスと、履き潰したパンプスを自覚し、思わず身を縮めた。一ヶ月前までは、自分もこの華やかな空間の一部だったはずなのに。


 目的の菓子折りを買い、足早に店を出ようとした、その時だった。


 正面の自動ドアから、一組の男女が入ってきた。  人混みの中で、その二人だけが、不自然なほど輝いて見えた。


「……あ」


 知美の心臓が、一度大きく跳ね、そのあと激しく脈打ち始めた。  見間違えるはずがない。  仕立ての良い紺色のスーツを完璧に着こなし、自信に満ちた足取りで歩く男。  佐藤真治。  十八年連れ添い、つい数週間前に、自分の人生を粉々に砕いて去っていった、元夫だった。


 そして、その傍らには――。


 ふわりとしたベージュのワンピースを纏った、若い女性がいた。  昨年の夏、バーベキューで知美の料理を「すごいですね」と笑って食べた、あの河野こうのだ。  彼女の腹部は、ワンピースの上からでも分かるほど、わずかに、けれど確かに膨らんでいる。真治は、人混みから彼女を守るように、そっと腰に手を添えていた。


 知美は、売り場の影に身を隠した。  呼吸が荒くなる。喉の奥がヒリヒリと焼けつくように痛い。


 見てはいけない。  そう思えば思うほど、視線は釘付けになった。


 真治の表情は、知美がかつて見たことがないほど、穏やかで慈愛に満ちていた。  知美が家計のやりくりを相談した時に見せた、あの鬱陶しそうな顔。  陽菜が受験の不安を口にした時に見せた、あの無関心な背中。  それらはすべて、彼が「私に対してだけ」見せていたものだったのだ。


 今の彼は、まるで映画のヒーローのように、一人の女性を愛し、守る男そのものだった。  彼は彼女の耳元で何かを囁き、彼女がそれに応えて、鈴を転がすような声で笑う。


「真治さん、これ、ベビー用品の売り場あっちだよ」 「ああ、急がなくていい。足元、気をつけてな」


 その会話が、知美の耳に鋭利な破片となって突き刺さった。  ベビー用品。  これから生まれてくる、新しい命。  真治にとって、それは希望であり、未来なのだろう。  けれど、その未来は、知美と陽菜が積み上げてきた十八年という月日を、生贄いけにえにして築かれたものだ。


 知美は、自分が持っている菓子折りの袋を、指が白くなるほど強く握りしめた。  昨夜、陽菜が「お母さん、靴下がもう穴あきそうだから、一足だけ買っていい?」と申し訳なさそうに言ったことを思い出す。  わずか数百円の出費にさえ心を痛めている自分たち。  一方で、彼らは、知美から奪った共有財産で、これから始まる「幸福な生活」のための準備を楽しんでいる。


 その対比があまりにも露骨で、吐き気がした。


 真治の手には、いくつもの有名ブランドの紙袋が握られていた。  あれは、今の知美が一ヶ月死ぬ気で働いても買えないような、高価な品々なのだろう。  彼は、知美を「魅力がない」と切り捨て、汚れた雑巾のように捨て去った。  そして、その「汚れた雑巾」が必死に洗って、整えてきた清潔な人生の上に、新しい女と子供を招き入れたのだ。


 二人は、知美のすぐそばを通り抜けていった。  真治の視線が一度、知美が隠れている方へ向いた。  知美は心臓が止まるかと思った。  けれど、彼の瞳には何も映っていなかった。  そこに立っているのが、かつての妻であることにさえ気づかず、ただの「通りすがりの、疲れた中年の女」として、その視線は通り過ぎていった。


 その事実が、何よりも知美を絶望させた。  恨んでいるのは、私だけ。  苦しんでいるのは、私だけ。  彼はもう、私という存在を完全に記憶の隅へ追いやり、新しいページを、真っ白な心で書き始めている。


「……っ」


 声にならない叫びが、喉元までせり上がってくる。  百貨店の煌びやかなシャンデリアの下で、知美は自分が、世界から切り離されたような感覚に陥った。    幸福は、時として最大の暴力になる。  彼らの笑顔は、知美にとって、死刑宣告よりも残酷な断罪だった。 『お前がいなくても、世界はこんなに美しい。お前が不幸になっても、俺たちはこんなに幸せだ』  そう突きつけられているようだった。


 知美は、フラフラと百貨店を這い出した。  外は、逃げ出したくなるほどの猛暑だった。  コンクリートの照り返しが、知美の視界を歪ませる。    駅へ向かう雑踏の中で、知美は立ち止まり、空を見上げた。  青い空。高層ビルの窓が、残酷なほどに輝いている。    ――負けたくない。


 不意に、心の奥底から、ドロリとした熱いものが湧き上がってきた。  それは、これまでの「健気な母親」の顔をした自分からは、決して出てこない感情だった。  悲しみでもない。絶望でもない。  それは、純粋で、烈火のような「憤怒」だった。


 彼らが笑っている間に。  彼らが贅沢を貪っている間に。  彼らが自分たちを「過去」として葬り去ろうとしている間に。


 知美は、唇を噛み切りそうなほど強く結んだ。  今の自分は、泥を啜り、這いつくばっている。  けれど、このまま終わってやるものか。    彼に見せつけられた「幸福」という名の凶器を、知美は自分の魂の燃料に変えることに決めた。    ――真治さん。河野さん。  ――あなたたちは、私を捨てたことで、すべてが解決したと思っているのでしょう。  ――私が、このまま誰にも見向きもされず、貧しさの中で朽ち果てていくのを待っているのでしょう。


 知美は、荒れた自分の手を見つめた。  この手で、もう一度、積み上げてやる。  彼が見たこともないような、そして、あの若い娘には決して真似できないような、本物の「強さ」と「輝き」を。  いつか、彼らが積み上げた「嘘の幸福」が瓦解するその日に、私はこの手で、本当の勝利を掴んでみせる。


 知美は、背筋を伸ばした。  パンプスの底が、熱い地面をしっかりと踏みしめる。   「……お母さん、負けないよ、陽菜」


 知美は、独り言を呟き、駅の改札へと歩き出した。  人混みの中で、もう彼女の肩は震えていなかった。    その夜。  知美はいつものように、狭いキッチンで包丁を握った。  スーパーの特売で買ったひき肉。少し萎びたタマネギ。  けれど、知美の包丁の音は、これまで以上に鋭く、力強いリズムを刻んでいた。


「お母さん? 今日、何かあった?」  リビング(と言っても六畳の一部だ)で勉強していた陽菜が、不思議そうに顔を上げた。 「ううん。……ただ、これからの献立、もっと本気で考えようと思ってね」


 知美は、微笑んだ。  それは、これまでの「耐え忍ぶ妻」の笑顔ではなかった。  牙を隠し、獲物を狙う、一人の自立した女性の、静かで不敵な笑みだった。


 泥濘は、まだ深い。  けれど、知美はもう、その深さを恐れてはいなかった。  この泥こそが、いつか彼らを飲み込み、自分をより高くへ押し上げる土壌になるのだと、彼女は直感していた。


 窓の外、夜の闇は深まっていた。  けれど、あけぼの荘の小さな一部屋から漏れる光は、どの高層マンションの輝きよりも、鋭く、確かな意思を宿して燃えていた。


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