瓦解(がかい)する日常
第3部:瓦解する日常
夜明け前の紫紺の闇が、リビングの大きな窓からじわじわと浸食してくる。 かつてはこの「眺望」こそが、成功の証だと思っていた。地上から遠く離れた場所で、宝石を散りばめたような夜景を見下ろしながら飲むワイン。それが、佐藤知美という女性が手に入れた「幸福の到達点」だったはずだ。 けれど今、眼下に広がる街の光は、知美の網膜をただ虚しく刺激するだけの無機質な信号に過ぎなかった。
「……お母さん、段ボール、あったよ。クローゼットの奥に、掃除機が入ってたやつとか」
陽菜が、自分よりも大きな箱を引きずりながら戻ってきた。 知美は、立ち尽くしていた自分を叱咤するように深く息を吐いた。今、この瞬間にすべきことは、窓の外を眺めて感傷に浸ることではない。この「城」から、自分たちの魂を救い出すための撤退準備だ。
「ありがとう、陽菜。……まずは、あなたのものから詰めなさい。学校の教科書、参考書。それから、どうしても持っていきたいものだけ。服は……最低限でいいわ」 「分かってる。……お父さんが買ってきた服なんて、一着も持っていかない」
陽菜の言葉は、鋭い。 彼女はすでに、この部屋にある「真治が用意した贅沢」を、自分の人生から切り離そうとしていた。知美もまた、同じだった。
知美はまず、キッチンに向かった。 そこは、知美がこの十八年間で最も長い時間を過ごした場所だった。 ドイツ製のシステムキッチン、大理石のワークトップ、ひとつ数万円もするル・クルーゼの鍋が並ぶ棚。真治に「美味しい」と言わせるためだけに、そして「素敵な奥様」という役を完璧に演じるためだけに揃えられた、舞台装置。
知美は、棚の奥から、使い古された小さな雪平鍋を取り出した。 それは、真治が昇進する前、まだ二人で安アパートに住んでいた頃に、知美が母から譲り受けたものだ。 このキッチンに飾られた高価な道具たちの中で、唯一、この鍋だけが知美自身の歴史を刻んでいた。 真治との「偽りの贅沢」が始まる前、ただ「美味しいお味噌汁を飲ませてあげたい」という純粋な願いだけで包丁を握っていた頃の記憶。
知美はその鍋を、手近な段ボールに押し込んだ。 その隣に、陽菜が幼い頃から使っている、少し欠けたマグカップを置く。 それだけで、胸の奥のつかえが少しだけ取れたような気がした。
――ガタッ。
リビングで、陽菜が何かを倒す音がした。 知美が駆けつけると、陽菜は床に散らばった写真立てを見つめて、立ち尽くしていた。 それは、昨年の夏に軽井沢で撮った、家族三人の写真だった。 真治が満面の笑みで陽菜の肩を抱き、その隣で知美が少し控えめに微笑んでいる。 背景には、抜けるような青空と緑。 今見れば、その笑顔さえも、真治にとっては「不倫を隠すための仮面」だったことがわかる。彼はあの時すでに、二十四歳の部下と、新しい命の計画を立てていたのかもしれない。
「……お母さん、これ、どうする?」 「……捨てなさい」
知美の声は、自分でも驚くほど冷徹だった。 「思い出を大切に」なんて言葉は、対等な愛があった場合にのみ許される贅沢だ。奪い、裏切り、踏みにじった男の記憶を保存しておくことは、自分自身の尊厳を傷つけ続けることに他ならない。
「写真は、全部置いていくわ。……私たちが持っていくのは、これからの時間だけ」
知美は、自分のクローゼットを開けた。 そこには、真治の好みに合わせて選んだ、コンサバティブで上品な服が並んでいる。 「知美はこういうのが似合うよ。育ちが良さそうに見えるから」 真治はそう言って、誕生日のたびに知美に服を贈った。 知美はそれを、彼からの愛情だと思っていた。けれど違ったのだ。彼は、自分の横に並ぶ「理想の妻」を、自分の好みの衣装でコーディネートしていただけだったのだ。
知美は、それらの服を、一枚一枚ハンガーから外した。 カシミヤのコート、シルクのブラウス、ブランド物のバッグ。 それらを、容赦なく「不用品」と書いたゴミ袋の中に詰め込んでいく。 手が震えた。 けれど、それは悲しみからではない。 自分の皮を剥ぐような、恐ろしくも清々しい、破壊の快感だった。
「お母さん、すごい勢い……」 部屋の入り口で、陽菜が驚いたように知美を見ている。 「いいのよ、陽菜。……私たちは、もう『佐藤真治の所有物』じゃない。ただの、知美と陽菜になるの。だから、彼が選んだものは、全部彼に返してあげるわ」
知美は、最後に宝石箱を開けた。 結婚指輪。十周年のスイートテン・ダイヤモンド。 どれもが、数百万という価値があるだろう。 これさえあれば、当面の生活費には困らないかもしれない。 一瞬、知美の指先が迷った。 真治が持ち去った共有財産のことを思えば、これを持っていくのは「正当な権利」のようにも思える。
けれど、知美はその宝石箱を、バタンと閉じてドレッサーの上に置いた。 いらない。 彼の「罪滅ぼし」の道具を質に入れて食いつなぐような真似をしたら、一生、彼の影から逃げられないような気がした。 知美が欲しいのは、金ではない。 彼に、一分一秒たりとも依存しなかったという、鋼のような自尊心だ。
作業を続けているうちに、部屋の中は無残な有様になった。 整理整頓されていたリビングは、段ボールとゴミ袋の山に埋め尽くされた。 生活の体温が抜けていく。 この部屋は、人が住む場所ではなく、ただの「不動産」に戻ろうとしていた。
ふと、知美はスマートフォンの画面を見た。 時刻は午前五時。 窓の外が、白んできている。
知美は、一通のメールを下書きした。 相手は、以前の職場で知り合った、離婚専門の弁護士だ。 数年前、彼女が「何かあったら相談して」と名刺をくれた時、知美は「私には関係のない世界だ」と笑って受け取った。 まさか、その「何か」が、これほどまでに最悪の形で訪れるとは。
『急な連絡で失礼いたします。離婚について、至急ご相談したいことがあります。夫による不倫、妊娠、そして共有財産の持ち出しが発覚しました。私は、一刻も早く、娘とこの家を出る決意です』
送信ボタンを押す指が、かすかに震えた。 これを送れば、もう後戻りはできない。 「専業主婦に近いパート主婦」という、世間から見れば温室の中で守られていた存在から、剥き出しの社会へと放り出されるのだ。
――怖くないと言えば、嘘になる。
四十三歳。 これといったスキルもない。貯金は奪われた。 これから陽菜をどうやって大学へ行かせるのか。どこに住むのか。 不安が、足元から冷たい水のように這い上がってくる。
その時、キッチンで陽菜が、買っておいた食パンをトースターに入れた。 カチカチという、タイマーの音が聞こえる。
「……お母さん。パン、焼けたよ。食べよう」 陽菜が、バターも塗っていない、ただ焼いただけのパンをお皿に乗せて持ってきた。 コーヒーもない。サラダもない。 昨日まで知美が作っていた、野菜たっぷりのスムージーや、エッグベネディクトのような華やかさは微塵もない。
二人は、段ボールの上に座って、そのパンを齧った。 サクッ、という乾いた音が、静かなリビングに響く。 味は、驚くほどしなかった。 けれど、喉を通る時のその確かな「重み」が、今の知美には何よりも愛おしかった。
「美味しいね」 陽菜が、ぽつりと言った。 「そうね……本当に。美味しいわね」
二人の目は、少しだけ赤かった。 けれど、その瞳の奥には、逃れられない運命を呪うような弱さはなかった。
「陽菜。……お母さん、決めたわ」 パンを飲み込み、知美は娘をまっすぐに見つめた。 「今日中に、不動産屋に行く。……ここから一番遠くて、それでいて私たちが、私たちの力だけで住める場所を探すわ。六畳一間だっていい。そこを、私たちの本当の『お城』にしましょう」 「……うん。私、どこでもついていくよ。お母さんと一緒なら、どこだって大丈夫」
陽菜の言葉が、知美の心に最後の一片の勇気を吹き込んだ。 窓の外、太陽が地平線の向こうから顔を出した。 オレンジ色の光が、散らかったリビングを照らし出す。 高級家具の影が長く伸び、埃が光の粒となって舞っている。 それは、昨日までの知美が見ていた「美化された朝」ではなく、現実の、容赦のない、けれど嘘のない朝の光だった。
知美は立ち上がり、大きく伸びをした。 体の節々が痛む。一晩中作業をして、精神をすり減らした代償だ。 けれど、その痛みこそが、自分が生きている証拠のように思えた。
「さあ、陽菜。最後の詰めをするわよ」
知美は、まだ寝室に残っている真治の私物を、すべて廊下に放り出した。 彼が大切にしていたブランド物の時計、ゴルフバッグ、オーダーメイドのスーツ。 それらを無造作に積み上げると、その一番上に、彼が先ほど置いていった万年筆を――ゴミ箱から拾い上げ――突き刺した。
――これは、あなたに返すわ。 ――私たちが積み上げた十八年の歴史は、こんな紙切れ一本の契約や、高価なブランド物で購えるほど安くはなかったのよ。
知美は、もう一度だけ、空っぽになり始めたクローゼットの鏡に自分を映した。 目は腫れ、髪は乱れている。 真治が言う通り、今の自分には「女性としての魅力」などないのかもしれない。 けれど、鏡の中の女は、これまでのどの瞬間よりも、強く、激しい光をその瞳に宿していた。
城は崩れた。 けれど、その瓦礫の下から這い出してきたのは、誰の所有物でもない、「佐藤知美」という一人の人間だった。
知美は、玄関のドアを開けた。 外の空気は冷たく、そして驚くほど澄んでいた。
「行くわよ、陽菜」 「うん!」
二人は、最小限の荷物が入ったバッグを肩にかけ、背筋を伸ばして歩き出した。 エレベーターが、地上へと降りていく。 「二十二階の幸福」を捨て、彼女たちは泥臭い、けれど確かな地面へと降り立とうとしていた。
――さようなら、真治さん。 ――あなたはあなたの「救済」とやらで、溺れていればいい。 ――私たちは、私たちの力で、本物の朝を迎えに行くわ。
エレベーターの扉が開いた。 そこには、朝の光に満ちた、新しい世界が広がっていた。




