32.100回死んだ彼と彼女と、私
最終章——桜坂立花から見た世界。
立春の日は、朝から良く晴れていた。この時期にしては珍しい。
私は変わりやすいこの時期の天気も、全てを凍らせるようなこの寒さも、嫌いではない。冬が春へと向かってゆく2月は、1年の内で最も短い月であり、それ故に儚さを感じるからだ。
陽が昇ってからしばらく経った。もうすぐ自転車に乗った彼が、手を冷たくしてやってくるだろう。私がその手を握り締め、温めてあげればいいのだろうけど、素直じゃない心がそうさせてくれない。だから、代わりに使い捨てカイロにその役を任せる。感情を持たないカイロなら、従順に彼の手を温めてくれる事だろう。
「おーい、立花―!」
まだ薄暗い店内のソファーで使い捨てカイロを振っていると、外から彼の声が聞こえてきた。しかし、いつもの自転車のブレーキ音は鳴らなかった。雨の日にも自転車に乗る馬鹿が、快晴の日に歩いてくるわけがない。
私は、妙な違和感を抱きつつ、ソファーから飛び跳ねるように立ち上がると、お店の灯りをつけた。そして、待っていたことを悟られないように、少し時間を空けてからお店の外に出た。
「よっす! 待ったけ?」
私がお店のドアを開け、いつものように明るい声で彼を出迎えると、彼もいつものように怪訝そうな顔を向けた。
「なんだよ、『よっす』って。つーか、先にごめん、とかねぇのかよ」
「ああ、ごめん、ごめん。ってか、『よっす』知らんが? 最近若い子の間で流行っとる挨拶やよ。『よっ、おはよう』の——」
私はそこまで言いかけた時、いつもと光景が違う事に気付いた。
車が一台通れるだけの幅しかないお店の前の路地は、相変わらず物寂しい雰囲気が漂っていて、それを助長させるように凍てつくような空気が満ちている。
それはいつもの事。
そんなものは、私の持ち前の明るさで、容易に吹き飛ばす事ができる。
しかし、今日はそんな寒くて寂しそうな路地に、明るい花を添えるような可憐な少女の存在があった。その少女は、私の幼馴染である百瀬正志の横に直立しており、静かに私を見詰めていた。
路地に風が通った。
彼女の黒くて長い髪が艶やかに揺らめき、大きな眼が潤んだ。寒さを含んだ空気が、容赦なく体を刺したが、彼女は体を縮こまらせる事はなく、堂々と立ち尽くしたままだった。
私はそんなあどけなさと力強さを併せ持った彼女から、何か分からないけれど、強い信念のようなものを感じた。絶対に成し遂げようとする意志や覚悟のようなものを感じた。
そして、彼女は彼よりも一歩前に出ると、可愛らしい唇からは想像も出来ないくらい力強い声を発する。
「私は、葉月奏です。未来からやってきました」
「……未来?」
私は思わず首を傾げた。すると、彼女は力強い語調を保ったまま、とんでもない答えを返してきた。
「はい。未来です。そして、もうすぐ、彼——正志君が死んでしまいます」
「正志が……死ぬ?」
瞬時に状況を呑み込むことは困難だった。急に現れた人に、しかも未来から来たという人に、幼馴染が死んでしまう、と言われて、それをすんなり受け入れられる人がどれくらいいるだろうか。
それでも、彼女は強い信念のもと、言葉を続けた。
「死んでしまいます。何度やっても、どう足掻いても彼は死んでしまいます。運命がそうさせるのです。これまでがそうでしたから……」
語尾はこれまでの力強さが薄れ、彼女の顔が陰った。そして、僅かな時間だが、彼女は口を閉ざした。時間にすると、ほんの数秒程度だったが、その間に彼女の苦悩の日々が詰まっているのだと私は思った。
それから彼女は、再び力強い表情を取り戻すと、「だけど——」と続けた。
「だけど、大丈夫。なぜなら、ここには『ふたり』がいるからです。正志君がいて、立花ちゃんがいて、ふたりがいれば、どんな困難も乗り越えられるはずです。私は、そう確信していますし、その手助けをするために未来から来たのです」
葉月奏と名乗る少女の瞳は、真っ直ぐに私を見詰めていた。その瞳の奥にどんな感情を抱いているのだろうか。私には理解できない。だけど、胸の前で握り締めている両手は筋張る程力が入っていたし、潔い表情は、とても嘘を吐いているようには見えなかった。
いいえ——。
私は彼女が嘘を吐いていない事を初めから知っている。彼女が未来から来た事も知っている。
「life reset」——。
そのアプリは、インストールした日まで遡る事が出来る、神のような力をもったアプリだ。しかし、そのアプリにもいくつかの「決まり」が存在する。
例えば、人生をやり直している事を他人には告げてはいけない。もし告げてしまえば、アプリは自動的にアンインストールされてしまい、もう二度とやり直す事ができなくなるのだ。
そして、彼女はその神アプリを使って、何度も人生をやり直してきているのだろう。何回やり直してきたのか、私には分からないが、彼が生きる未来を掴むため、必死になって、もがき、苦しんできたことだろう。
ここに辿り着く過程で彼女の精神は、擦り減り、廃れ、崩壊し、人ではなくなったときもあったかもしれない。また、人を人として見れず、容易く切り捨ててきたかもしれない。
辛かっただろう。
苦しかっただろう。
強くはない身体に強さを求める事は、凄まじい苦悩と苦痛を人に与えるのだ。
そして、私にはその苦悩も痛みも分かる。彼女がそれを言わなくても私は理解できる。なぜなら、私自身もそのアプリを使い、何度も人生をやり直しているから。
私も幼馴染である彼を生かす運命を探し続けてきたのだ。そして、彼女が未来からやってきたと告白したという事は、全てが上手くいった事を意味している。
彼を生かすためには、どうしても彼自身に死が迫っている事を伝える必要があった。しかし、その事を私の口から彼に告げれば、もう二度とやり直す事ができなくなる。この先、どんな運命が待ち構えているのか分からない以上、やり直せない、というリスクを取る勇気は私にはなかった。
だから、私は考えた。
彼を生かし、アプリも失わない方法はないだろうかと。
そして、考えついた。
彼女——葉月奏にアプリをインストールさせ、彼女から彼に死が迫ってきている事を告げさせることだった。
そのために私は、何度も試行錯誤を繰り返してきた。彼と彼女を何回失っただろうか。何回死なせてしまっただろうか。たぶん、100回以上だと思う。その過程で、私の心が正常を保てなくなった時もあった。もしかしたら、今現在も平穏に見えて、もう感性が失われているだけかもしれない。
だけど、ようやく辿り着いた。
あとは、彼の死を回避しながら、運命を選択していくだけだ。
以前、彼女は言っていた。
人は、運命を回すだけの歯車だと。
また、彼は言っていた。
運命に流されているだけという漠然とした不安があると。
今なら私は、そのどちらも理解できる。
人は自分で運命を選択し、歩んでいると思っている。しかし、その些細な選択が、誰かを生かし、誰かを殺しているのだ。それを知らない人間は、盲目的に仕事を熟すだけの「歯車」なのだろう。
また、それは逆の立場もあり得る。
誰かの選択ひとつで、自分が生きるか、死ぬかを決められているのだ。
そうやって、皆、それぞれの仕事を熟し、誰かを生かし、誰かを殺し、誰かに生かされているのだ。運命とは、自分で選んでいるように見えて、誰かに選ばれ、流されているのだろう。
だったら、私はそれらを全て承知の上で、人生を選択していく人間になりたい。盲目的な歯車ではなく、意思を以って運命を選んでいきたい。
だから、私はふたりの言葉を理解できても、敢えて否定する。
「運命」とは自らが選ぶもので、人の「宿命」は歯車として仕事を熟す事ではなく、生命として意思を以って考える事だと信じたい。
私は必ず辿り着いてみせる。
【100回死んだ彼と彼女と、私】が生き永らえる未来へと。
それは果てしなく孤独な戦いだ。運命と宿命の本質を知った私だけの、私ひとりだけの戦いだ。
私は大きく息を吸った。
冷たい空気が頭を目覚めさせる。
私の決意を固く結びつける。
そして、私は、吸った息を全て吐き出すように声を発した。
「奏ちゃん。全てを教えてくれてありがとう」
一年で最も寒く、最も短いはずの2月は、まだ終わらない。
終わり。
長々と、誠に有難うございました!!




