第39話 エドガー
私は、人を信じたことがなかった。
誰もが、私ではなく私の財産を見ていた。
誰もが、私の名を使って自分の欲望を満たそうとしていた。
誰もが、私をどう使ってやろうかと見ていた。
本当の私というものを見ようとした者は、ただのひとりもいなかった。
だから私も誰のことも見ないと決めた。
人を金で動かし、理屈で御し、懐には誰も入れない。
裏切られるくらいなら、はじめから信じなければいい。
失って苦しむくらいなら、はじめから何も持たなければいい。
確かに使用人はいる。
子供の頃から支えてくれている彼ら。
彼らは違うとわかっている。
ただ、彼らはあくまでも仕える人々。
私と同じ場所ではない。
そうして私は、ただ独りだった。
心はすでに冷え切っていた。
それを寂しいとすら思わなかった。
寂しさを覚えるには、失うものを持たねばならない。
私は、何も持たないことで、何も失わずにいられた。
そう、五十を過ぎて、彼女に出会うまでは。
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私が足を怪我した年のことだった。
寝台の住人となってしまった私の世話に、ひとりの女が雇われた。
それが、リディアだった。
リディアは、私の財産にも、肩書きにも、ただの一度も目を向けなかった。
気難しい金持ちの怪我人を、金持ちとも怪我人とも扱わなかった。
彼女はただ、私の枕元で、小さく歌を口ずさんでいた。
冷たく静まり返っていたこの館に、その時、初めて、音が満ちた。
あるとき、彼女は言った。
「あなたは、誰かに甘えたことが、一度もないのね」
私は、答えられなかった。
図星だったからではない。
そんなふうに私の内側を覗いた人間が、生まれて初めてだったからだ。
リディアは、富の下に隠れていた臆病な子どもの私を、いともたやすく見つけてしまった。
私は、生まれて初めて誰かに傍にいてほしいと願った。
二十四も年の離れた女にそれを乞うのは、みっともないことだったろう。
しかも、私のような金持ちの偏屈な男にだ。
それでも私は乞うた。
リディアは少し笑って……頷いてくれた。
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私は愛し方を知らない男だった。
だから言葉のかわりにものを用意した。
彼女の好む花を植えさせ、陽の差す部屋をあつらえ、望むものは何でも揃えた。
それが不器用な愛の示し方だと、彼女はとうに見抜いていた。
見抜いたうえで、ひとつひとつを嬉しそうに受け取ってくれた。
私たちは愛を深めていった。
そして、リオが生まれた。
いつしか、この館に温もりが溢れるようになっていた。
リディアの歌声が響き渡り、リオの笑い声が響き渡る。
リディアは、本当に、よく歌う人だった。
子守唄も、庭仕事の鼻歌も、何でもないひとりごとまで、彼女は歌にした。
リオは、母の歌が大好きな子だった。
まだ回らぬ舌で、母の歌う調べを懸命に真似ては、リディアを笑わせていた。
私は、そんな二人を、少し離れたところから眺めているのが好きだった。
輪の中へ入るのは、どうにも照れくさかった。
愛を注がれたことのない男には、その注ぎ方も、まだよくわからなかったのだ。
それでも、リオは、そんなぎこちない父に懐いてくれた。
私は、いつからか、その温もりをなによりの宝物だと感じるようになっていた。
どんな財産よりも大切な、私の宝物と。
こんな温もりに溢れた日々が、ただ当たり前に続いていくものと、私は信じて疑わなかった。
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その日もこの館には、歌が、笑い声が、満ちていた。
あの子には、ひとつ、癖があった。
二階へ駆け上がっては、吹き抜けの手すりの隙間から、一階にいる母へ手を振るのだ。
「ママ、こっちだよ。はやく」
毎日、飽きもせず、あの子はそうやって母を呼んだ。
リディアが下から手を振り返すと、リオは、それは嬉しそうに笑った。
何でもない、いつもと同じだ。
だが、手すりの隙間から、身を乗り出すと……
……あの子の小さな体は、手すりの間を、すり抜けた。
その音を、私は、生涯、忘れることができなかった。
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リディアは笑わなくなった。
あの日から、彼女は自分を責め続けた。
あの子の遊びを止めなかった、自分を。
あの子を受け止めることができなかった、自分を。
やがて、あの子を自分が産んでしまったこと、すらも。
責め続けた末に、彼女は、責める相手が誰なのかも、わからなくなっていった。
私を癒してくれた、彼女のなかのあの優しさが、少しずつ別の色に染まっていった。
私は、それをただ見ていた。
見ていながら、何もしなかった。
いや、何ひとつできなかった。
金で片づかぬものがこの世にあるのだと、私はそのとき生まれて初めて知った。
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何ひとつできないながらも、自分が思いつく手はすべて尽くした。
だが、何もしらない私の力では、彼女を元に戻すことは、できなかった。
そうして、彼女は――人では、なくなった。
館が軋みはじめた。
ひとりでに扉が鳴り、調度品が倒れ、時には、私や使用人に向かって物が飛んできた。
彼女の憎しみが、内へ内へと向いていた憎しみが、外へと反転したのだ。
あの子を奪った、この世のすべてを、彼女は憎んだ。
私の知るリディアは、もう、そこにはいなかった。
もう、止められなかった。
このままでは、彼女はいずれ自分自身をも引き裂いてしまう。
私は、彼女を抱きしめた。
腕の中で荒れ狂うものを、力のかぎり、抱きしめた。
そして――私の腕の中で、私は、彼女に、深い傷を負わせた。
もう、これ以上、誰も傷つけさせないために。
狂おしく荒れ狂うものを、鎮めるために。
深い傷を負ったことで、彼女の内で荒れていたものが、鎮まった。
彼女は、静かに目を閉じ、そして眠りについた。
しかし、彼女は死ななかった。
人でなくなったものの性質が、その傷でさえ、彼女を死なせなかった。
生と死の、その狭間に、彼女は取り残された。
私には、彼女の息の根を止めることが、どうしてもできなかった。
愛していたのだ。
人でなくなってもなお、私は彼女を愛していた。
だから、私は、彼女を、封じた。
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それからの私は、残された時のすべてをたったひとつのことに注いだ。
幸せだったころの、あの子の笑顔を、彼女の笑顔を。
三人で過ごした、何でもない日々を。
この手で、かたちに残すこと。
金で何でも手に入れてきた私が、生まれて初めて自分の手でものを作った。
下手でも、かまわなかった。
それだけが、私にできる、たったひとつの償いだったから。
封印など、しょせんは一時しのぎに過ぎない。
私は、彼女を、本当の意味で、解き放ちたかった。
憎しみからも、悲しみからも。
この手で作った品々で、いつか、彼女の魂を、あるべき場所へ還してやりたかった。
だが、私は、わかっていた。
彼女を還すということは、この世から、彼女を永遠に手放すということだと。
弔うとは、そういうことなのだと。
だから、私には、その最後の一歩が、どうしても踏み出せなかった。
人でなくなってもなお、私は、彼女を愛していた。
愛していたからこそ、彼女がこの世から永遠に消えてしまうことが、怖かった。
いつしか、この手の品々は、彼女を還すためのものではなく、彼女をここに繋ぎとめておくための、言い訳に変わっていた。
まだ、今ではない。
――すでに弔うための最低限の品は、揃っているというのに。
もう少しだけ、もう少しだけ、より完璧な弔いを仕上げてから。
そう己に言い聞かせては、私は、その日を、先延ばしにし続けた。
だが――その"いつか"は、とうとう、来なかった。
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あの日、私は館を出た。
弔いをより完全なものに仕上げる、その最後のひと品に要るものを求めて、私は久方ぶりに街へ出た。
――最後のひと品。
その言葉に、私はいったい幾度すがってきたことだろう。
これさえ仕上がれば、次こそは彼女を還してやれると、そう己を欺きながら。
その日もまた、私は、彼女を手放すその日を、先へと押しやっていたのだ。
通りを渡ろうとした、そのときだ。
馬の嘶きを、聞いた気がした。
気がつくと、私は、冷たい石畳に倒れ伏していた。
薄れゆく意識の底で、最後に頭をよぎったのは、痛みでも、金のことでもなかった。
――まだ、途中だ。
彼女を、まだ、還してやれていない。
あの暗く深い場所に、たったひとり、彼女を遺したままだ。
いつか救うと、あれほど、約束したのに。
どうか、誰でもいい。
私に代わって、彼女を弔ってやってはくれないか。
あれは怪物などではない。
我が子を喪い、悲しみに堕ちた、ただのひとりの、母なのだ。
薄れていく視界の中で、私は、あの館を思い描いた。
リディアが歌を奏で、リオが駆けまわり、そうして初めて"家"になった、あの館のことを。
私が愛したもの、そのすべてがあの館にある。
愛しの館。
どうか、あの人ごと。
あの、愛しの館ごと、弔ってやってくれ。
そこで、私の意識は、途切れた。
これにて本作は本当に終了となります。
最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
投稿7作目で、ホラー要素を用いた脱出型の構造ミステーに挑戦してみました。
ホラー要素よりも、謎解きや脱出要素が強くなってしまったかもしれませんが、それでもホラーとしてのひとつの筋を貫き通せた作品になったのではないかと、そう思っております。
今作が、少しでも面白い・気になったと思ってもらえる作品となっていれば嬉しい限りです。
今後の参考になりますので、評価・ブックマークで応援いただけると嬉しいです。
そして、「冒険者はあきらめない」シリーズの第8弾として新作の連載がはじまっています。
「冒険者は御令嬢様に拾われる ― 悪役令嬢の執事はつらいよ」
https://ncode.syosetu.com/n0610mv/
新作の方も引き続き応援していただけると、とても嬉しいです。
どうぞよろしくお願いします。




