第5話「理科室の試験管、勝手に割れる」
一年三組の教室は、朝からどこか落ち着かない空気に包まれていた。
ざわつきではない。
声が飛び交うわけでもない。
ただ、教室の“温度”がいつもより半度ほど高いような、そんな微妙な変化。
陽斗は席に座りながら、周囲の空気の揺れを感じていた。
(なんか……変だな)
誰かが噂話をしている気配。
数人がノートをめくる手を止め、前の方をちらりと見る。
何人かは、わざと視線を合わせないようにしている。
そして──
その視線の先にいるのは、白石透子だった。
透子はいつも通り無表情で、静かに本を読んでいる。
けれど、教室の空気は彼女の周りだけわずかに密度が違うように見えた。
(また……何かあったのか?)
陽斗がそう思った瞬間、前の席の男子が小声で言った。
「……理科室で、試験管が勝手に割れたらしい」
その言葉が、教室の空気を一瞬だけ凍らせた。
声は小さかったのに、
その“内容”だけが、教室全体に波紋のように広がっていく。
話し声が止まり、
数人が息を呑み、
誰かが椅子を引く音がやけに大きく響いた。
陽斗の背筋に、ぞわっとしたものが走った。
(試験管が……勝手に?)
理科室の試験管が割れるなんて、普通はありえない。
誰かが落としたとか、ぶつけたとか、そういう理由があるはずだ。
でも──
“勝手に”という言葉が、妙に引っかかった。
陽斗が透子の方を見ると、
彼女はゆっくりと顔を上げた。
その目は、昨日までの机の揺れとは違う光を宿していた。
静かで、冷たくて、でもどこか楽しそうな光。
「……割れたのは、午前中?」
前の席の男子が驚いたように振り返る。
「え、あ……そうらしいけど……なんで分かるの?」
透子は教科書を閉じ、淡々と答えた。
「理科室の温度と湿度。
朝は気温が低いから、ガラスが収縮して応力が溜まりやすいのよ」
陽斗は思わず聞き返した。
「お、応力……?」
「ガラスは温度差に弱いの。
急激に温度が変わると、内部に“引っ張られる力”が生まれる。
それが限界を超えると──割れる」
透子は指で机を軽く叩いた。
「パリン、とね」
陽斗は背筋を伸ばした。
(そんな理由で……?)
透子は続けた。
「でも、ただの温度差だけじゃ“勝手に割れる”なんて起きないわ。
何か、もう一つ条件が必要」
その言葉に、教室の空気がまた揺れた。
数人が息を呑み、
何人かは透子の方を見て固まる。
陽斗はごくりと唾を飲み込んだ。
「も、もう一つって……?」
透子は静かに言った。
「“内部に残った微量の薬品”よ」
陽斗の目が大きく開く。
「薬品……?」
「ガラスは、特定の薬品に触れると表面が弱くなる。
そこに温度差が加われば──割れるのは当然」
透子は淡々と続けた。
「理科室の試験管は、洗浄が甘いと“見えない膜”が残るの。
それが朝の冷え込みで収縮して、応力が集中する。
だから、勝手に割れたように見えるだけ」
陽斗は息を呑んだ。
(……すごい)
机の揺れのときとは違う。
もっと深くて、もっと鋭い。
“科学で世界を切り裂く”ような説明だった。
透子は教科書を閉じ、静かに立ち上がった。
「相沢くん。
放課後、理科室に行くわよ」
「えっ……!」
陽斗の心臓が跳ねた。
(ま、また……!?)
透子は陽斗の反応を気にする様子もなく、淡々と続けた。
「原因は分かったけれど、証拠がないわ。
科学は“推測”じゃなくて“検証”で成り立つのよ」
その瞬間、教室の空気がまた揺れた。
ざわつきでもなく、騒ぎでもなく──
“何かが動き出した”ような気配。
陽斗は思わず透子を見つめた。
透子は、ふっと目を細めた。
ほんの一瞬だけ、柔らかく。
声の温度が半音だけ下がり、
空気がふっと軽くなる。
「大丈夫よ。
あなたがいてくれた方が、私はやりやすいもの」
陽斗の呼吸が止まった。
胸が跳ね、耳が熱くなり、
心臓が一拍遅れて大きく鳴る。
(な、なんで僕……!?)
透子はすぐに表情を戻し、席に座った。
陽斗は頭が真っ白になりながら、心の中で叫んだ。
(ど、どうしたらいいんだ……!?)
そして、
“試験管が勝手に割れる怪奇現象”の真相を求めて、
2人は再び理科室へ向かうことになる。




