09
串に刺さった焼き魚は、芯までしっかりと火が通っていた。軽く焦げた皮に歯を立てるとぱらりと音が鳴る。齧り付くと、程よく肥えた白身からほどけるように旨味が染み出してきた。
塩も振らない、本当に焼いただけの魚である。それでも空腹と相まって十分に美味かった。魚は翁の倅が釣ったもので、先ほど下ってきた支流ではなく、本流まで足を伸ばして釣ってきたのだという。そちらのほうが釣果が良いらしい。
「そうそう、こういうのが旅の醍醐味なのよね」
サナも美味しい美味しいと言いながら、一匹ぺろりと食べきった。なかなかの健啖ぶりだ。顔を綻ばせて、とにかく美味しそうに食べる。店の翁も相好を崩して、食後に煎茶を出してくれた。
ほっと一服すると、肩のこわばりがふっと抜けた気がした。とはいえ、ここでのんびりと時間を潰し過ぎるわけにもいかない。翁に礼を言い、料金を置いて魚屋を後にする。
サナは自分の料金は自分で支払った。彼女が懐から取り出した巾着には、結構な量の金子が入っている様子だった。……持ち合わせがないのでは、と少し疑っていたのは内緒にしておこう。
「それで、なにから調べます?」
日の光を浴びて気持ちよさそうに大きく伸びをしているサナに問う。肩の動きで裾が持ち上がり腿まで見えそうになっているが、まるで気にした風もない。太陽はやや傾き始めた頃合い。日暮れまでは二刻ほどだろうか。叶うなら、明るいうちに何かしらの手掛かりを得たいところだが。
サナが人差し指を唇に当てる。考え事をするときの仕草だ。出会って半日も経っていないが、既に何度か目にしている。そうしているときの彼女は、爛漫な雰囲気が霧散して、どこか冷たい気配を纏う。
それはたぶん、視線のせいだ。細められた茶色の瞳が、目の前の景色ではないどこか遠くを見据えている。
「荒らされたっていう倉庫を見てみたいな。動物の毛が残ってることがあるんでしょ? 本当にあの子の体毛なのか調べてみないと」
「毛、ですか。……ああ、そういえば」
言われて思い出し、折り畳んだ懐紙を懐から取り出した。二つ折りを開くと、黄色の長い毛が三本。街道の痕跡を調べた際に、念のため保管しておいたものだ。改めて明るい場所で見てみると、かなり強い光沢があるのがわかる。手触りはつるりとしていて、ざらつきは感じられなかった。
「それって、ひょっとして……」
開いた懐紙をサナが覗き込み、二本の指で黄色の毛を摘まみ上げた。ぱっちりと開いた瞳が矯めつ眇めつ対象を観察し、やがて太陽の光に透かすように持ち上げる。
「うん、間違いない。あの子の毛だ」
「見分けがつくんですか?」
「光の弾き方が特殊なの。束になった状態なら、もっとはっきりわかるんだけど」
そう言われて自分も毛を光に透かしてみたが、いったい何が特殊なのかはまるで理解できなかった。そもそも、動物の毛を一本だけ光に当ててみる、という経験自体が初めてだった。つまり、比較するべき普通の光り方というものを知らないのである。毛が束になったとしても、果たして理解できるかどうか。
しかし、彼女の言葉を信じるのであれば、自分が遭遇した獣はまさしくかまいたちだったということになるらしい。不思議な気分だ。あの遭遇は、確かな現実として自分の記憶に刻み込まれている。殊に、刀を抜いた記憶というのは自分にとって特別で、獣の息遣いから刃の手応えまではっきりと思い起こすことが出来た。
その現実に、妖怪という名札が付けられた。
妖怪と相対して、刀を抜いて追い払った。言葉にすると、途端に胡散臭い。だが、妖怪にまつわる噂話としては、むしろお馴染みの型ともいえるだろう。
もしかしたら今まで与太話と聞き流していた噂話も、自分と同じ経験をした者が語った真実だったのかもしれない。こういうのは当人になってみないとわからないものだな、と妙に腑に落ちた。
「これ、預かっちゃっていいかな?」
「役に立つのであれば」
「もちろん。痕跡がたくさん見つかってくれれば、その分あの子の居場所を絞り込めるはず」
そう言われればこちらにも否はない。再び折り畳んだ懐紙をサナに手渡す。
満足そうに懐紙を懐にしまい込んだ彼女を連れて、土手を下流の方向へ。翁の言葉通り、土手の高さが緩やかに低くなっていく。しばらく歩くと、古めかしい水車小屋が見えた。ぎぃぎぃと規則正しく軋んだ音を立てる水車を起点として、土手から細い堀が走っている。
真っ直ぐ伸びた堀の左右には、幾枚も田畑が連なっていた。水車は農地に水を引き揚げているのだ。魚屋のあった街道が宿場の目抜きだとすれば、この辺りはちょうどその裏手になるらしい。川の上流にあたる方角に目を向ければ、街道に沿って建つ家々が背を並べていた。
「うわぁ、すごいな、これ。あ、ほら、虹!」
「えっと、水車がそんなに珍しいですか?」
目を瞠って水車を指差したサナに思わず苦笑する。銀色に輝く川面から跳ねた飛沫がふっと眩い色彩を映している。確かに美しい。けれども、彼女のはしゃぎ方はまるで初めて水車を見た子どものような雰囲気だった。
サナははにかんで小さく首を横に振った。忘れて、と唇が動いた。なんとなく追求しにくい。
堀に沿って進路を変え、田畑の合間を歩いていく。稲穂は実りつつある。緑が三、黄金が七。もうすぐ収穫だろう。畦道は薄く湿っていて、一歩踏み出すたびに履き物の底が大地に引っ張られた。
一番最後に荒らされた倉の場所は、朝のうちに見回り衆の男から聞いてあった。このまま真っ直ぐ進んだ向こうに、稲穂の海から頭を出すようにして瓦葺の屋根が見える。そこが件の倉だ。
「血の出ない切り傷というのは、あり得るものなのでしょうか」
もちろん、かまいたちに襲われたという老人の話である。ちらりと隣を見ると、サナが眉を顰めていた。
「さっきも言ったけど、それはあの子の仕業じゃないって……」
「ええ。けど、だとしたら他にどんな可能性があります?」
試すような聞き方になってしまった。しかしサナなら何か答えを持っているのではないか、という奇妙な確信があった。交わした言葉はまだ決して多くないが、やはり、彼女には余人とは一線を画す知識があるように思えるのだ。
「……理屈で言えば、単純に血管を傷つけなければいいんだけど」
サナの指先が空中に線を引く。横切った爪が刃を表しているらしい。
「極薄の刃で、とにかく浅く……、それこそ薄皮一枚だけ切るの。それなら血が出ないってこともあるんじゃないかな」
「うーん……、それって、切り傷って言っていいんでしょうか?」
「だって、傷の深さはクロウさんも聞いてないんでしょ? 実際に傷を見たのは聞き取りをした人とおじいさん本人だけなわけで。ほら、お年寄りってちょっとしたことをすごく大袈裟に表現したりすることがない?」
首を傾げて記憶を掘り起こす。確か、見回り衆の男は「ぱっくりとした傷」と言っていた気がする。改めて考えると、解釈に幅のある表現だ。サナの言うようも薄くて細い傷を大袈裟に表現したというのも、あり得ない話ではない。
しかし、薄皮一枚を狙って刃を通すというのは、それはそれで至難の業である。一分一厘の狂いも許されないだろう。ある種の達人芸だ。自分がやってみたとしても、動いている相手に成功させるのは難しいと思う。
ところが、サナは首を振ってその仮定を否定した。
「たとえばだよ? おじいさんの近くで突風が起きたとする。砂埃が舞って、顔を塞がれたおじいさんは堪らずしゃがみ込む。で、今度は小さくて鋭い砂利が太ももを掠めて浅い傷を作った。……こんな感じなら、状況に合致するはず」
「……え、待ってください。なら、それって」
「うん。ただの自然現象だね」
そんな馬鹿な、という言葉を喉元で呑み込んだ。サナは澄ました表情で、決してこちらを揶揄っているという様子ではない。
大きく息を吸って言葉を探す。自然の持つ力強さと不思議は知っている。人間の脆さと非力も知っている。しかし、彼女の推論をすんなりと受け入れられないのは、それがあまりに出来過ぎているからだ。
「勘違いでかまいたちの名前を出したら、本当にかまいたちが現れたってことですか? そんな偶然は……」
「あるよ」
はっきりと、彼女は言い切った。
「どんなに確率が低くても、起こり得ることは、いつか本当に起こるの。偶然はただの偶然。そこに意味なんかない。あるいは……」
茶色の瞳に揺らぎはない。彼女の口の端が持ち上がる。
まるで三日月。どうして、そんなに愉快そうなのだろうか。
わからない。唾を飲み込む。彼女が囁く。
「偶然に理由をつけようとするのから、わたしたちは人間なのかもね」