09
「……これ、本当に着けないと駄目ですか?」
「当然。持ち込むのに結構苦労したんだから。ちゃーんと装備してね」
両手を腰に当てたサナが大仰にそう言うのを聞きながら、私は手に持ったそれを渋い顔で見つめていた。
ついさっきサナから手渡されたそれは、彼女曰く、『仮面のようなもの』らしかった。つまり、顔に装着して使う道具なのだと。なるほど、言われてみれば確かに顔の形をかたどっているようにも見える。見える、のだが……。
「一応聞いておきますけど、危険はないのですよね?」
「危険って……、ひょっとして、呪われそうだとか? まさか! そんな心配どこにもないってば!」
私の顔がよほど剣呑な雰囲気だったのだろう。彼女はくすくすと愉快そうに笑っている。
改めて『仮面』の形を確かめる。目の部分が異常に大きい。薄暗い半透明の楕円形だ。触ると非常に硬いが、金属ではない。鼻と口は一体になっているようで、円筒形の部品が貼り付けられている。頬や額といった皮の部分も、独特な手触りの布(本当に布なのだろうか?)で出来ていた。
何に似ているかと問われれば、巨大な蝿だ。どう見たって普通の仮面ではない。一度着けたら二度と外れないような異形感と威圧感がある。
彼女はこれを『がすますく』と呼んでいた。
曰く、これがあればあの毒の煙に耐えられるのだとか。
「またガスを吸わされて気絶しちゃったらしょうがないでしょ? ほらほら、覚悟を決める」
「……はぁ。信じますからね」
意を決して仮面を顔に押し当てた。ひとまず正面を覆い隠すと、サナが装着を手伝ってくれた。伸縮する不思議な帯で後頭部を固定する。仮面はぺたりと張り付くように固定された。上下左右のどこからも空気が漏れないような密着具合だった。……本当に呪われていないのだろうか?
視界は意外にも明るい。外付けの瞳の形に視野は狭まっているが、そこまで違和感はない。驚いたことに呼吸も快適だ。口に接続した筒がなにか特別な働きを持っているのだろうか。
「よしよし。うーん、なんだか暗黒卿みたいだね」
「どこの御公家様ですか、それ」
「いやいや、貴族ってわけじゃなくて。……あれ、帝国なんだから、やっぱり貴族なのかな?」
言ってから、サナは首を傾げた。
「ヤクモ、知ってる?」
「回答不能。該当するデータは存在しない」
「前に一緒に映像記録を見なかったっけ? 旧世紀のスペースオペラ」
「該当のメモリーはこの躯体にインストールされていない」
「ああ、そっか。なんだか寂しいね……」
「感情は未実装だ」
ヤクモを先頭に農具置き場から外に出た。太陽が高い。しかし、陽射しの暴力は感じない。仮面の瞳が明るさだけを採り入れて、眩しさの部分を弾き返している。
倉庫の正面には集落を貫通する荒れた道が走っていた。それを避けて倉庫の裏手に回り込む。やや離れた場所の畑に農作業をする村人の背中が見えたが、彼らがこちらを振り向くことはなかった。サナの言った通り、特別この小屋が見張られているわけでもなさそうだ。
「農作業が始まったのは正午を過ぎてからね。誰も彼もが夜通し起き続けていて、午前中はぐっすり夢の中。お昼を食べてから仕事を始めて、また夜を徹して『集会』に参加する。そういう生活リズムが染み付いてるみたい」
「歪な生活ですね。それもキノシタの差し金ですか」
「……まぁ、うん。歪ではあるけど、現代的な生活だからね……」
サナは何故かばつの悪そうな表情だった。ヤクモも似たようなことを言っていたなと思い出す。日の高さに縛られない生活が未来では当たり前なのだと。
想像するのも難しい社会だが、紆余曲折の進歩の末にそこに至ったのであれば恥じることでもないだろうに。それでも彼女がぎこちなく眉を傾けているのは、時代が変わっても『日の当たる生活』というものには特別な意味が残っているからだろうか。
倉庫の裏手から畑を覗き見る。昨日、遠くから見ていたときは気づかなかったが、農作業に勤しむ人々の動きはどこか緩慢だ。観察しているとあくびの回数も多いとわかる。未来の事情はさておき、昼夜の逆転は今の時代には向かない生活様式なのだろう。
「それで、キノシタとやらはどこに?」
「あっち。昼になって起きてきて、集落を出て、山道を登っていくのを確認してる」
「意外ですね。村の中でふんぞり返ってるものと思ってましたが。目的は?」
「さあね。楽しく登山、って感じじゃなかったけど」
ひとまず集落の外へ出てから、林の中を迂回して登山道に再び合流した。
先頭は変わらずヤクモ。彼の目にはキノシタの足跡がはっきりと見えているらしい。歩いてからの時間経過が短いほど正確に観測できるのだとか。
ぴんと立った黒猫の尾を追うように山道を登っていく。会話はあまりなかった。私もサナも体力に不安はない。とはいえ、見知らぬ山道を登るのはそれだけでも神経を使うものだ。二人と一匹の行軍は、黙々と、という表現がぴったりのものになっていた。
高地の空気は冷たく澄んでいる。吹き抜ける風も爽やかだった。
しかしそれでも歩いていれば身体が熱を持つ。仮面の下で滲み出た汗の粒が不快だった。顔全体が覆われているので拭うことも出来ない。無意識に腕を顔に当ててしまったときなど、仮面がべちゃりと潰れてしまい、汗の粒を押し広げることになってしまった。
深々とため息。自分の耳にこーほーと奇妙な呼吸音が届く。思わず恨み言が口をついた。
「……がすますく、と言いましたか。サナさんは着けなくていいのですか?」
「え、着けてほしいの? それはなかなかにフェティッシュだね」
いたずらっぽくサナが笑った。意味はわからないがからかわれたらしい。
蝿の仮面を着けた彼女の姿を想像して、もう一度ため息。まるで似合わないし、見たいとも思わなかった。
「着けてほしいわけではありません。単純な疑問です」
「呼吸器系に浄化フィルタを増設してるからね。そういう旧式のガスマスクで防げるレベルの汚染なら、まぁ問題は無いかな」
「呼吸器……、というと口の中になにか含んでいるということですか」
「ちょっと違くて、今言ってるのはもっと奥のことだよ」
そう言うと、彼女のたおやかな指がおとがいをなぞった。
片手で掴めてしまいそうな細い首が目に飛び込んでくる。白い喉に流れる汗が一筋。襟元は大きく開いている。奇跡のように浮き出た鎖骨を一滴の玉水が滑り落ちていく。
その先の軌跡を追うことは憚られた。禁忌の背徳。だからこそなのか、それに艶めかしさを感じてしまう。
三度目のため息。今度のそれは、少しばかり別の意味を孕んでいた。
「足跡はここで道から逸れている」
冷たくも温かくもないヤクモの声が私を正気に引き戻した。
小さくも頼もしい黒猫が立ち止まった場所に視線を向ければ、確かに道沿いの茂みに誰かが踏み入った形跡が見て取れた。二、三本の細い枝が折れて地面に転がっている。拾ってみると、断面がまだ瑞々しい。折られてからそれほど時間は経っていないようだ。
「この先になにがあるかわかる?」
「不明だ。この位置から観測できるのは通常の植生のみだ」
「つまり、罠はないわけね」
「電子装置の敷設は観測できない。ただし、高度な欺瞞効果を持つ機器の存在を否定するものではない」
「ヤクモの目を誤魔化せるモノなんてそうそうないんじゃないの」
「この躯体はデフォルトと比べて性能の制限が大きい。評価の再考を推奨する」
「あとでね。どっちにしろ行かなきゃなにもわからない。そうでしょ?」
「肯定する」
茂みの奥を覗いていたサナが振り向いた。ちょいちょい、と指を動かして呼んでいる。
近づくと、ヤクモは既に茂みの奥に身体を滑り込ませていた。やはり彼が先導するようだ。それを追って茂みを大きく掻き分ける。作った通り道をサナが遅れて通り抜けてきた。
視界の端で蝶が舞うのが見えた。空気が変わった気がする。指に触れる感覚が山道よりも湿っぽい。足元に積もった腐葉土のためだろうか。頭上には木々の葉が広がっていて、太陽の光も遮られがちだった。
ヤクモの足取りには迷いがない。
サナと頷き合い、私たちはそれを追いかけた。




