千二百七十一 装備の手入れとシモの事情を考える事
「お疲れ様でした、鎧はあーしが手入れしてから櫃に入れて部屋の方にお運びしますね」
お連が水浴びを終え上に濡れても良い着物を羽織ったのを確認してから、俺もパンツ一丁に成って頭から水を被り汗を流す。
するとソコに志摩がそんな台詞と共に手拭いを差し出して来た。
「ああ、ありがとう。だけれども折角新しい装備を整えたんだ、手入れの仕方の確認も含めて今日位は自分でやるよ」
俺も詳しい方では無いが電子遊戯では、耐久度なんかが設定されている様な作品でなければ、一度買った武器や防具は永遠に使い続ける事が出来るのが普通らしい。
けれども現実は錆止めの油を落とした金属類は放って置けば直ぐに錆びるし、革製品だって専用の脂を使って磨いてヤらなければ乾いてひび割れて来る物だ。
そして何よりも汗を吸った防具は金属、皮革、布問わず手入れを怠ればとんでもない臭いを放つ様になる。
武器や防具なんかが日常の中に存在しなかった前世の日本でも、剣道経験者ならば……いや学校の部活動に剣道部が有った学校に通って居たならば、手入れを怠った小手の惨状を見聞きした事は有るだろう。
他にも似たような案件としては黄金週間前、最期の練習でガッツリ汗を吸った柔道着を更衣室に置き忘れ、連休明けにソレが放置された更衣室を開けた時のヤバい臭い……なんて物は想像が出来るだろうか?
もっと単純に梅雨時期に部屋干しした洗濯物が生乾き状態の時に、部屋に漂うなんとも言えない嫌な臭い……アレを数十倍濃くした物と言えば伝わるかしら?
兎角、手入れを面倒臭がって手抜きをすると防具と言うのは、トンデモナイ臭いを放つ様になるのだ。
そうした『臭い』は鬼や妖怪を引き寄せる原因となる物でも有る、一応は知的生命体である鬼は兎も角として、妖怪なんかの魔物の中には『穢れ』を好み、ソレが溜まっている者を積極的に襲う種なんかも居たりする。
穢れを好む種類の魔物で無くとも、汚い格好に臭いをプンプンと撒き散らしている様な者は戦場で長生きする事は無い。
幾ら足音を立てない様に気を使い不意打ちを警戒した所で、臭い奴は『自分がソコに居る』と言うのを常に発信し続けている様な物なのだ。
江戸州に出現する最下級の鬼とされる犬鬼は、犬の頭を持っているだけ有って人間よりも遥かに鼻が効く。
俺が四煌戌の嗅覚を使った索敵で極めて安全で効率の良い鬼狩りが出来ている事からも解る様に、倒すべき相手が其処に居ると解るのは戦いの場に置いて極めて重要な利益である。
逆に言えば初陣間もない子供でもそれ相応の装備が有れば、一対一で戦っても先ず負けない相手だとしても、臭いで相手に自分の場所がバレて複数に囲まれ不意打ちで先制攻撃を喰らおう物ならば実力者と呼べる鬼切り者でも不覚を取る可能性は有ると言う事だ。
臭いもそうだが手入れを怠った武器や防具と言う物は、必ず何処か致命的な時に持ち主を裏切る物だと言われている。
強敵と相対して居る時に刀がポッキリ逝ったり、決して致命的とは言い難い攻撃を鎧で受けて反撃を試みようと思ったら鎧が割れてその破片で相手の攻撃以上の被害を被る事だって有るのだと言う。
流石に其処まで致命的な時を狙って不幸が起こる……なんて事はそうそう有る事じゃないとは思うが、大事にされた或いは粗末に扱われた道具が変じた付喪神なんて妖怪が本当で存在するのだから道具は丁寧に扱うに越した事は無いだろう。
そして武器や防具の日常的な手入れは町人階級の鬼切り者ならば全部自分でやるのが当たり前だが、家人を使う事が出来る武家では武器こそ自分の手で手入れする事が推奨される物の、防具に関しては配下の者がやるのが一般的である。
この辺は防具を軽く見ていると言うよりは、武器よりも圧倒的に手入れに手間が掛かる為に、本業である『政』が疎かに成っては困る……と言うのが本筋らしい。
まぁ洗濯機が発明されるよりも前の時代に置いては、家事労働の中でも洗濯がかなり大きな割合を占める重労働だったと言うし、此方の世界でも猪山屋敷では洗濯だけの為に雇われている下女が居る程だから、その仕事の過酷さは推して知るべしと言う所だろう。
ちなみに向こうの世界の時代劇なんかだと長屋の井戸端で娘さんが洗濯板を使って洗濯して居る……と言う様な映像が有ったりしたが、実は江戸時代の日本に洗濯板は未だ無く一般に普及したのは明治維新を超えて更に時代が進んだ大正に入っての事だったりする。
しかもソレが発明されたのも人類の歴史から見るとかなり遅い時期で、その原点には諸説有るものの十八世紀末の欧州で発明されたとするのが一般的な説らしい。
パッと見れば直ぐに作り方が解る様な簡単な構造の品物が、其処まで歴史が浅い物だと俺が見た時代劇を作っていた制作陣も考えては居なかったのだろう。
……なお此方の世界ではしっかりとした木製の洗濯板が、何処の万屋でも草鞋や草履と一緒に極々普通に売っている。
何でもかんでも家安公が持ち込んだ物と言う訳でも無く、此方の世界では戦乱の時代よりも昔から極々普通に使われて居る物らしい。
恐らくは家安公よりも前に此方の世界へとやって来た別世界からの転移者なり転生者が持ち込んだ知識を元に作られた物なのだろう……迷姉酢や綱寒なんて物が普通に有るのだから洗濯板位は有っても今更驚かないゾ。
「志七郎様がそう言うならばあーしは構いませんが……結構な手間ですよ? コレの手入れ、特に小手は自分の仕事だと解って居ても面倒臭いと思う様な手順が必要ですし?」
今日はこれから夕飯までの時間を全て俺の防具の手入れに時間を使うつもりだったらしい志摩が、仕事を取り上げられた事に不満を漏らす様な事も無く、むしろ本当に俺がしっかりと手入れ出来るのかを不安に思っている様に見える。
「前の装備で西方大陸で長旅をした時には全部自分でやってたんだから、別に全く慣れて無い作業って訳じゃぁ無いぞ? まぁ旅先での簡易的な手入れとお前にやって貰ってる丁寧な手入れを同列にしたら失礼なのかもしれないが」
下ろしたての初回だからこそ必要になる特殊な手入れなんて物が有るならば、志摩の心配も頷けるが鎧櫃に同封されていた取り扱い説明書の様な物を読んだ限り、可能ならば一月毎に職人に本格的な手入れをして貰う以外に特別な事は書かれて居なかった。
「いやまぁそーなんすけど……仕事のつもりで居た所にぽっかり空きが出来ると何をやってれば良いのか、全く思いつかないんっすよね」
……元々食うに困って怪盗に身を落として居た志摩では有るが、その本質は極めて善良で生真面目な性質な上に仕事中毒の気も有る様で、空き時間をどう使って良いのか解らないらしい。
彼の現在の立場は俺が個人的に雇っている下男と言う扱いで、生活に掛かる費用やらなんやらは全て俺の持ち出しである。
とは言えこの江戸では住み込みの下男下女の賃金は極めて少なく、決まった給料なんて物は無く、危険な鬼切りへと行かなくても生活の面倒を完全に見てもらえるだけでも御の字と言う、前世の感覚からすれば劣悪としか言い様の無い雇用が横行してるのが現状だ。
流石に世帯を持つ年頃に成れば家族を養う程度の賃金が出来るかと言えばそう言う訳でもなく、特別な技術や技能を身に付ける努力をしなければ多くの場合は夫婦揃って住み込みの下男下女になって、偶に小遣いが出れば良い方と言う待遇に落ち着く。
志摩の場合も基本は同様で三食寝床付きという待遇だけで、その食費は俺の稼ぎから猪山藩の財政に入れると言う形に成っている。
彼に実家と呼べる物が有って顔を見せるべき両親が居るならば、『藪入り』と呼ばれる時期に新しい着物と小遣いを渡して里帰りさせる所だが、志摩は孤児院の出で更に其処には良い思い出が無いと言う事でそうした事はさせていない。
代わりと言う訳では無いが、空き時間が有ったならば好きに鬼切りへと出かけ、その際に手に入れた収入は全て自分の小遣いにして良いと言ってある。
俺自身の心情としては毎月決まった額面の賃金を渡してやりたい所だが、ソレをやると猪山屋敷内で働いてる者達の中での序列で揉め事になる可能性も有ると言う事で、母上から止められて居るのだ。
「この時間からだと鬼切りに行くと言う訳にも行かないもんなぁ。そうだ! 小遣いと外泊許可やるから吉原とまでは言わないが、どっか近くの岡場所でも行って童貞切って貰って来たらどうだ?」
前世の世界ならば先ず間違いなく性的嫌がらせで訴えられた十割負けるであろう発言も、此方の世界では年長者であり雇用主として極々当たり前の発言である。
生真面目で遊びを知らずに大人に成った者程、大人に成ってから『(酒を)呑む(博打を)打つ(女を)買う』の三拍子を知るとズルズルのめり込んで務めを疎かにしたり、公金に手を付ける……なんて真似をする様になると言う。
そうした事を避ける為に此方の世界では相応の年頃に成ったならば、雇用主なり職場の先輩なりが『悪い遊び』との正しい付き合い方を教えるのが半ば常識となっている。
と言うか前世の世界でも俺が任官した頃には、世間が色々と煩く成っていたのでそういう風習は無く成っていたが、先輩刑事が捜査四課に配属された時には更にその先輩が風俗営業の類へと連れて行くと言うのが恒例の歓迎会だった頃もあると聞く。
より詳しく言うならば先ず『一時の娯楽に供する物』を賭けた麻雀なんかで博打を教え、その金で飲み会を開き、更に風俗営業の店へと二次会と称してなだれ込むと言う一連の流れが定番だったと言う。
そうして呑む打つ買うに慣らす事で暴力団員からその手の手段で空気を入れられる様な事の無い様にする……と言う事らしい。
まぁ中には『歓迎会』の時点でその手の誘惑に嵌まり込んで『駄目だこりゃ』と配属を変えられるなんて者も居ると言う話だったな。
「いや、志七郎様はもうその手の事が出来る様な身体に成ってるんでしょうけど……あーしには未だ早い気遣いっすからね?」
自分の息子さんが元気に成ったから……と、思っての提案だったが考えて見れば俺だって未だ元服には早い年齢である、志摩は自分の正確な年齢を知らないらしいが年下なのは間違いないだろう事を考えると確かに少々早すぎる話だな。
「ああ、済まん。だが精通したなら童貞を切って置くのは色々な意味で必要な事らしいから、その時が来たら遠慮無く言うんだぞ?」
自分で言った言葉ながら割と無理が有る話だよなぁ……と、三十路童貞として人生を終えた俺は少しだけ思い悩むのだった。




