第9話
…この手を放せば、陸は自由になれるんだ。
自転車を漕ぐ陸の背中を眺めながら、そんな事を考えた。
気が付けばいつも側にいて、太陽みたいに笑ってくれる。
どんなに辛い事があっても、その笑顔があったから乗り越えられた。
その笑顔があるから、乗り越えて行ける。
陸は大事な幼馴染で、無くてはならない大事な存在だ。
そんな陸が、僕の隣から消えるなんて…考えた事無かった。
だけど…いつまでも、側に居る事なんて出来やしない。
今は同じ場所にいるけど、いつかは別の道に進まなきゃいけない。
僕と陸には別の人生があるし、別の未来が待っているから、そこへ向かって進まなきゃいけない。
…直幸くんの言う通りだ。
僕は無意識のうちに、陸を縛り付けてた。
僕がしっかりしていれば、同情する必要も無くなるし、優しくする必要も無くなる。
僕という柵が無くなれば、陸は自分の好きな事に打ち込めるし、自由気侭に行動出来る。
陸には、いつだって笑っていて欲しい。
その笑顔を守る為には…陸を開放してあげなきゃいけない。
陸という存在を失った僕は、どうすればいいの?
暗く冷たい部屋で一人、パパの帰りを待っていればいいの?
…それでもいい。
だって僕は、今のパパを放って置く事なんて出来ない。
パパの中に僕という存在が無くても、僕はパパの側に居たい、パパを守ってあげたい。
このまま放っておいたら、パパはもっとお酒に溺れてしまう…。
僕、知ってるんだよ…。
パパは海から帰って来ると、お水代わりにお酒を飲んでしまう。
仕事に行く前だというのに、平気な顔してお酒を飲んでしまう。
離れた所からでも分かる位、お酒の匂いをさせて仕事へ出掛けしまう。
…誰も気付かないと思ってるの?
そんな事してたら、職場の人に気付かれて、お仕事クビになっちゃうよ。
ううん、それよりも先に、身体が壊れちゃうよ…。
パパの事を考えたら、胸の奥がズシリと重くなった。
「今日もやるか?」
楽しそうに話し掛けてくる陸の笑顔が眩しくて、堪らず目を逸らしてしまった。
「陸は…海に行きなよ」
陸には陸の道があって、僕には僕の道がある。
だから…僕から離れなきゃ…。
「へ…?じゃあ、おまえは何すんの?」
何も…無い。
僕を待っているのは、あの暗い家だけ。
「疲れてるから、休みたいんだ」
「それなら俺ン家で待ってろよ。どうせ今日も一人で夕飯だろ?ったく…波留さんもいい加減にして欲しいよな。凪砂一人家に残して、自分は飲み歩いてるんだろ?」
陸も知ってたんだ…。
そうなんだ…だけど…。
「そんな事ないッ!」
自転車を漕ぐ陸の背中を突き飛ばすと、リアキャリアから地面に転がり落ちた。
「何やってんだ!?危ないだろッ」
急ブレーキを掛けて自転車を止めた陸に、大きな声で怒鳴られた。
「パパの事悪く言う陸なんて…キライだ。大ッキライだ!」
近付いてくる陸から後退ると、踵を返して駆け出した。
「凪砂!」
自転車を乗り捨て、追い掛けて来る陸の足音が聞こえた。
…僕が離れなきゃ、陸は自由になれない。
追い着かれたらきっと、僕は陸に縋ってしまう。
僕の側から離れないでって…一人にしないでって…。
追い掛けて来る陸を撒く為、目茶苦茶な方向へ走り回っているうちに、駅の北口側へ辿り着いていた。
飲食店やカラオケ店が並び、風俗店の客引き姿まで見えるこの界隈へは、普段あまり足を向ける事がない。
ゲームセンターやカラオケ店の前で屯する若者達は、何がそんなに楽しいのか、誰かが何が言う度、大きな声で笑ってる。
人混みの中にいたら、少しは寂しさが紛れると思ったのに、周りの喧騒が余計僕を孤独にさせる。
「……」
肩に掛けたカバンを背負い直すと、当ても無くふらふらと歩き出した。
繁華街とはいえ大した規模じゃ無いから、ぼんやり歩いていると、あっという間に通り抜けてしまうから、僕は同じ所を何度も行き来した。
「あれ、凪砂…一人?」
掛けられた声に振り向くと、陸の波乗り仲間である桂さんが立っていた。
学校帰りらしく、教科書らしきものが入ったビニールバッグを抱え、空いた手を振り挨拶して来る。
「うん、一人だけど…」
「こんな所で何やってんだ?っていうか珍しいな、陸が一緒じゃないなんて」
真っ黒に日焼けした肌と、潮の香りを漂わせている桂さんの姿を目にすると、嫌でも陸の事を思い出してしまう。
「陸が一緒じゃないとダメなの?」
「いや、そういう訳じゃないけどさ…。お前達って、二人揃って完成品…ってカンジなんだよな。一人だと、なんか半端なカンジがすんだよな」
どんなに辛い事があっても泣かない、そう決めたはずだったのに…。
「桂さん…僕…」
屈託無く笑う桂さんの言葉に、堪えていたものが一気に溢れ出した。
「お、おい…凪砂」
声を上げて泣き出す僕に、桂さんが困惑していた…。
◇ ◆ ◇
小さな繁華街に屯するのは、チャラ男かサーファー、もしくはヤンキーもどき…この町に集まる若者は、およそそんな風に分類されている。
その中で言うと今日の桂さんは、サーファーというよりも、むしろチャラ男に近いかもしれない。
潮と太陽に焼かれて色素の抜けた髪をふわりと盛り上げ、コンガリと言うより焦げ過ぎた肌に、程よく洗いざらしたコットンシャツをサラリと纏い、膝丈のデニムパンツは少しルーズ目、足元はお決まりのクロックス…。
海に面した町という事もあり、道を歩けばそんな恰好をした若者の姿を多く見掛ける。
「桂さーん…」
「ど、どうした凪砂!?」
そんな風体をした若者の前で、制服姿の男の子が泣いていれば、否が応でも周囲の感心を集めてしまう。
「何があったか知らねぇケドさ、とりあえず移動だ。おまえ目立ちすぎ」
桂さんは、『まいったなぁ』なんて顔しながらポケットを探り、ぐしゃぐしゃになったポケットティッシュを取り出した。
「拭け、鼻水」
「う…うん」
硬くてゴワゴワしたティッシュで涙と鼻水を拭きながら、ふらりと歩き出した桂さんの後を追い掛けた。
「落ち着いたか?」
桂さんに連れて来られたのは、駅から少し歩いた場所にあるファミレス。
奥まった席に腰を下ろすと、僕が落ち着くまで気長に待っててくれた。
「うん、もう大丈夫」
鼻の奥はまだグズグズ言ってるけど、堰を切ったように溢れ出した涙は止まっていた。
「いきなり泣き出すからビックリしたぞ。陸とケンカでもしたのか?」
「ケンカなんて…しないよ。ただね・・・」
大学生の桂さんは、亡くなった七海兄ちゃんの同級生という事もあり、昔から僕達の面倒を見てくれた。
チャラッとした見た目のせいで軽い人に見られがちだけど、実は細かい事に気が付く人で、僕や陸の考えてる事なんか簡単に見透かしてしまう洞察力も持っている。
今だって、ケンカはハズレだけど、僕の涙のワケを陸のせいだと言い当てた。
「言いたくなきゃ黙ってろ、喋りたかったら聞いてやる…」
口篭った僕を深く追求する事無く、少し前屈みになって、グラスに入ったコーラをストローでズルズルと吸っている。
そうやってふざけた風を装っても、僕を見詰める瞳には優しさが込められていた。
七海兄ちゃんが生きていたらきっと、こんな風に向かい合って、僕の悩みを聞いてくれたはず。
僕が話し終えるまでじっと、耳を傾けてくれたはず。
「……」
それは桂さんも一緒。
だって桂さんは七海兄ちゃんの友達で、陸の波乗り仲間で、僕にとってはもう一人のお兄さんみたいな存在…。
「ねえ桂さん。僕って…陸の邪魔になってるのかな?」
俯いていた顔を上げると、桂さんの顔をじっと見詰め返した。
「はあ?言ってる意味、分かんねぇんだけど」
ぽかんと開けられた口元からポトンと落ちたストローが、グラスの中に吸い込まれた。
「あのね、直幸くんに言われたの。僕がいると陸は自由になれないって。好きな事が出来ないって。だから僕、陸から離れようと思って…」
突き飛ばした大きな背中、困惑する陸の顔…別れ際の姿を思い出したら、ジワリ、目頭が熱くなってきて、視界がぼやけるのが分かった。
「あのバカが…」
そう言って小さく舌打ちした桂さんの手が、テーブル越しに伸びて僕の鼻を摘んだ。
「ったく、何ワケの分かんねぇコト吹き込まれてんだよ」
摘んだ鼻を左右に振られると、僕の頭もぐらぐら揺れた。
「あのなあ、凪砂…そんなおかしな事、陸に言われた事あるか?」
「ううん、ない…」
僕の答えを聞いた途端、鼻先を摘む桂さんの手がぎゅっと捻られた。
「イッタッ!」
「痛いじゃない!何で本人に確かめないで、他人の言葉を鵜呑みにしてんだ?お前と陸の仲ってそんなモンだったのか?ビービー泣く前に、ちゃんと自分で確かめろ」
桂さんは怒りの態度を露にしながら、波乗り仲間である直幸くんをバカ呼ばわりしてる。
「僕…恐いんだ…。これ以上、誰かが不幸になっていく姿なんて見たくない…。それにもし、ホントに邪魔だって言われたら…どうすればいい?」
そう言って自分の身体に手を回すと、抱きしめた身体が小さく震えた。
「だからぁ…凪砂。おまえの側にいて、不幸だと思ってるヤツなんて、一人もいないと思うぞ。おまえが浜辺に座ってる、それだけで喜ぶヤツだっているんだからな。なんてったっておまえは、俺達にとってのアイドルみたいなもんだからな」
男だけど…なんて呟きながら、桂さんが苦笑した。
「アイドルって・・・どういう意味?それって…女の子みたいって意味?」
むうとむくれて不機嫌になると、目の前の桂さんが慌てた様子で喋り始めた。
「ちげーよ、ホント凪砂は鈍いよなぁ。俺達がどんだけおまえをかわいがってるか…なんて全然気付いてねえだろ?普通に考えてみろ。浜に座ってる野郎相手に、テイクオフしながら手を振るなんて、ありえねーだろ?」
そういえば…海で陸やパパを眺めている時、他の人に手を振られたり、飲み物貰ったり、『疲れたから』って言いながら、僕の隣に座り込む人もいた。
だけどそれって、波乗りする人にとっては当たり前の事だと思ってた…。
「おまえの事、息子や弟みたいに思って、すっげえ大事にしてるんだぞ。それに…浜に座るおまえの姿に、何人のヤツが恋したと思ってんだ?おまえが男って聞かされた時、一気にテンション下がったの…今でも覚えてるよ…」
そう言って桂さんは、照れ臭そうに笑った。
「僕が女の子みたいだから、大事にしてくれるの?そんなのちっとも嬉しくない」
「だからぁ、そうじゃなくてさ。ああ、もうッ!面倒臭いヤツだなあ。俺達は凪砂そのものっていうか、要はおまえが好きなんだよ!」
『好きなんだよ!』
そんな言葉を叫んだ桂さんに、店内の視線が一斉に集まるのが分かった。
「うわッ、桂さん…。そんな事言われたら…恥ずかしいんだけど…」
「やべ、俺も超恥ずかしいんだけど…」
みんなの注意が逸れるまで、僕達は俯き黙り続けた…。