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パーフェクト・スカイ  作者: 野宮ハルト
11/25

第11話

海から吹いてくる潮風は湿り気を帯びていて、汗ばんだ肌にねっとりと絡み付いてくる。

拭い取ることの出来ない不快な感覚は、自分の中にあるもやもやとした気持を更に増殖させ、苛つく気持を言葉にして吐き出しても、鬱屈とした気分は晴れるどころか余計悪くなっていく。


『陸、やめて…お願い、もう帰って…』


凪砂の悲痛な叫びが耳から離れず、頭を振ってその声を追い出そうすれば、今度はあの顔が浮かんでくる。

泣き出しそうな顔で俺を見上げてきたあの顔が…。


…なんで簡単に引き下がってんだよ。

自分の不甲斐無さに腹が立った。


俺は、凪砂の笑顔を守るんじゃなかったのか?

あいつにあんな顔させない為に俺がいるんじゃなかったのか?



人見知りが激しくて大人しい性格だった凪砂は、七海くんの事故後塞ぎ込む様になり、波留さん達の離婚が成立してからは益々大人しく、そして内にこもる性格になってしまった。

凪砂本来の純粋で素直な性格はすっかり影を潜め、いつも嘘臭い笑顔を貼り付けながら、人の顔色を伺うようになってしまった。

それに…凪砂だけでなく、波留さんも変わった。



精彩を欠いた姿で、何かに憑かれた様に波を求める姿はどこか異様だった。

凪砂に対する異常なまでの無関心さと、常に付き纏う酒の臭い…。

度の過ぎた軽口も笑って流す波留さんだから、生意気な事も平気で言えたのに、さっきの波留さんは別人の様だった。


昨日の朝は、俺の軽口にバツの悪そうな顔をしながらも答えてくれたのに…。


「……」

妙な胸騒ぎを覚え、凪砂の家に向かって走り出した。




「おまえに心配される覚えはないッ!」

海で鍛え上げられたパパの脚力は想像以上に強く、下腹に蹴りが入った瞬間息が詰まった。

「ぐッ」

蹴られた勢いで身体がフローリングの上を滑り、内臓がせり上がるような嫌な感じと共に、鈍い痛みが生まれた。

「パパ…?」


…何が起きたんだろう?

息が出来ない苦しさと、吐き気を催す痛みに、全身から脂汗が滲み出るのが分かった。


「おまえに何が分かるって言うんだ?」

充血した目をカッと見開きながら、酒臭い口元から激しい怒声と共に唾の飛沫が吐き出される。

「僕は…」

「智樹が死んで、七海が死んで、今度は璃子が俺の前から居なくなった。俺の大事なヤツはみんないなくなっちまう」


…智樹って誰?

もしかして、海で亡くなったっていう、パパの親友なのかな…。


そんな事を考える暇も与えられず、床に転がる僕のお腹目がけ、パパの脚が再び振り下ろされた。

「うぐッ!」

鳩尾に蹴りが入ると、肺の中の空気が一気に吐き出され、僕は酸素を求める魚のように喘いだ。

「失うくらいなら、最初から何も手に入れなきゃ良かったんだ!」

パパは僕の襟元を掴んで無理矢理身体を引き起こすと、握り締めた拳を顎に打ち込んできた。


骨のぶつかる鈍い音がすると、熱を持った痛みと共に、口の中に鉄の味が広った。

「おまえも、俺の前から居なくなるんだろ?」

一言発するたびに顔面を殴打され、意識がだんだん遠退いていく。


…この痛みは、パパの心の痛みなんだ。

僕は抵抗することなく、黙ってパパの痛みを受け止めることにした。

これでパパの痛みが取れるなら、僕はいつだって受け止めてあげる。


…だって僕は、パパが大好きだから…。




―――波留さん、何やってるんですかッ!―――

朦朧とする意識の中、陸の声が聞こえたような気がした。


こんな時に、都合のいい幻聴が聞こえるなんて…僕は何て弱いんだろう。

『少しは俺を頼って来い』なんて言ってくれたけど、これはパパと僕の問題なんだ。

僕とパパで乗り越えなきゃいけないことだから、陸には関係ない事なんだよ…。


バタバタと足音が響き、争う声と共に何かがぶつかり合い、壊れる音がした。

力なく横たわる僕の身体を、馴染みのある香りが包み込んでくれるのを感じた。


その香りに安堵を覚えると、僕の意識は深い闇の中へと落ちていった…。


◇  ◆  ◇


あの夏、あの海…。

担架に乗せられ、運ばれていく七海兄ちゃんの青白い顔…。

僕とパパの心はあの夏に縛られたまま、未だに先へ進む事が出来ないでいる。


『七海兄ちゃん…』

救いを求めるように名前を呼んでも、答えてはくれなかった。

僕の意識は悲しみを抱えたまま、深い闇の中へ沈んでいった。



目蓋の薄い皮膚を通して見える世界が明るさを増すと、灰色の世界をふわふわと漂っていた意識が徐々に浮上を始め、チュンチュンと忙しなく鳴き合う雀の声が、朝が来たことを教えてくれる。


…そろそろ起きないと。

横たえた身体を動かすと、熱を帯びた痛みの芽が生まれた。

一度生まれた痛みの芽はまるで、枯れ草に点けられた火の様に、あっという間に燃え広がり、焼け付くような痛みの根を植えつけて行く。

身体を動かそうとすれば、そこかしこが軋しんだ悲鳴を上げる。


…そうか…パパが。

断片的に浮かんでくる記憶を繋ぎ合わせていたら、誰かの冷たい指先が頬に触れ、熱を持った肌にその冷たさが心地良かった。

「ん…」

頬に触れていた指先が離れていくと、代わりに冷たく湿ったものが肌に貼り付けられた。

「う…」

冷たさに身動ぎすると、収まりかけた痛みの根がまた侵食を始める。


「口…開けろ」

心配そうな陸の声に促されて口を開けると、唇の隙間から錠剤の様なものを押し込まれた。

舌先に広がる苦味に眉を顰めると、やわらかく湿ったものに唇を塞がれ、薄く開いた唇の隙間から液体を流し込まれた。

「飲み込めるか?」

僕は返事をする代わりに、口の中にあるものをゆっくりと嚥下した。


「もっと…」

渇き過ぎていた喉は、水の潤いを知ると、もっともっと渇きが増した。

雛鳥のように口を開けて待っていると、喉の渇きが治まるまで、何度も水を与えてくれる。

「もう少し眠ってろ…」

喉の渇きが治まると、僕は再び深い眠りの中へ落ちていった…。



再び目を覚ますと、全身の痛みはかなり引いていて、朦朧としていた意識も大分はっきりしていた。

目を開けた先に見えたのは、白地に浮かぶ幾何学模様…自分の部屋の天井ではなかったけど、その模様から、ここがどこだかすぐに分かった。

…陸の部屋だ。

寝かされたベッドからは陸の香りがして、その香りを吸い込むたび、不思議と気持ちが落ち着いた。



「おッ、起きてたのか?」

片手にトレイを持った陸が、ドアをガチャリと開けて入ってきた。

「うん…」

「どうだ?具合は」

陸は手にしたトレイを机に置くと、ベッドの横に椅子を引き寄せ、腰を下ろした。

「少し痛い…かな…?」

「そうか…」

僕の言葉に陸は眉を顰めたけど、すぐにいつもの笑顔を浮べた。


「腹減ってないか?母ちゃんがお粥作ったんだけど…食えるか?」

あんまり減ってないけど…最後にご飯食べたのって…何時だっけ?

「う…ん」

とりあえず起き上がってみようとしたら、陸の手が僕をそっと制した。

「まだ痛いんだろ?俺が食わしてやるよ」

机の上にあったトレイを膝に乗せると、湯気を立てているお粥をスプーンで掬った。

「ほら、口開けろ」

スプーンのお粥をふうふうと吹いて冷ますと、僕の口元に差し出した。


「なんか…恥かしいんだけど」

僕の言葉に陸がふっと笑った。

「今更恥かしいも無いだろ?さっき水飲ましてやった時は平気だったくせに」


…水?

そういえば、お水も飲ませてもらったよね…でも…どうやって?


きょとんと首を傾げると、陸が苦笑した。

「何だ、気付いてなかったのか?あれ、口移しだったんだけど…」

「く…ち…?」

いくら朦朧としてたからって、口移しで飲ませるなんて・・・急に恥ずかしくなって、顔が真っ赤になるのが分かった。

「ばか、そこで赤くなるな。俺まで恥ずかしくなるだろ」

そう言って腕で隠す陸の顔も真っ赤になっていた。


「あー、もうッ!黙って食え」

無理矢理口に押し込まれたお粥は、甘くて温かくて、やさしい味がした。

「ん…」

ゆっくり飲み込んだ温もりが、じんわりと身体中に広がっていく。

「ほら」

口元に運ばれてくるお粥を待っていると、陸の指が僕の目元を拭った。

「悪い、そんなに熱かったのか?」


陸に言われて気が付いた…。

泣かないって決めたはずなのに…僕は無意識のうちに泣いていた。


「熱いっ!ちゃんと冷ましてよ」

バレバレの嘘を付きながら、僕は無理矢理笑って見せた。

「はいはい、仰せのままに凪砂姫」

「姫って言うなッ」


今だけ…もう少しだけ、陸の優しさに甘えさせてもらおう。

そしたらまた、いつもの僕に戻るんだ…。


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