第11話
海から吹いてくる潮風は湿り気を帯びていて、汗ばんだ肌にねっとりと絡み付いてくる。
拭い取ることの出来ない不快な感覚は、自分の中にあるもやもやとした気持を更に増殖させ、苛つく気持を言葉にして吐き出しても、鬱屈とした気分は晴れるどころか余計悪くなっていく。
『陸、やめて…お願い、もう帰って…』
凪砂の悲痛な叫びが耳から離れず、頭を振ってその声を追い出そうすれば、今度はあの顔が浮かんでくる。
泣き出しそうな顔で俺を見上げてきたあの顔が…。
…なんで簡単に引き下がってんだよ。
自分の不甲斐無さに腹が立った。
俺は、凪砂の笑顔を守るんじゃなかったのか?
あいつにあんな顔させない為に俺がいるんじゃなかったのか?
人見知りが激しくて大人しい性格だった凪砂は、七海くんの事故後塞ぎ込む様になり、波留さん達の離婚が成立してからは益々大人しく、そして内にこもる性格になってしまった。
凪砂本来の純粋で素直な性格はすっかり影を潜め、いつも嘘臭い笑顔を貼り付けながら、人の顔色を伺うようになってしまった。
それに…凪砂だけでなく、波留さんも変わった。
精彩を欠いた姿で、何かに憑かれた様に波を求める姿はどこか異様だった。
凪砂に対する異常なまでの無関心さと、常に付き纏う酒の臭い…。
度の過ぎた軽口も笑って流す波留さんだから、生意気な事も平気で言えたのに、さっきの波留さんは別人の様だった。
昨日の朝は、俺の軽口にバツの悪そうな顔をしながらも答えてくれたのに…。
「……」
妙な胸騒ぎを覚え、凪砂の家に向かって走り出した。
「おまえに心配される覚えはないッ!」
海で鍛え上げられたパパの脚力は想像以上に強く、下腹に蹴りが入った瞬間息が詰まった。
「ぐッ」
蹴られた勢いで身体がフローリングの上を滑り、内臓がせり上がるような嫌な感じと共に、鈍い痛みが生まれた。
「パパ…?」
…何が起きたんだろう?
息が出来ない苦しさと、吐き気を催す痛みに、全身から脂汗が滲み出るのが分かった。
「おまえに何が分かるって言うんだ?」
充血した目をカッと見開きながら、酒臭い口元から激しい怒声と共に唾の飛沫が吐き出される。
「僕は…」
「智樹が死んで、七海が死んで、今度は璃子が俺の前から居なくなった。俺の大事なヤツはみんないなくなっちまう」
…智樹って誰?
もしかして、海で亡くなったっていう、パパの親友なのかな…。
そんな事を考える暇も与えられず、床に転がる僕のお腹目がけ、パパの脚が再び振り下ろされた。
「うぐッ!」
鳩尾に蹴りが入ると、肺の中の空気が一気に吐き出され、僕は酸素を求める魚のように喘いだ。
「失うくらいなら、最初から何も手に入れなきゃ良かったんだ!」
パパは僕の襟元を掴んで無理矢理身体を引き起こすと、握り締めた拳を顎に打ち込んできた。
骨のぶつかる鈍い音がすると、熱を持った痛みと共に、口の中に鉄の味が広った。
「おまえも、俺の前から居なくなるんだろ?」
一言発するたびに顔面を殴打され、意識がだんだん遠退いていく。
…この痛みは、パパの心の痛みなんだ。
僕は抵抗することなく、黙ってパパの痛みを受け止めることにした。
これでパパの痛みが取れるなら、僕はいつだって受け止めてあげる。
…だって僕は、パパが大好きだから…。
―――波留さん、何やってるんですかッ!―――
朦朧とする意識の中、陸の声が聞こえたような気がした。
こんな時に、都合のいい幻聴が聞こえるなんて…僕は何て弱いんだろう。
『少しは俺を頼って来い』なんて言ってくれたけど、これはパパと僕の問題なんだ。
僕とパパで乗り越えなきゃいけないことだから、陸には関係ない事なんだよ…。
バタバタと足音が響き、争う声と共に何かがぶつかり合い、壊れる音がした。
力なく横たわる僕の身体を、馴染みのある香りが包み込んでくれるのを感じた。
その香りに安堵を覚えると、僕の意識は深い闇の中へと落ちていった…。
◇ ◆ ◇
あの夏、あの海…。
担架に乗せられ、運ばれていく七海兄ちゃんの青白い顔…。
僕とパパの心はあの夏に縛られたまま、未だに先へ進む事が出来ないでいる。
『七海兄ちゃん…』
救いを求めるように名前を呼んでも、答えてはくれなかった。
僕の意識は悲しみを抱えたまま、深い闇の中へ沈んでいった。
目蓋の薄い皮膚を通して見える世界が明るさを増すと、灰色の世界をふわふわと漂っていた意識が徐々に浮上を始め、チュンチュンと忙しなく鳴き合う雀の声が、朝が来たことを教えてくれる。
…そろそろ起きないと。
横たえた身体を動かすと、熱を帯びた痛みの芽が生まれた。
一度生まれた痛みの芽はまるで、枯れ草に点けられた火の様に、あっという間に燃え広がり、焼け付くような痛みの根を植えつけて行く。
身体を動かそうとすれば、そこかしこが軋しんだ悲鳴を上げる。
…そうか…パパが。
断片的に浮かんでくる記憶を繋ぎ合わせていたら、誰かの冷たい指先が頬に触れ、熱を持った肌にその冷たさが心地良かった。
「ん…」
頬に触れていた指先が離れていくと、代わりに冷たく湿ったものが肌に貼り付けられた。
「う…」
冷たさに身動ぎすると、収まりかけた痛みの根がまた侵食を始める。
「口…開けろ」
心配そうな陸の声に促されて口を開けると、唇の隙間から錠剤の様なものを押し込まれた。
舌先に広がる苦味に眉を顰めると、やわらかく湿ったものに唇を塞がれ、薄く開いた唇の隙間から液体を流し込まれた。
「飲み込めるか?」
僕は返事をする代わりに、口の中にあるものをゆっくりと嚥下した。
「もっと…」
渇き過ぎていた喉は、水の潤いを知ると、もっともっと渇きが増した。
雛鳥のように口を開けて待っていると、喉の渇きが治まるまで、何度も水を与えてくれる。
「もう少し眠ってろ…」
喉の渇きが治まると、僕は再び深い眠りの中へ落ちていった…。
再び目を覚ますと、全身の痛みはかなり引いていて、朦朧としていた意識も大分はっきりしていた。
目を開けた先に見えたのは、白地に浮かぶ幾何学模様…自分の部屋の天井ではなかったけど、その模様から、ここがどこだかすぐに分かった。
…陸の部屋だ。
寝かされたベッドからは陸の香りがして、その香りを吸い込むたび、不思議と気持ちが落ち着いた。
「おッ、起きてたのか?」
片手にトレイを持った陸が、ドアをガチャリと開けて入ってきた。
「うん…」
「どうだ?具合は」
陸は手にしたトレイを机に置くと、ベッドの横に椅子を引き寄せ、腰を下ろした。
「少し痛い…かな…?」
「そうか…」
僕の言葉に陸は眉を顰めたけど、すぐにいつもの笑顔を浮べた。
「腹減ってないか?母ちゃんがお粥作ったんだけど…食えるか?」
あんまり減ってないけど…最後にご飯食べたのって…何時だっけ?
「う…ん」
とりあえず起き上がってみようとしたら、陸の手が僕をそっと制した。
「まだ痛いんだろ?俺が食わしてやるよ」
机の上にあったトレイを膝に乗せると、湯気を立てているお粥をスプーンで掬った。
「ほら、口開けろ」
スプーンのお粥をふうふうと吹いて冷ますと、僕の口元に差し出した。
「なんか…恥かしいんだけど」
僕の言葉に陸がふっと笑った。
「今更恥かしいも無いだろ?さっき水飲ましてやった時は平気だったくせに」
…水?
そういえば、お水も飲ませてもらったよね…でも…どうやって?
きょとんと首を傾げると、陸が苦笑した。
「何だ、気付いてなかったのか?あれ、口移しだったんだけど…」
「く…ち…?」
いくら朦朧としてたからって、口移しで飲ませるなんて・・・急に恥ずかしくなって、顔が真っ赤になるのが分かった。
「ばか、そこで赤くなるな。俺まで恥ずかしくなるだろ」
そう言って腕で隠す陸の顔も真っ赤になっていた。
「あー、もうッ!黙って食え」
無理矢理口に押し込まれたお粥は、甘くて温かくて、やさしい味がした。
「ん…」
ゆっくり飲み込んだ温もりが、じんわりと身体中に広がっていく。
「ほら」
口元に運ばれてくるお粥を待っていると、陸の指が僕の目元を拭った。
「悪い、そんなに熱かったのか?」
陸に言われて気が付いた…。
泣かないって決めたはずなのに…僕は無意識のうちに泣いていた。
「熱いっ!ちゃんと冷ましてよ」
バレバレの嘘を付きながら、僕は無理矢理笑って見せた。
「はいはい、仰せのままに凪砂姫」
「姫って言うなッ」
今だけ…もう少しだけ、陸の優しさに甘えさせてもらおう。
そしたらまた、いつもの僕に戻るんだ…。




