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22 歴戦の指揮官

 モロッコの恐怖――フィンランド国防陸軍中尉、アリナ・エーヴァ・ユーティライネン。フランス外人部隊に五年間所属していた猛者であり、陸戦のプロフェッショナルである。

 モロッコの恐怖。あるいは、ただ「恐怖」とだけ呼ばれる彼女は第三四連隊第二大隊第六中隊の兵士たちをまとめる前線指揮官で、彼女を御すことができるのは第四軍団長のヨハン・ヴォルデマル・ハッグルンド少将だけとも言われていた。

 ちなみに師団長も、連隊長のこともアリナ・エーヴァは屁とも思っていないため、上官の言うことなど聞きはしない。たまに真面目に聞いていると思ったら、居眠りをしているか、自分に都合が良いときだけときたものだ。

 そんな彼女が大規模な戦闘集団を率いるのが苦手なことを、師団司令官スヴェンソン大佐も、連隊長ティッティネン中佐も知っていた。

 要するに、アリナ・エーヴァ・ユーティライネンという女性前線指揮官は、ごくごく小規模な戦闘集団をこそ率いるのに適任なのだった。彼女自身の声が届かなくなるような規模の戦闘集団を率いるのはとてもではないが手に負えなくなる。

 もっとも、この”奇特な”女性士官はこれといって昇進を強く望むような気質でもなかったからそれはそれで幸いした。

「あの小娘は自分が楽しければそれでいいんだ」

 天下のモロッコの恐怖を小娘呼ばわりするのは、ハッグルンドで、そんな将軍に憮然とした瞳を返すのは「問題児の小娘」を指揮下に持つ第十二師団司令官アンテロ・スヴェンソン大佐と、第三四歩兵連隊長ヴィッレ・ティッティネン中佐だ。

 確かに彼女個人としての強さはさることながら、その部隊はよくまとまっており隣接する第五中隊と共に激戦区となっている陣地をよく守っている。

 時には突出した行動をとって先手を打ち、赤軍部隊を壊滅させることもあった。

 どんな戦いでも、アリナ・エーヴァの指揮する第六中隊は勇猛果敢な戦闘を演じきった。まるで、とヨハン・ヴォルデマル・ハッグルンドは思う。

 それは自由の女神に率いられた革命軍のようでもある、と。

 彼女の指揮する部隊は、アリナ・エーヴァ自身と同じように恐ろしく強い。

「小娘、ですか」

 そんなアリナ・エーヴァ・ユーティライネンを「小娘」と言ってしまえるハッグルンドは確かに大したものだった。

「小娘だろう。あれはどうにも落ち着きが足りん」

 ばっさりと、部下の中隊長を評価するハッグルンドにティッティネンが肩をすくめてみせた。

「しかし、なんでもない顔をして命令違反も軍規違反もするのは余り良い傾向とは思えませんな。将軍」

「……確かに褒められるものじゃないが」

 そこでいったん、ハッグルンドは言葉を切った。

「あれはあれでいい。好き勝手にやっていた方が、こちらの損害も小さくてすむ」

 いろいろな意味で。

 そう付け加えた第四軍団長に、ティッティネンが溜め息をつきながら肩を落とした。

 確かにアリナ・エーヴァは好き勝手にやっていた方が味方の損害は軽微ですむ。

「ですが、ハールトマンが参ってました」

「……第二大隊のハールトマン少佐、か」

「そうです」

 カール・マグヌス・グンナス・エーミル・フォン・ハールトマン。

 階級は少佐だ。

 いろいろな意味で賑やかしい男だったが、そんなフォン・ハールトマンが参る原因を作り出しているのが第六中隊長のアリナ・エーヴァ・ユーティライネンだ。

 ちなみにあまりの破天荒振りに、彼は早々にアリナ・エーヴァを御すことなど諦めた。

 多くの戦場を渡り歩き、フィンランド独立の際の戦いや、スペイン内乱で数多くの経験をしてきたという自負があったにもかかわらず、モロッコでの植民地戦争で従軍した第六中隊長、アリナ・エーヴァ・ユーティライネンのような士官に、フォン・ハールトマンは出会ったことなど今までなかったと言ってもいいかもしれない。

「だが、奴らは同じ穴の(むじな)だろう? ハールトマンだからこそ、ユーティライネンを扱える」

 アリナ・エーヴァとフォン・ハールトマンはよく似ている、とハッグルンドは思った。

「その辺の規律に縛られた士官では、あの小娘を扱いきれんだろうからな」

「……――」

 確かに、ハッグルンドの言葉は至言だった。

 彼女のような破天荒な人間を扱うのは、上官も破天荒でなければつきあいきれない。アリナ・エーヴァと大隊長の男は言ってみれば「似たもの同士」だ。

 だからこそ、彼は、アリナ・エーヴァを異なる意味で手のひらで転がすことができるのではないか、と思ったのだが……。

「しかし、あのハールトマンが参っていたか」

 ハッグルンドが喉の奥で苦く笑う。

 もっとも、笑っていられるほど状況は甘くはない。

「第十二師団の損害も馬鹿にならんな……」

 そんな戦況で、アリナ・エーヴァを含めた前線指揮官たちはよく戦線を維持している。先日の第六中隊の防衛線に対して、赤軍の攻勢が行われた。

 たまたま、上空を通過した第二四戦闘機隊の機関銃掃射による掩護によって大きな損害を受けずに済んだ第六中隊ではあったが、アリナの報告によると約二個分隊もの損害を受けている。

 報告書の終わりで「とっとと補充を寄越せ、間抜け」と罵倒が書き込まれていた以外は、比較的まともな報告ではあった。最後の一行が余計なのだ、とハッグルンドは思うが、それでも彼女の部隊になるべく早く補充部隊をあてがわなければコッラーの戦線はひどい損害を被るだろう。

 部隊をとりまとめる司令官たちは一様にそれを理解していた。

 しかし、わかっていてもどうにもならないことが多すぎる。

 フィンランド軍の消耗率は日に日に大きくなるばかりだ。

「しかし、余剰兵力などどこにあるんです」

 ティッティネンの言葉に、師団長のアンテロ・スヴェンソンがうなり声を上げた。

「……全くだ」

 余剰兵力などない。

 現状、国防軍総司令部から補充部隊が移動してこない限り、彼女の部隊には現状戦力で戦ってもらう以外ないのである。

「アリナは生意気な小娘だが、自分がしなければならんことはよくわかっている」

 生意気な小娘、という言葉に力を込めたハッグルンドに、二人の部下たち――スヴェンソンとティッティネンは眉をひそめてから頷いた。

 確かにその通りで、アリナ・エーヴァは好き勝手に発言をして、司令部の命令などどこ吹く風と言った様子だが、それでも尚、彼女はよく戦っていた。

「あれは、戦闘の要点はよく押さえている」

 そう。

 アリナ・エーヴァ・ユーティライネンは、確かに守らねばならない一点を。そして、攻め込まなければならない要所を、さらに退却のタイミングと言った判断を誤らない。

 兵士たちからしてみれば素晴らしい前線指揮官だった。

「だからこそ、兵士たちは”あれ”についていくんだ」

 買いかぶりではない。

 彼女が銃をかざし、前を見つめるからこそ、兵士たちがついていく。

「……悪ガキだ」

 そう呟いてティッティネンが目を細めた。

 フォン・ハールトマンも、アリナ・エーヴァ・ユーティライネンも同じ悪ガキ同士で気が合うだろう。

「ところで、悪ガキと言えば……」

 ふと思い出したようにつぶやいたアンテロ・スヴェンソンにハッグルンドが視線を向ける。

「ユーティライネンの弟が空軍にいますが、彼はなかなかどうして腕の良いパイロットだそうで、あの姉の弟とは思えません」

「確か、第二四戦隊でフォッケルを飛ばしているらしいな」

 第二四戦隊と言えば、フィンランド空軍の中でもエリート部隊と名高い戦闘機隊だ。

 彼らの飛行技術は突出しており、いずれ彼らはエースパイロットになるだろうと囁かれてもいた。

 もっとも今のところ、彼らは地獄の果てから襲来するようなソ連軍爆撃機に対して今のところ有効な反撃手段を持っているわけでもない。

 小規模のフィンランド空軍に対して、ソ連空軍の攻撃機の数が多すぎるのが問題だった。

 叩いても叩いても終わりが見えない。

「昨年の終わりに、ユーティライネンの弟は昇進したらしいですよ」

「姉のほうは相変わらずだがな」

 スヴェンソンとハッグルンドの会話を聞きながら、ティッティネンはふと部下であるアリナのことを思う。

 彼女は人の言うことなどまともに聞かないが良い指揮官だ。

 大隊長のハールトマンが早々に彼女を御すことを諦めたため、ティッティネンが口うるさくなるわけだが、それすらも彼女にとってはどうでもいいことらしい。

 一応、大雑把な命令はそれなりに聞いているようだが相変わらず彼女は勝手に判断して勝手に行動している。軍人としてそれはどうなのかともティッティネンは思うが、アリナにそれを告げたところで態度は変わらないだろう。

「ティッティネン中佐、あの小娘には補充はなんとか工面するからそれまでの間はなんとか自力で持ちこたえろと言っておけ」

 ハッグルンドの言葉に丁寧に返事をしながら頷いた。

 どちらにしたところで、ソ連軍の動向が気にかかる。彼らはなにかを画策しているのではないかと思われた。

「そういえば、イワンの第八軍を囲むモッティでだいぶ奴らを押さえ込んでいますが、奴らの暗号を解読した結果、ソ連大本営(スタフカ)に増援を要請したらしいと……」

 スヴェンソンが話題を戻すと、ハッグルンドがしかめ面をした。

「それが当面の問題だな。アカの増援が来る前に現状保持しているモッティを始末しておかないと阿鼻叫喚の地獄だろうからな」

 情報では、四個師団が第八軍の救出のために向かっているとのことだった。

 四個師団――八万人もの大部隊だ。

 少数の軍団しか持たないフィンランド国防軍にとっては目眩がするような数字である。

「レメッティの包囲陣モッティとキティラのモッティをなんとかしないとならんな」

 そのためにも、コッラーの防衛線には無理を強いる結果になる。

 彼らの務めは、増援部隊を食い止めることだ。

「……東レメッティのモッティは確かアカの第十八狙撃師団でしたか」

 この東レメッティの第包囲陣は、第十八狙撃師団長コンドラシェフ少将と、第三四戦車旅団長コンドラチェフ少将の二人が閉じ込められていることもあり、フィンランド軍内からは「将軍包囲陣(モッティ)」と呼ばれている。

 この将軍包囲陣よりも西にあるもう一つの包囲陣は、約一個連隊がまるまる包囲されていたため「連隊包囲陣(モッティ)」と呼ばれる。

 東レメッティにしても、西レメッティにしても状況が厳しい事には変わりがない。

 さらにレメッティの更に南のキティラでは一個師団がまるまる包囲されている。

「増援が到着する前に、奴らを始末するぞ」

「……はっ」

 ハッグルンドの言葉に、スヴェンソンが敬礼をした。

「第十三師団のスネルマン少将にはモッティを潰すために気張ってもらう」

 第四軍団第十三師団を指揮するのはアールネ・スネルマン少将だった。

 堅実な戦略家である。

 泥沼の戦場。

 これからどうなるのか。

 彼らにはまだなにも見えてはいない。

「第十二師団にはまだ敵の矢面に立ってもらわなければならん。困難な任務になると思うがよろしく頼む」

「承知しました」

 そもそも最初から困難な任務であることはわかりきっているのだ。

「ユーティライネンは狂喜すると思いますがね」

 ティッティネンの言葉に、常に熾烈な戦場を求めている彼女を思い浮かべた司令官たちはそうして大きな溜め息をつくのだった。




  *

「やかましい……っ!」

 叫んだアリナは相変わらず乱暴に無線電話の受話器をたたきつけてから、豪快な動作でロッキングチェアに沈み込んだ。

「どうしたんです? 姉さん(シス)

「……――アーッテラか」

 指揮テントの向こうに感じた気配と、その声にアリナ・エーヴァは不機嫌そうな声を上げた。

「入ります」

 副官のユホ・アーッテラが彼女のテントに入ると、仏頂面のままでアリナ・エーヴァがロッキングチェアに腰掛けたまま長い足をくみ上げて、胸の前で両手を組んでいる。

 その眼差しはなにかを切ってしまうのではないかと思えるほど鋭く、そして機嫌が悪くて、そんな彼女の瞳にアーッテラは一瞬の無言の後に首をすくめてみせる。

「あんまり戦場じゃないのに怒鳴らんでください」

「わかってるよ」

 あからさまに機嫌の悪そうな彼女に、しかし臆することもないのは彼がアリナ・エーヴァとのつきあいが長いせいもあるだろう。

 フン、と鼻を鳴らした彼女は組んでいた足をほどくと、どっかりとブーツの踵を鳴らしながら床を蹴る。そうして、やはり胸の前で組んでいた両腕をほどいてから、膝の上に手のひらをついた。

「それで、どうしたんです?」

「……第十三師団――スネルマン少将のところで、レメッティのモッティ狩りをやるそうだ。補充の要望を出してるんだけど、しばらくは現状戦力でなんとかしろだとさ」

「……ってことは、通信相手は連隊長ですか?」

「そう」

 眉間に皺を寄せて考え込んでいる彼女は、鋭く舌打ちを鳴らして青い瞳をきつく輝かせた。

 二個分隊が被害を受けて動けないということは、アリナ・エーヴァの持ち駒は実質二個小隊と一個分隊ということになる。

「どうせ、ハールトマンのアホのところが余剰兵力を持ってるだろうから、そっちの大隊司令部の直属部隊を寄越せと言ったら、中佐が切れやがった」

「それで、やかましい、ですか……」

 だいたいどこの中隊長が、連隊長相手に罵倒するものだろう。

 このままでは自分の昇進も危ういのではなかろうか、と、そんな余分な心配をしながら、ユホ・アーッテラは深々と溜め息をついた。

姉さん(シス)、俺たちはどこまでも姉さんについていくつもりですが、あんまり司令部と喧嘩ばっかりせんでくださいよ。一応、これでも俺たちは姉さんが心配なんですから」

 あきれた顔で息をつく副官に、アリナは視線だけをやってから鼻先で笑う。

「そんなこと言ったって、あんたたちはわたしが死んだって悲しんだりしないでしょ?」

「……そりゃ。あなたが最前線で死んだのなら、勇猛な指揮官だったと悼むくらいで悲しんだりはしません」

「なんだ、冷たい男だね」

「……姉さん(シス)?」

 彼女の言葉にいちいち棘を感じる。

 そのことに彼女自身も気がついているのか、額に手をあててからテントの天井を見上げた。

「悪い、ちょっと気が立ってるようだから、サウナでも入ってくるよ」

 長い吐息をついたアリナ・エーヴァはそうしてふらりと簡易テーブルの上に置かれたククリナイフと短機関銃を取ると立ち上がった。

「了解しました」

 戦場での彼女は常に武器のたぐいを体の傍から離したりはしない。

 おそらく、サウナに入っているときに敵襲でもあれば素っ裸でも応戦するだろう。

 女らしさのかけらもないが、アリナ・エーヴァ・ユーティライネンは”それで”いいのだ。

 彼女の指揮下にいる部下たちは、アリナ・エーヴァに女性らしさなど求めていない。

 もっとも対象になる女性が自分の血縁か、恋人、もしくは妻であったならば別のなにかを考えることもあるだろうが、いかんせん「おそらくサウナに入っている最中に敵襲があったら裸でも応戦するだろう」と考えられる女性は、歴戦の陸戦要員であり、モロッコの恐怖と二つ名を持つ「英雄」だ。

「ユホちゃん」

 指揮テントを出た彼女が扉を開けて顔だけを覗かせて彼を呼ぶ。

「はい、なんでしょう?」

「……なにかあったらすぐに呼べ」

「わかりました。ですが、そのときはなんか着てくださいよ」

「コートくらい着るから心配いらない」

 素っ気なく応じたアリナはそうして、陣地の片隅に作られたサウナへと向かっていった。指揮テントを出たユホ・アーッテラはアリナ・エーヴァの背中を見つめながら、じっと片目をすがめてから手にしていた帽子を目深にかぶった。

「副長、姉さんはサウナですか?」

「あぁ、一緒に入ろうとか思うなよ。殴り殺されるからな」

 歩哨の兵士に声をかけられて、ユホ・アーッテラは視線だけで若い兵士を見つめた。

「……わかっています。姉さん、古傷を見られるのいやがりますからね」

 フィンランドでは、友情があれば男女の別なくサウナに入るという習慣がある。しかし、アリナはそれをひどくいやがった。

 陸戦の猛者らしく、彼女には例に漏れず全身に多くの傷跡がある。

 顔にないだけ奇跡的と言ってもいいだろう。

 しかし、そのごく近い場所。

 顎の下の首筋に大きな古傷が残っていた。

 時折、傷が寒さに疼くのか、アリナ・エーヴァがひどく不愉快そうな顔をしていることをユホ・アーッテラは知っている。

 彼女の部隊にいる男たちにも周知の事実で、誰も彼女がサウナに入っているときに近づくことはしない。

 女性でありながら大きな傷跡を多く体に残す。

 もしかしたら、恥じているのだろうか、とも思うことがある。

 そこまで考えて、ユホ・アーッテラは軽くかぶりを振った。

「いや、違うか」

 独白したアーッテラは唇の端で苦笑すると、不思議そうな表情を浮かべている歩哨に片手を振った。

「なんでもないから気にするな」

 おそらく、彼女は女性として体に傷があることを恥じているわけではない。

 一度だけ、ユホ・アーッテラがアリナの背中を見たことがあった。そのときは容赦なくぶん殴られたが、一瞬だけ見えた背中には無駄な筋肉はなく引き締まっていて、どこか大人のエロティシズムすら感じさせる背中だったことを覚えている。

 ただ、大きすぎる背中の傷がなければ、だが。

 その傷は恐ろしく古いもので、その傷を負ったときには命の危機にすら直面したのではないだろうか。そんな戦士として致命傷になるだろう傷を受けていて尚、彼女は最前線で勇猛果敢に戦い続けるのだ。

 おそらくは戦士でありながら、全身が”傷跡だらけであること”に対して恥じているのだろう。

 女性として、ではなく。

 傷を受けなければならなかった自分を恥じる。

 そういうことだ。

 彼女は、恐怖を感じることはないのだろうか……。

 ユホ・アーッテラはサウナの方向を見やったままで考えた。

 アリナ・エーヴァ・ユーティライネン。彼女は、今の今まで戦士として、兵士として無傷で戦い続けてきたわけではない。なによりも、戦うことによって傷を負うことを知っているからこそ戦い続けられた。

 命とは、それほど儚く散っていくのだと言うことを、彼女は知っている。

 何十人、何百人。

 彼女はその目に「人の死」を焼き付ける。

「……それはそう」

 ユホ・アーッテラはぽつりとつぶやいた。

アリナ・エーヴァ(あなた)は、誰よりも優しい……」

 囁くように独白したアーッテラの言葉は、凍えた風に乗ってやがて吹きすさぶ荒野に消えていく。

 誰よりも優しいのに、不器用で乱暴な振る舞いしかできずに、彼女は銃を握って戦い続ける。自分が戦うことが、誰かを守ることになるのだと。

 だから、彼女は上官にすら怒鳴りつけるのだ。

 自分の部下たちを守ろうとして。

 それからしばらくして、掩蔽壕(えんぺいごう)にいるアーッテラにアールニ・ハロネンが短機関銃を抱え血相を変えて走ってきた。

「少尉……っ!」

 今の第六中隊で「少尉」と言えばアーッテラしかいない。

「大変です!」

「どうした、イワンか!」

 咄嗟に体を起こしながら銃を取り上げたアーッテラに、ハロネンが呼吸を荒げたまま告げる。

「姉さんが倒れました」

 指揮官だって人間だ。

 時には前戦で倒れることだってある。

「……なんだってっ?」

 アリナ・エーヴァがサウナからなかなか出てこないことに不審を感じた部下の一人が、覗くとそこには温かい蒸気の中で倒れている上官がいたという。

 指揮テントに行くと、毛布で包まれたアリナがロッキングチェアの上で意識を失っていた。

「衛生兵を呼べ」

「もう呼んでいます」

 アーッテラの指示に、即答したハロネンは金髪のはりついているアリナの額に手をあてた。

 数日前から体調はだいぶよくなさそうではあった。

 そのうえ、ここしばらくソ連軍の攻勢は若干緩やかな傾向にあった。

 緊張感が途切れたことによって、負担が彼女の体を蝕んだのだろう。

 救急キットを抱えた軍医が指揮テントに走り込むのと、ほとんど時を同じくしてアリナ・エーヴァが目を覚ました。

「……診察します」

 言いながら救急キットを開いて毛布に手をかける軍医に、彼女は不意に大きく目を見開いて男の手首を強く掴みしめる。

「触るな」

 低く、脅すように彼女が告げる。

「わたしに、触るな」

 強い力で軍医の手を振り払った彼女は、両腕で自分の肩をかき抱くようにしながら目の前の男たちを睨み付ける。

「殺されたくなかったら、出て行け」

 静かな声色で、ゆっくりと言葉を綴るアリナ・エーヴァに投げ飛ばされる形になった軍医だけではなく、アーッテラもハロネンも唖然とした。

「……姉さん?」

「もう一度言う。殺されたくなかったら、出て行け」

 ぎろりと男たちを睨み付けた彼女の瞳に殺気を感じて、三人の男たちは動揺した。中隊長である彼女にこう言われてしまえば、指揮テントから出て行くしかない。

 そもそも、連隊長はもとより、師団長すら手に負えない狂犬のような女性を部下であるアーッテラやハロネン、そして軍医などが手に負えるはずがないのだ。

 彼女に威圧された男たちはやむなく引き下がって指揮テントを後にした。

「……疲れてるな、だいぶ」

 アリナ・エーヴァがだいぶ疲れている。

 それをユホ・アーッテラは感じた。もっとも、彼女があんなことを言ったのは、目の前にいたのが軍医と、古参の小隊長、そして副官だったからこその言葉であろう。

 兵士たちが相手ならば彼女はあそこまで威嚇はしない。

「どうします? 副長」

「あのまま放っておけば直るさ」

「……直らなかったら?」

 ハロネンがアーッテラを追求する。しかし、追求されるアーッテラもただ仕方なさそうに肩をすくめるだけだった。

「直らなかったらまたなにか方法を考えればいい」

 どちらにしろ、言葉通り半殺しにしかねないアリナの様子を見る限り、今のところ手のうちようがないというのがアーッテラの本音だった。

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