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21 アリナの本心

 フルネームはアリナ・エーヴァ・ユーティライネン。

 戦場では彼女を二通りの呼び方をされる。

 上官や、同階級の者たちのほとんどは、彼女を「ユーティライネン」というファミリーネームで呼ぶ。しかし、彼女の部下たちは「姉さん(シス)」もしくは「モロッコの恐怖」と呼んだ。

 もっとも本人は呼ばれ方などなんでもいいと思っている。

 なんでもいいと思っているから、自分に部下たちが敬意を払っていれば咎めることもしなかった。だが、それにしたところで上官や同階級たちの者には尊大で不遜な態度をとることが多かったから、正直なところ上官受けが良いとは言い難い。

 だからこそ、第四軍団長であるヨハン・ヴォルデマル・ハッグルンドはアリナ・エーヴァ・ユーティライネンを指して「問題児」と言うのだが、そんな評価を受けたところでいつもの如くどこ吹く風といった様子でにやにやと笑うだけだ。

 赤軍の大攻勢が始まるだろうというアリナ・エーヴァの仮定が現実のものとなれば、兵士の補充もままならない現状では戦況はより過酷なものになるだろう。

 アリナ・エーヴァは「必ずやコッラーを守り抜いてみせる」と言った。どんな犠牲を払ったとしても、彼女が前を見つめ続ける限りは、彼女の部下たちは強い力で引っ張り続ける彼女にどこまでもついていく。

「戦争は、好きだよ」

 アリナ・エーヴァは独白するようにつぶやくと、彼女の隣に立って森の奥を見つめていた小隊長のひとり、アールニ・ハロネンは振り返る。

「……はい?」

「わたしは戦争が好きなんだよ」

「物騒ですな」

「好きじゃなかったら、どこの馬鹿がわざわざフランスくんだりまで行って戦争なんてするもんか」

 鼻で笑ったアリナ・エーヴァにハロネンは肩の上にライフルを担ぎながら、赤軍のひそんでいるだろう森の奥をみつめている。

姉さん(シス)の台詞は、俺にはどこまでが本心なのか計りかねますな」

 彼女の瞳はいつもどこか真剣味を帯びている。

 だからこそ、アリナ・エーヴァの本心を計りかねて多くの者が彼女に騙された。

「でも、俺たちはそんな姉さんだからついていくんです。姉さんがいつも落ち着いていて、俺たちを引きずっていってくれるから戦える」

「なーんか、さ。アーッテラにも似たようなこと言われたけど、ちょっと買いかぶりすぎなんじゃないの?」

 自分は普通の人間だ。

 言いながら首を傾げた彼女は、アールニ・ハロネンの長身に寄りかかると目を閉じた。

 静かな、戦場とは思えない穏やかな時間。

 けれども、アリナ・エーヴァはそんなものを望んではいない。

姉さん(シス)……?」

 アールニ・ハロネンの肩に寄りかかっているアリナ・エーヴァが静かに寝息をたてて眠り込んでいた。

 前線指揮官である彼女は、兵士である彼ら以上の心労を常に抱えている。そんなアリナに肩を貸したまま、アールニ・ハロネンは小さな吐息をつくと肩に担いでいたライフルをおろしてからコートのポケットに手を突っ込んだ。

 タバコとマッチを探る。

 いつも中隊の運営に頭を悩ませているだろうアリナ・エーヴァ・ユーティライネンという女性将校。

 彼女の部隊に配属が決まったとき、彼らは「モロッコの恐怖」と共に戦争を最後まで戦い抜くことを誓ったのだ。彼女の手足としてなら、どんなに悲惨な状況をも戦い抜けると部隊の兵士たちは誰もが信じていた。

「あなたは、非情なことを口にするが、それでも俺たちのことを道具だなどとは思っていない……」

 口で語る言葉と彼女の思いが裏腹であることをハロネンは知っている。

 長い腕を伸ばして眠るアリナの体を支えてやると、ハロネンは暖かな日差しの降り注ぐ中、放置されたそりの上に座り込んだ。

 眠っている彼女はとても百戦錬磨の戦士には見えない。

 がたいは良いが、それまでで少しだけ疲れた表情を垣間見せる。

 そんな中隊長のアリナ・エーヴァ・ユーティライネン中尉と、小隊長のアールニ・ハロネン准尉の背中に兵士たちは視線を送るだけで決して傍に寄りつこうとはしなかった。

 彼らが誰よりも戦場(そこ)にいてほしいと願うアリナ・エーヴァが眠っているのだ。だから、誰も息を詰めて彼女の眠りを妨げない。

 彼女に旗を掲げ続けてほしいと思うからこそ、彼らは静寂を提供した。そんな兵士たちの気遣いを知ってか知らずかアリナはハロネンに寄りかかったままで眠っていた。

 タバコの一本を吸い終わったら起こせばいいかと考えて、アールニ・ハロネンは片目を細めると苦笑した。


 翌朝、まだ日が昇りもしない中、第五中隊から寄越されたそりが到着した。

「気をつけて行って来い」

 シモ・ヘイヘ兵長の肩を軽くたたいたアリナ・エーヴァはそりを操る第五中隊の兵士に視線をやった。

「本当ならもっとちゃんとした増援をだしてやりたいところなんだが、第六中隊(うち)も状況が状況でね。……トイヴィアイネン中尉には申し訳ないが、ヘイヘ兵長のことをよろしく頼む、と伝えてほしい」

 固い表情の第五中隊の兵士は、アリナの真面目な眼差しを受けて鋭く敬礼を返す。

「はっ」

 アリナ・エーヴァ・ユーティライネンと、第五中隊の中隊長であるトイヴィアイネン中尉はウマが合わないが、それでも、現実的な危機に晒されている彼らをからかうほど、アリナ・エーヴァは常識知らずではない。

「わたしの前でそんな堅苦しくしないで良い」

 自信に満ちた笑みをたたえるアリナは、シモ・ヘイヘにそうしたように、第五中隊の兵士の肩を軽くたたいてわずかに首をかしげた。

「アーッテラ、タバコを寄越せ」

「どうぞ」

 アリナの意図に気がついて数本のタバコを差しだしたユホ・アーッテラは男と比べればずっと細い指がそれを取り上げるのを見つめる。

「持って行け」

 第五中隊と第六中隊の陣地の間は非常に危険が伴う場所だ。

 そこを彼らは抜けなければならないのだ。

 そりを操らなければならない彼の緊張は尋常ではない。それをアリナは察していた。なによりも、彼は自分の命だけではない。

 第六中隊の最高の狙撃手であるシモ・ヘイヘの命ばかりか、第五中隊の兵士たちの命をも握っている。

「がちがちに緊張するとろくなことがないぞ」

 もしも万が一、自分がシモ・ヘイヘを連れて第五中隊の陣地に戻れなければ、第五中隊は圧倒的な赤軍の射撃の前に崩壊するだろう。

 そりをひく彼が、百名ほどの人間の命を握っているのだ。

「おまえは、自分ができることをやればいいんだ」

 長い腕を伸ばして、兵士の青年の頭を軽くかき回してほほえんだ。

 まるで年若い弟を諭すようなアリナ・エーヴァの瞳に、シモ・ヘイヘを送り出すために集まった第六中隊の隊員たちが目を奪われる。

姉さん(シス)、あんまり若いのを悩殺しちゃだめですよ」

「こんなおばさんに誰が悩殺なんかされるんだよ」

 からからと明るい笑い声を上げたアリナは、ややしてから滑り出したそりを見送って白い息を吐き出した。

 時刻は午前一時。

 朝にはやや早すぎる。

 アリナ・エーヴァはぶるりと肩を震わせてから自分の指揮テントへと足を向けた。

「もう少し寝る」

「了解」

 アリナの背中を見送ってから、アールニ・ハロネンは副官のユホ・アーッテラになにげない会話でもするように切り出した。

「そういえば、少尉」

「どうした?」

姉さん(シス)、ちょっと体調を崩しているかもしれません」

 すでに過酷な戦闘が続くようになってから二ヶ月近い日々が続いている。男たちと同じように、激しい戦闘をこなし、誰よりも率先して部隊の先にたつ彼女はそれなりに体力を消耗していたとしてもなんらおかしなことではない。

「……そうか」

 口元を手袋をした片手で覆ったままくぐもった声をあげたユホ・アーッテラは、眉をひそめたままで指揮テントを見つめる。

「そうかって……、いいんですか?」

 指揮官のアリナ・エーヴァが体調を崩しているとしたら、それは大問題だ。

 しかし、副官のユホ・アーッテラは言葉少なにハロネンに相づちを打つだけだ。

「そう言われてもな、俺たちが心配したところで素直に言うことを聞いてくれる人じゃないのはわかってるだろう?」

 どうせ、心配しても冗談ではぐらかされるだけだ。

「しかし、副長」

「あとでそれとなく聞いておく。それでいいか?」

「……頼みます」

「でも、なんでそう思ったんだ?」

「昨日の昼間、姉さんが寝てたんですよ。それで、そう思ったんです」

 アリナ・エーヴァが夜間以外に眠っている所など見たことがない。そのうえ、彼女がハロネンに寄りかかって眠っている時に、感じたアリナの体温は少しだけ高いように感じられた。

 実際のところ、彼女に触れたわけではないが、それらを総合して判断した結果もしかしたら体調を悪化させているのではないかと、ハロネンは考えたのだ。

 ハロネンの言葉に片目を細めたアーッテラはもう一度「わかった」とつぶやいた。



  *

 第五中隊の危機を乗り切るためにシモ・ヘイヘを送り出した。

 アリナ・エーヴァは指揮テント内でユホ・アーッテラの持ち込んだ新聞を眺めて小首を傾げる。

 ソビエト連邦がフィンランド共和国スオメン・タサヴァルタの戦い方に対して新聞上で批難をしたらしい。自分達のことを棚に上げてよく言うものだと、アリナはあきれかえるが、もっとも、ソビエト連邦が呆れるような方法をとるのは今に始まったことではない。

 先のポーランド戦の際や、バルト三国に対する恫喝についても、方法こそ違えど似たようなものだ。

 フィンランドの人口は三七〇万人。

 対するソビエト連邦は二億人近かったのではなかったか。

 広い国土を持ち、資源もある。なににも不自由しない自立国家。

 けれどもそのソビエト連邦はゆっくりと、しかし確実にその勢力を広げつつある。ソビエト連邦のそんな姿勢そのものはどうでもいいことだが、隣国にははた迷惑なことで、アリナ・エーヴァは憮然としたままで金色の前髪を指先でいじった。

 強欲なこと極まりない。

 そもそも強欲だ、という単純な言葉ですむようなものでもない。

 おそらく、とアリナは状況を分析する。

 先頃行われたらしい大粛正――という名の虐殺――は、ヨシフ・スターリンの歪んだ性格が感じさせられた。おそらく、彼は自分の権力を奪われるかも知れないという事態を恐れての行為だったのだろう。

 その恐怖はやがて大きな刃となって、疑心暗鬼の元にスターリンの周りに振りおろされた。

 問題は、ヨシフ・スターリンの取り巻きだ。独裁者に媚びへつらい、機嫌さえとっていれば自分達は殺されることもないし、多少の問題を起こしたところでお目こぼしがもらえる。

 そうなれば、独裁者の悪行をとがめ立てする者はいなくなるだろう。自分が楽をして楽しく生きていく事ができれば、他人のことなどどうでもよくなるという、どうしようもない人種が存在している。

 人というのは愚かなものだ、とアリナは思った。

「……自分よりも弱い相手を、自分以外の強い者の力を借りなければ殺せないような奴なんて器が小さいにも程がある」

 ぼそりとつぶやいた彼女は目を細めてから新聞を睨み付けた。

 ソビエト連邦の暗殺事件発生を聞いたのは、まだ彼女がフランス外人部隊に所属していたときだったか。部隊のほかの兵士たちは、自分たちには遠い世界でしかないソビエト連邦のやることなど興味もないと言った様子で歯牙にもかけなかったことを思い出した。

 彼女が事件の発生を聞いたときにいい知れない危機感を抱いたのはその出身国故だったのだろうか。

 そんなことをアリナ・エーヴァが考えていると不意に電話が鳴った。

「ユーティライネン」

 受話器を上げながら名乗った彼女の耳に聞こえてきたのは男の声だ。

 第五中隊の中隊長――トイヴィアイネン中尉である。

「無事についたか。良かったよ」

 彼の陣地にヘイヘが到着したという報告を聞いてほっと胸をなで下ろした彼女は金色の巻き毛をかき上げると二言三言、短い会話を交わして通話を終える。

通信終わり(ロッポン)

 電話を終えてアリナは新聞を顔の上に広げたままロッキングチェアに深く体を沈めると目を閉じた。

 何事か起これば部下たちが起こすだろう。

 わずかなけだるさを感じながら彼女は深い眠りの奥へと飲み込まれていった。

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