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19 終わらない犠牲

 無線電話の受話器を耳に押しつけたアリナ・エーヴァは首を傾げながら間の抜けた声を上げた。

「……はぁ?」

 隣の陣地を守るトイヴィアイネン中尉から電話が入ったのはその日の夜明けに近い時間だ。もちろん、当たり前のようにすでに目を覚ましていたアリナは両目をすがめるようにしてテントの壁を見つめる。

「つまり、イワンの射撃統制所が邪魔だから、シムナを貸せばいいってこと?」

 戦場に立っていない時のアリナ・エーヴァは、戦闘に参加している時とではだいぶ印象が違う。

 金色のショートカットを揺らしながらアリナは中空を睨み付けて、顎に指をあてて考え込むと低くうなる。

 戦況が悪化している状況で、ヘイヘを貸すことに渋るのは当たり前のことだ。即決というわけにはいかない。

「……トイヴィアイネン」

 長い溜め息をつきながら、彼女は前髪をかき上げて眉間を寄せる。

 見殺しにしたいわけではない。

 第五中隊もアリナ・エーヴァの指揮する第六中隊と同じで、フィンランド(スオミ)のために激戦を繰り広げているのだ。

 受話器を耳に当てている右手とは逆の手で自分の脇腹に手を回した彼女は男の名前を呼んでから長い沈黙を挟み込む。

「わかったよ」

 溜め息混じりに応じた彼女に、生真面目な男はアリナに礼を述べる。

 なにせ、アリナ・エーヴァ・ユーティライネンの第六中隊も数日前の赤軍の攻撃で大きな犠牲を出した。

 中隊の隊員が二十名近くの犠牲者を出したということは余りにも大きすぎる損失だ。それをわかっていて、第五中隊の中隊長トイヴィアイネン中尉は彼女に助力を要請したのだ。

 できることならば、厳しい状況にある第六中隊に助力を乞うことなどしたくなかった、というのが、トイヴィアイネンの本音であるということはアリナにもわかっている。

 やれやれと受話器を置いた彼女は、テントをでると大きく伸びをした。

 近くに立っている歩哨の兵士を呼びつける。

 相変わらず薄汚れたコートを身につけているが、彼女のそんな様子を誰も気にしたりはしない。

 男たちが従っているのは、美しく着飾った貴婦人ではない。鋭い眼差しを放つ煤と土塊にまみれた前線指揮官だ。

「シムナを呼んできてくれ」

「……はっ」

 返事をしてから、歩哨の兵士は少しだけ困ったように首を傾けた。

「しかし、小官は見張りが……」

「いいよ、その間くらいわたしが見ててあげるから」

 そう言いながらひらひらと手を振って、部下の兵士を追い払うように肩をすくめた。

「はっ」

 上官にその場を離れる許可をもらった兵士が雪を踏みながら、掩蔽壕(えんぺいごう)へと駆けていくのを見つめてから、アリナは白い息を吐き出した。

 テントの外は零下四十度の世界だ。

 全てが凍り付く。

 ――問題は。

 アリナ・エーヴァはぶるりと肩を震わせてから考え込んだ。

 問題は、ソ連軍が冬期の戦闘で焦りを見せ始めたことだ。その焦りは明らかな物量となって現れている。

 先月、獅子奮迅の戦いを見せつけたフィンランド国防軍に対して、ソビエト連邦は異常とも思える人海戦術を展開してきた。たたいてもたたいても途切れることのない人の波。

 アリナが先月、宣言したようにフィンランド軍はじわじわと消耗戦に引きずり込まれる形になっていった。

 彼女自身が「モロッコの恐怖」と呼ばれる英雄であるとは言え、手駒が削られては作戦を遂行することもままならない。

 寒さの中で彼女は舌打ちを鳴らした。

姉さん(シス)、どうしたんです?」

 シモ・ヘイヘの声に彼女は首を回して上背の低い男を見やる。

「腹は満たしたか?」

「はい、もう済んでいます」

「そうか、なら結構」

 言いながら、歩哨の兵士と場所を変わった彼女は、自分のテントへと狙撃手の男を招き入れる。

「さっそく本題で悪いんだが、第五中隊が危険に晒されている」

「……はい」

 地図をテーブルに広げた彼女は、第五中隊が管轄する丘の上を指さしてからわずかに瞳孔を収縮させた。

 横顔を照らし出すランプの明かりに、シモ・ヘイヘは事態の深刻さを読み取った。

「第五中隊の陣地の真ん前にイワンの射撃統制所があって、トイヴィアイネンのところが激しい攻撃を受けているんだ」

「……つまり、射撃統制所をなんとかすればいい、ということですか?」

「そう」

「わかりました」

「明日の夜明けに、トイヴィアイネンが迎えのそりを寄越してくれるそうだから、準備を整えておいてほしい」

 アリナの言葉に、ヘイヘは顎に手をあててから無言のままひとつ頷いた。

 寡黙で真面目な狙撃手の男は、しかし、誰よりも信頼ができる。

 危機に陥った第五中隊が彼に助けを求めたことはなんらおかしなことではない。




 やがて夜が明けて降り注ぐ朝日に凍えた空気がゆるんでいった。

 夜が明けてもソ連軍の攻撃はない。いたって静かな朝だった。南東の空に煙が上がっているのは見えたが、おそらくカレリア方面か、ヴィープリ方面だろうことは予測できる。

 ラドガ湖北方面から見て、南西にはヴィープリがある。

 そしてその方面の基地にはフィンランド空軍の最新鋭の戦闘機隊――第二十四戦隊が拠点を構えている。そして、第二十四戦隊と言えば、アリナの弟であるエイノ・イルマリ・ユーティライネンが所属していた。

 そういえば、年内の戦功で彼――エイノ・イルマリは上級軍曹に昇進したらしい。さらにインモラの基地から、ソルタバラ付近のベルツィレ基地に移ったとのことだった。

 空軍の知り合いから耳にした噂話だが、昇進したのが事実なら、次に会ったときにどんな風にからかってやろうかとアリナは推理小説などを読みながら考えていた。

 そのときだ。

 爆撃機のエンジンが回る重い音に彼女は顔を上げた。

 飛んでいるのは一機だろうか。

 普通、爆撃機というのは三機編隊で作戦行動を行うはずだ。空戦技術の知識には疎いが、そんなことは軍人である彼女には一般常識である。

 推理小説のページを閉じながらひょっこりとテントから顔を出した彼女は頭上の空を見上げる。

 やはり一機だ。

 ドロドロといやな音を響かせながら、双発の爆撃機が一機だけ飛んでいく。

「……なんだ、あれは?」

 指揮テントの近くに立っている歩哨に声をかけると、青年も不審げな眼差しのまま空を見上げてから、アリナ・エーヴァを見つめ返した。

「爆撃の帰りかなんかでしょうか……?」

 彼が言い終わる前に、隣の第五中隊の陣地から対空砲の音が響いた。爆撃機に向けて対空砲火が行われているのだ。

 アリナはなにか予感を感じてテントの脇に立てかけられた自分のスキーを手に取ると、手早く装着してストックを手にした。

「……姉さん、どこへ?」

「ちょっと見てくる」

 丘から、防衛線がしかれていない農地の見える場所まで滑っていった彼女は、目に映る光景に眉を寄せた。

 そりを操る男の後ろに、ひとりの女性がカバンを抱えて乗っている。

 大きな荷物はおそらく急場しのぎの補給物資かなにかだろう。

 そのそりを追いかけるように爆撃機が飛んでいるのだ。

「遊んでるのか……」

 獲物を追い詰めて遊んでいる。

 その様子を見て取った彼女の背後にアールニ・ハロネンが近づいてきて無造作に機関短銃を手渡した。

「武器も持たないで行かないでください、姉さん」

 言いながら、アリナの視線を追いかけて爆撃機とそりを見つけると彼もくわえていたタバコを強く噛んだ。

(やっこ)さん、遊んでますね」

「ハロネンにもそう見えるか」

「えぇ」

 アリナたちの陣地に向かって滑るそりにソ連軍の爆撃機が発砲をはじめたのはそのときだった。

 さらに爆弾を投下する。

 小さなそりは翻弄されるように決死の覚悟で雪原を滑った。

「……っ」

 アリナ・エーヴァは舌打ちすると、スキーで一気に丘を滑り降りると無意味であることを知りつつ、爆撃機に向けて発砲する。

 連続する機関銃の発射音。

 爆撃機がアリナに注意を向ける。

姉さん(シス)!」

 ユホ・アーッテラの声だ。

 声をかけられる前からアリナは、そりを操る男がユホ・アーッテラであることに気がついていた。そして、爆撃機にそりが狙われていたから彼女は単身で陣地を飛び出したのである。

「行けー!」

 声の限りに叫ぶようにアーッテラに告げると、そりを走らせながら彼はちらちらと上官を見つめる。相変わらずハチャメチャだがやはり彼女はいざというときに頼りになった。

 そりとアリナに爆撃と射撃をくわえる爆撃機は、第六中隊の陣地に近づくにつれて対空砲火を受けその場を離れていく。

 おそらく、元々爆撃任務の帰りかなにかで、残弾数が少なかったというのもあったのだろう。たまたま見つけた小さな獲物相手に遊んでいたのだ。

 陣地にたどり着いたアーッテラとアリナは、荒い呼吸を繰り返してからそりの後部に顔を向けてから言葉を失った。

 分厚いコートを身につけた若い女性が、カバンを抱えたままでぐったりと体を折り曲げている。そして雪の上に点々と残るのは明るい鮮血の痕だった。

「アーッテラ……」

「偵察任務についていたロッタです……」

 爆弾の破片を受けたのだろう。

 首筋と腹からおびただしい血液を流している。一瞥しただけですぐにわかった。

 即死だった。

 ロッタ・スヴァルド協会に所属する女性補助員である彼女らは、ゲリラ兵などが跋扈(ばっこ)する戦場で伝令や補給、防空監視などの危険な任務に携わっていた。そして、そんなロッタ・スヴァルド協会に名前を連ねる女性達の一部は、敵の攻撃に晒されて殉職することもままあった。

「……丁重に、扱ってやれ」

 眉をしかめたままで彼女が呟くと、アリナはアーッテラの肩を軽くたたいた。

「よく戻ってきてくれた。もう大丈夫なのか?」

「はい、すっかり」

 そりに乗せられた補給物資を回収にきた兵士のひとりが、失血で力尽きた女性の体を抱き上げると陣地の奥へと運んでいった。

「……ロッタは、本当によくやってくれてる。あれが、わたしなら、こんなに恐ろしいところにひとりで来るなんてできやしない」

「そうですね……」

 彼女らは勇気ある女性だ。

 ロッタ・スヴァルドの女性達。

 アーッテラの後ろにいた彼女もまだ二十代だろう。いずれにしろ、命を落とすには早すぎる……。

 同国民の非力な女性の死を前に、茶化すような性格のアリナではない。数秒だけ黙祷した彼女は、そうして踵を返した。

「丁度うまい時に戻ってくれた。助かったよ」

 ほっとしたようにほほえんだ彼女に、アーッテラは踵を合わせて敬礼を返す。

「ユホ・アーッテラ少尉、ただいま戻りました」

「ご苦労」

 戦局は混乱している。

 軍病院から戻った彼の情報を聞くために、アリナは指揮テントへと彼を招くのだった。

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