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18 地獄の窯

「とにかく、こっちだって状況は何一つよくないんです! 状況報告なんぞのためにどうしてこのわたしが連隊司令部(そっち)まで出向かなくちゃならないんですか! だいたいですね、暇そうにこんなくっだらない電話をしてくる時間があったら、上にこっちの要望通す電話でもかけてたらどうなんですか!」

 言いたい放題言い放つと、アリナ・エーヴァは乱暴に無線電話の受話器をたたきつけた。相手はおそらく、アリナの直属の上司に当たるヴィッレ・ティッティネンだろう。

 テントの外にまで響く大音声に、アールニ・ハロネンは内心でティッティネンに同情しつつ指揮テント内のアリナに声をかけた。

「ハロネンです、部隊の状況報告と会議のため、小隊長三名参りました。よろしいですか?」

 彼女のこんな状況に慣れている副官ユホ・アーッテラ少尉であればとにかくとして、気が立っている中隊長のアリナ・エーヴァ・ユーティライネンになど余り近づきたくない、というのがハロネンの本音だった。

「入っていいよ」

 しかし、返ってきたのは思いの外穏やかな声で、アールニ・ハロネンは無意識に胸をなで下ろした。もっとも、アリナ・エーヴァは裏表の差が余りにも大きすぎる。

 そんな苛烈な彼女を戦場で支え、足りないところを補っていけるのは、先頃負傷して今は前線を離れているユホ・アーッテラだけだ。

「失礼します」

 薄汚れた顔のままで、アリナは明かりの下にちらと小隊長の下士官たちを見やった。それはまるでテントの外の凍てついた空気のような緊張感だ。

「被害報告を」

 短くアリナ・エーヴァが告げた。

「……はっ」

 ハロネンが敬礼する。

 普段は軽口こそたたくが、自分の仕事に対して冷静で実直な男だ。

「ハロネン隊、負傷二名、戦死一名。リーマタイネン隊、負傷二名、戦死六名。ヴァイニオンパー隊負傷四名、戦死三名。あわせて中隊の被害は負傷八名、戦死十名になります。尚、弾薬の消耗についてですが、ソ連軍(イワン)の武器弾薬を鹵獲(ろかく)しておりますので三割程度にとどまっており、今のところはまだなんとかやっていけるかと」

 負傷者八名、戦死者十名。

 アリナは口の中で繰り返す。

 それはつまるところ、現状、二個分隊が今回の迎撃で使い物にならなくなったと言うことだ。アリナ・エーヴァの瞳に再び厳しい光がちらついたのを見て取ったアールニ・ハロネンは思わず背筋を正す。

 リーマタイネンは曹長、ヴァイニオンパーが軍曹である。共に元は分隊長だったが、小隊長不在の穴を埋めるために、アリナ・エーヴァの鶴の一声で小隊長に格上げされた。もっとも、これについてアリナが本意なのかというと、そうではない。

 一ヶ月半にも及ぶ激戦に下士官、士官の補充もままならないためにやむを得ない処置だった。

「……姉さん?」

 現在、アーッテラがいない今、中隊をまとめている彼女が部隊唯一の士官だ。そんな彼女をハロネンが呼ぶ。

 ロッキングチェアをぎしりと音を鳴らして座り込んだアリナは、神経質な音をたてながら椅子を揺らしている。片手で表情を隠すように両目を覆ってから深々と吐息をついた。

 長い足を大きくくみ上げて、気持ちを落ち着けている。

「連隊長をどやしつけておいたから……」

 連隊長をどやしつけた。

 なんでもないことのように言った彼女は、ゆらゆらと椅子を揺らしながら目を開いて三人の下士官を見つめる。

「だから、人員の補充はあると思う。けど、たぶん兵士の補充になるだろう。士官、下士官の補充はないと思ってくれ。引き続きあんたたちには負担をかけることになるだろうが、よろしく頼む」

 彼女は言わないが、補充兵として動員されるのは志願兵だろう。

 どこまで役に立つのか知れたものではない。

 そんなことをハロネンが冷静に考えていると、アリナは床に脚をおろしてから膝の上に両方の肘をつくとまるで宝石のような青い瞳で三人の小隊長たちをじっと見つめた。

「姉さんは、コッラーを守りきれると、本気で思っているんですか?」

「それはわたしが聞きたい」

 即答した彼女の声は奇妙に感じられるほど冷静だった。

 各戦線は決死の迎撃態勢を敷いて、赤軍の侵攻を封じ込めている。

 一呼吸おいてから彼女はふわりと笑った。

「……おまえたちはコッラーを守る自信があるか?」

 緊迫した戦況が続く中での高揚感に、アリナが笑っている。

「……――」

 分隊長から昇格したばかりのリーマタイネン曹長とヴァイニオンパー軍曹は黙り込んだ。これが、副官のユホ・アーッテラならばアリナの求める答えを即答できるだろうが、彼らにはそんな技術があるわけがない。

「わかりません」

 長い沈黙の後に、アールニ・ハロネンは口を開いた。

「あそ」

 わざとらしい大きな溜め息をついてから彼女は、テーブルの端に置かれた推理小説のペーパーバックに視線をやってから目を細めると小首を傾げた。

 重苦しい沈黙に、ハロネンは内心で溜め息をつく思いだ。

 目の前の前線指揮官――アリナ・エーヴァ・ユーティライネンという女性にこんな顔をさせているのはユホ・アーッテラの不在なのだ。

 剛胆で不遜な彼女を、こうまでも不安定にさせている理由はなんだろう。

「……戦争って言うのはさ、外交手段のひとつなんだよ」

 唐突に彼女がそんなことを言い出した。

 姿勢を正したままで、ハロネンは彼女の静かな声に耳を傾ける。

 確かに、戦争というものは外交手段の一つだ。そんなことは考えれば子供にもわかることだ。

「わたしたちがこうして戦っている間にも、政府は打開策を探してる」

 そこまで呟いてから不愉快そうに目を細めてから舌打ちした。

 戦争を仕掛けてきたのはソビエト連邦だ。自国の独立を脅かされている今、国民たちはのうのうと傍観していることなどできはしない。

 フィンランドの全国民がまさに一丸となって戦っているのだ。

「けど、相手はあのソ連だ……。奴らの言ってることがはたして信頼できることなのかどうか」

 相手を信頼してもいいのかわからない。

「……姉さん(シス)

「アカの奴らは、フィンランド(スオミ)とは戦争をしているつもりはないそうだ」

 アリナ・エーヴァは、一介の中尉とは思えないほど博識な面を持っている。外人部隊にいた彼女はフランス語も堪能だ。時折、英語の書籍を読んでいることもあったから、少なくとも三カ国語を解すると言うことになる。

「……確か、亡命したクーシネンですか」

 思い出して口にした名前にさすがのアールニ・ハロネンも口調が苦々しいものになる。

 ソビエト連邦はフィンランドとは交戦関係にはない、と言っているが、彼らの言う「フィンランド」とは「フィンランド共和国スオメン・タサヴァルタ」ではなく、ソビエト連邦に亡命したオットー・ヴィッレ・クーシネンの率いる共産主義者たちは、ソビエト連邦にとっての傀儡政権を樹立した「フィンランド民主共和国」のことである。

 名前はよく似ているが、全く別個のものだ。

「あの共産党員は、アカになびくってことがどれほど危険なことかわかっていない」

 アリナ・エーヴァの静かな言葉は決して荒くはないが、語調の強さが彼女の忌々しげな気持ちを物語っている。

 このオットー・ヴィッレ・クーシネンは、先のフィンランドでの内戦を生き延びた男なのだが、彼の持っている信念に対して多くの者たちは疑問を持っていた。ちなみに、このフィンランド民主共和国の閣僚たちもフィンランドから亡命した共和主義者たちで構成されていた。

「ビラ配りも熱心ですしね」

 ハロネンが溜め息をつく。

 ソ連軍の爆撃機が毎度、彼らの頭上を飛来しては爆弾と共に宣伝ビラをばらまいていく。大概、資源の無駄ではないかとアリナらは思うが、その文面をみると失笑を禁じ得ない。

 クーシネンらは、政府を樹立するとすぐにソビエト連邦に対して「フィンランド民主共和国の敵」の排除のための助力を要請した。

 ソビエト連邦は、このフィンランド民主共和国政府を唯一の「フィンランド政府」であるとみなし、外交関係を結んでいたため彼らが言うところの「フィンランドとの交戦関係にはない」という弁がでるのだった。

 しかし、当のフィンランド共和国首脳陣及び全軍を束ねる元帥マンネルヘイムなどからしてみれば詭弁以外の何ものでもない。

 フィンランドの首都はヘルシンキであって、決してテリヨキではない。

 一九三九年十二月十四日付けで、罪もない小国フィンランドに侵略行為を行ったソビエト連邦は国際連盟から除名されたが、そんなことを意に介するようなソビエト連邦ではない。

 まさに、大国の傲慢だ。

 ラドガ湖北方の戦線を守っている彼らには他の戦線がどうなっているのかはわかりはしないが、少なくとも、ヘルシンキが陥落したとか、カレリア地峡が突破されたという情報は入ってきていない。そして、停戦命令も入らないということは、まだフィンランドが負けてはいないということだった。

 けれども、国家間の問題などどうでもいい。

 軍人であり兵士である彼らは、目の前に襲い来る敵兵たちを蹴散らすだけだ。どんな犠牲を払ったとしても。

 殺さなければ、殺される。

 自分の命を守るために彼らは戦う。

「俺たちは、どんな状況になっても、姉さんについていくだけです」

 どんなに戦況が悪化しても。

 どんなに犠牲が出て、戦友が死んだとしても。

 アリナ・エーヴァ・ユーティライネンという将校が「そこ」にいる限り、共に戦い続けると覚悟を決めた。

 そんな思いでヴァイニオンパーが告げると、アリナは喉を鳴らしてから笑った。

 彼女も多くのフィンランド人と同じく、オットー・ヴィッレ・クーシネンが率いるフィンランド民主共和国に対して面白くないものを感じているひとりである。

「どうせならクーシネンのじーさんが戦場に出てきてくれればいいのに」

 ぼやくようにつぶやいたアリナ・エーヴァはそうしてから、揺り椅子から立ち上がるとテーブルに両手をついた。

「ま、そんなことはどうでもいいや。あんたたちにはこれからも無理を言うことになると思うけどよろしく頼む」

 そうして、被害状況の報告を終えて、彼らは本題に入った。

 正直なところ、カレリア方面やスオムッサルミ方面がどうなっているのかもわからない。最前線の兵士らまでには他方面の戦況など伝わってくることはないのだ。それ故に「停戦命令も、敗戦報道もないから”きっと”無事に違いない」という曖昧な判断しかなかった。

 もっとも、前線指揮官の一人であるアリナ・エーヴァは大雑把な戦況の経過はある程度把握しているが、全てを知っているわけではないというのが実際の所だ。

「了解しました」

 アリナ・エーヴァ・ユーティライネンが弱気な顔をしない限りは、部隊の誰もが決して絶望などしない。

「……ところで姉さん(シス)、塹壕のイワンの死体の件ですが」

「うん?」

 ハロネンの言葉にアリナがかすかに眉をひそめる。

「ほとんど引き上げが終わり、後方へ搬送が始まっております」

「……わかった」

 別にその辺に山積みにしておけばいいのに、と、アリナ・エーヴァはちらりと思うが口には出さない。

 現実的で冷静であっても、残酷である必要はない。

 彼女よりも年少ではあるが、アリナ・エーヴァよりもずっと冷静な補佐役――ユホ・アーッテラ少尉が彼女に告げる言葉だ。

 ともすれば、すぐに暴走しがちな彼女を支え続けた。


 ――けれども、アリナ・エーヴァを含めた「彼ら」はまだ地獄がすぐそこまで迫っているのを知らなかった。

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