第37話:犯人Side
洞窟の奥、岩壁に切り取られた闇は、入り口から差し込むテラスの光を拒絶するように深く、重く淀んでいた。
外の賑やかな輝きは、ここではかえって不気味な影を際立たせる逆光となり、岩肌を複雑に炙り出す。
その淡い反射に浮かび上がる二人の影は、まるで逃れられぬ業に縛られた怪物が蠢いているかのように壁面を這い回り、不吉に揺らめいていた。
「……準備は、いいかしら」
透明感のある声。だが、今の俺にとってその声は、深淵へと誘う冷徹な「命令」に他ならなかった。
声の主は、黒い液体の入った小さな器を凝視している。その瞳は、逆光の中で怪しく光り、一切の感情を読み取らせない。
「ああ。やるしかないんだろう?」
俺の声も、自分でも驚くほど低く、掠れていた。
「ふふ、そんな顔をしないで。あなたにだって、守りたいものがあるのでしょう?」
そいつは、俺の背後に音もなく忍び寄り、耳元でささやいた。
守りたいもの。俺の脳裏には、渇望して止まない平穏な日々が浮かぶ。
それを維持するために、俺は指先一つで容易く踊らされる。意志を剥奪された操り人形――それが、今の俺に相応しい役割なのだと自嘲する。たとえそれが、一人の男の運命を根底から狂わせる行為だとしてもだ。
「……俺は、君の言う通りにするだけだ」
「ええ。一滴たりとも無駄にはできないわ。これ一杯で、あの標的の『運命』は書き換えられる。もう二度と、元の自分には戻れないわ⋯⋯」
薄く笑みを浮かべて、そう告げた。
入り口から差し込む一筋の光が、黒い液体に反射した。
俺たちの関係は、支配者と、糸に引かれるまま手を汚す傀儡。
その歪な関係性が、今の俺たちには最も相応しい気がした。
俺は小さな器を手に取り、標的の待つテラスへと一歩を踏み出した。もう後戻りすることは許されない。
◆◇◆
――時は数分前へと遡る。
「彼には、強くなってもらいたいのよ」
テラスでオルドランの話を聞いていたヒーが、俺を連れ出して洞窟へと戻ってきた時のことだ。
「……えっ? あ、ああ。そうだな、オルドランさんには強くなってほしいっていうのは、俺も同感だけど⋯⋯」
騎士団長という重責を背負いながら、団員の安全も守るには、自身の力が不足していることを嘆いていた。彼の誠実な告白を聞いた後だけに、ヒーの言葉には重みがあった。
「だから提案なんだけど、この黒いエキスに私の魔力を入れて、オルドランに飲ませようと思うの。通常のエキスではなくて、今回は私の生命を、少しだけ彼に分け与えようと思っているわ。分かりやすく言うなら、私のレベルを彼に移すって感じかしら」
「それは⋯⋯ヒーのレベルが下がる分、オルドランさんのレベルが上がるってことか?」
驚いて聞き返した俺に、ヒーは事も無げに頷いた。この世界において、経験によるレベルは、血肉そのもののはずだ。それを他人に譲渡するなど、通常はあり得ないはずだ。
「ええ。私の魔力の根源を直接彼に譲渡するわけだから、私のレベルは下がるわ。でも、彼ならその力を、私利私欲ではなく、誰かを守るために正しく使ってくれるはずよ」
「そんなことして、ヒーは大丈夫なのか? 自分の力を削ることになるんだろう?」
思わず心配になる俺に対し、ヒーは自信に満ちた、どこか神々しさすら感じる笑みを浮かべて言い切った。
「大丈夫よ、ヤマダ。心配してくれてありがとう。でも、その程度で私の力が揺らぐことはないわ。何より、彼が人々を救うための盾になれるなら、私のレベルなんて安いものよ」
「そうか。ヒーが大丈夫なら、俺はそれを信じるよ」
彼女の懐の深さに感服する。俺にできるのは、その「力」を最も効果的に届けることだけだ。
「ところで、オルドランさんの方は大丈夫かな? そんな力を体内に急に取り込んでしまってさ」
「うーん、まあ、人間のことは詳しく分からないけど⋯⋯。彼ならきっと、大丈夫よ!」
「なんだか心配だな⋯⋯」
まあ、力を分け与えるのだから基本的に大丈夫なんだろう。その点については、ヒーを信じることにした。
「今さらだけど、絵面的には、コーヒーに毒を盛って飲ませる計画を話し合ってるようにしか見えないな⋯⋯」
俺のツッコミに、ヒーは心外そうに頬を膨らませた。
「失礼ね! このヒュギエイア様の魔力よ? 毒どころか、これ以上ないほどの聖なる加護よ。……でも、言われてみれば、確かに悪巧みに見えるわね。ふふ、なんだか楽しくなってきたわ」
「楽しむなって言いたいところだけど、正直、俺も同じ気持ちだ」
オルドランが、これで真の最強騎士になってくれれば、他の騎士団員だけでなく、この国の人々も、そして俺たちのスローライフも安泰になる。漆黒の竜だろうがなんだろうが、彼に任せておけば大丈夫となれば、きっと俺たちは快適に日々を過ごすことができるはずだ。
「少しずつ液体を飲まれると、異変に気付いてしまうリスクもあるよな。それを考えると、一気に飲んでもらう必要があるかもな」
「ええ、それが理想的だわ」
「うーん、通常の量だと、飲んでる最中で気づかれるかもしれないよな……。そうだ、『エスプレッソ』だ」
「それは?」
「濃縮したエキスを、少量の分量で頂く飲み方と言ったらいいかな。俺の故郷の流儀だと言って、少量の一杯を、一滴残らず飲ませるのはどうだろう?」
「いいわね、それで行きましょう!」
二人で計画をしているうちに、なんだか本当に悪巧みをしているみたいだなと思った。自然と、俺の頭の中はすっかりミステリーな気分になってきた。昔読んだ小説は、どんな感じだったかな。俺は、いい加減な記憶を引っ張り出していた。
◆◇◆
――そして、再び現在。
俺は少量のカップを持ってテラスへと戻ってきた。
オルドランは、このテラスのひとときを楽しんでいるようだった。
俺は会社員時代の営業スマイルで、小さなカップを差し出した。
「オルドランさん。お待たせしました。実は私たちからプレゼントがあります。日頃の感謝を込めた、私たちからの特別な一杯です」
「おお、今日はずいぶんと小さな器だな? ヤマダ殿、これはいったい⋯⋯?」
「これは私の故郷では『エスプレッソ』という飲み方なんです。少量ですが、黒いエキスを凝縮したもので特別な飲み方なんです。非常に濃厚ですので、どうか、冷めないうちに一口で、グイッと一滴残らず飲み干してください。それがこの飲み方の『作法』ですので!」
俺は、自分の目が泳いでいないことを祈りながら言い切った。怪しさ満点の説明だ。
オルドランは、その澄んだ誠実な瞳で、真っ直ぐに俺を見つめた。その信頼に満ちた視線が、俺の罪悪感をチクチクと刺す。
「ヤマダ殿……。私のためにそこまで想ってくださるとは。その心遣い、痛み入る! その想い、確かに受け取った!」
(ああ、そんな純粋な目で俺を見ないでくれ……!)
俺の内心の葛藤をよそに、オルドランは躊躇なくカップを手に取った。
そして、その漆黒の液体を一気に口へと運んだ。
運命の一杯が、王国最強の騎士の体内へと滑り落ちていった。




