【第92話】後輩たちの視線
新学期が本格的に始まり、昼休みの廊下には少しずつ慌ただしさが戻ってきた。
寒さはまだ残っているが、校舎の空気には、どこか新しい気配が漂っていた。
書道室にも、少しずつ「次代の気配」が増えてきている。
二年生の部員たち――山根、結子、伊藤、小林――それぞれが、三年生の背中を見ながら、自分たちの“次”を探っていた。
その日、あすか・志津香・真理子は遅れて書道室に入ると、すでに後輩たちが各机で黙々と練習しているのを見て、少し驚いた。
「おっ、えらいやん、もう始めてたんか」
あすかが明るく声をかけると、後輩たちははっと顔を上げ、どこか緊張したように立ち上がった。
「す、すみません……先にやってました」
「ええよええよ。自由に使ってええんやし」
そう言いながら、あすかは自分の筆箱を机に置いた。
少しして、志津香がふと気づいたように言った。
「……なんか、変わった?」
「え?」
「みんなの線。去年よりずっと、力がある」
その言葉に、後輩たちは少し照れたように笑った。
「志津香先輩が“筆を止める理由を考えてみて”って言ってくれたじゃないですか。
それから、自分の線に“動き”があるかどうか、気にするようになったんです」
山根がそう言って、紙を一枚広げる。
志津香は、静かにうなずいた。
真理子も、後輩たちのノートを一冊ずつ手に取って、目を通していく。
字のかたちや線の重なりに、それぞれの“成長の跡”が刻まれていた。
そして、ふと自分の一年生のころを思い出す。
あの頃、自分はこんなふうに先輩の背中を見ていただろうか――。
「なあ、結子」
あすかが声をかける。
「うちら三人、どんなふうに見えてる?」
結子は、少し驚いたように口を開いた。
「……近寄りがたかったです。正直。最初は。
でも今は、憧れとか、尊敬とか……それだけじゃなくて、
“こんなふうに悩んで、書いてるんだな”って、思えるようになりました」
その言葉に、三人とも一瞬黙る。
志津香が、低く呟くように言った。
「背中って……見られてるんだね。思ってたより、ずっと近くで」
真理子は、うなずいた。
「私たちも、誰かの背中を見て、ここに来た。……そうだよね」
そして、あすかが笑った。
「そんなん言われたら、もう、格好つけるしかあらへんな!」
後輩たちの笑い声が、書道室に柔らかく響いた。
筆の音が戻る。
紙の上で、線と線が重なり合い、音にならない会話が始まる。
教えるでも、導くでもない。
ただ、「在る姿」を見せることが、何よりの“継承”なのだと、三人は少しずつ実感していく。
そして――
紙の端に、後輩の一人が小さく書き残していた。
「目指したいのは、背中」
その言葉は、誰にも気づかれなかった。
けれど確かに、紙に書かれ、そこにあった。




