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筆の軌跡 **「未」**  作者: 南蛇井


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【第88話】あすか、初めての敗北宣言

冬の空は、朝から重たい雲を垂らしていた。

 雨か雪か、分からない湿った空気が校舎の中まで染みこんでくる。


 


 放課後の書道室。

 あすかは、ずっと一枚の紙を前にして動けずにいた。


 


 墨はすってある。筆も持っている。けれど、書けない。


 


 「書こうとすると、手が止まる。……どうしても、線が浮かばへん」


 


 あすかは、ひとりごとのように言った。


 近くには、志津香と真理子がいた。

 二人も、自分の筆を止めて、そっと彼女の横顔を見守っている。


 


 あすかは笑った。いつものように――けれど、どこか空白を抱えた笑みだった。


 


 「うちはずっと、“豪快”が武器やった。迷ったら書く、悩んだら筆を振る。

  それでなんとかしてきた。でもな……あかんねん、今回は」


 


 ゆっくりと筆を紙に下ろす。

 書こうとしたが、線は途中で止まり、紙の上で震えただけだった。


 


 「怖いんよ、自分の線が。

  あんなに自信あったはずやのに、今は、何書いても“薄い”気がして……」


 


 真理子がそっと言った。


 


 「うん、それ、分かる。私も書けなかった時期、同じだった」


 


 あすかは首を横に振る。


 


 「でもな、うちは、ずっと“止まらへん子”でおった。

  志津香が静かで理知的で、真理子がこつこつタイプで、うちは“熱さ”担当。

  ……そやから、止まるのが怖かった」


 


 彼女は、息をのむように言葉を継いだ。


 


 「せやけど――うち、今の自分には、書かれへん。

  誰よりも力強い線を書くって自信、もう持たれへん」


 


 筆を置き、顔を上げる。


 


 「……だから、言うわ。うち、負けたんやと思う」


 


 部屋に静けさが降りた。

 雨粒が、遠くの窓を叩いていた。


 


 「負けるの、いややった。認めるの、もっといややった。

  でも、今の自分がどれだけ“未完成”か、分かってしもた」


 


 志津香がそっと、筆を置いて隣に座った。


 


 「……未完成って、成長の途中ってことだよ」

 「それに、“負けた”って言えるのって、すごいこと。私はそんなふうに、自分に言えなかったから」


 


 あすかは、ぽつりと笑った。


 


 「……負けたって言うたら、ちょっとだけ、肩の力が抜けた気ぃする」


 


 真理子が、そっと声を添える。


 


 「負けを知らない人より、負けたことを認めて立ち上がった人の方が、きっと強いよ」


 


 あすかは、しばらく黙っていた。

 そして、小さくうなずく。


 


 「……書いてみるわ。勝とうとせんでいい。負けたうえで、何か残したい」


 


 彼女は、筆を取り直し、深く息を吸って――

 紙の中央に、一文字だけ書いた。


 


 「欠」


 


 完璧じゃない。

 足りないところばっかり。

 でも、それも“自分”だと受け入れたあとの一筆だった。


 


 志津香と真理子は、何も言わず、うなずいた。


 


 書道室に流れる静かな時間。

 雨の音さえも、祝福のように聞こえた。

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