【第49話】筆を預ける覚悟
代表作品が決まった日の夜。
山下真理子は、自分のノートを開いたまま、ずっと机に向かっていた。
ページの左端には、先日書いた〈継〉の文字。
もう、甲子園に出すことはない一枚。
それでも、破ることができなかった。
(悔しい、わけじゃない。けど……なんでこんなに、ぽっかりするんだろう)
一方で、佐々木志津香は書道室で、一人ペンを洗っていた。
隣の棚には、あすかの〈在〉が収められている。
――あの字を「いい」と思ったのは、嘘じゃない。
けれど、もしあの字が自分の書いたものだったらと、ふと考えてしまった瞬間が、確かにあった。
(譲ったんじゃない。任せたんだ)
(それでも、“譲りたくなかった”気持ちが、自分の中にある)
志津香は筆先をそっと拭きながら、自分の胸の中のざらつきを受け入れようとした。
翌日の昼休み。
あすかは屋上にいた。
紙コップのココアを飲みながら、空を見上げていた。
(うちの字を出すって、そう決まったけど……ホンマにこれでよかったんかな)
(二人の方が、うまいんじゃないかって、やっぱりちょっと思ってる)
風が制服の袖を揺らす。
そんなとき、志津香と真理子がやってきた。
「こんなところにいたんだ」
真理子が声をかける。
「サボりじゃないよ。ちょっと風、当たりたくなって」
あすかが笑いながら言うと、二人も隣に並んだ。
しばらく、三人は何も言わずに空を見上げた。
やがて志津香が、ぽつりと口を開いた。
「……ちょっとだけ悔しかった」
「え?」
「でも、それって、あすかの字が本当に“いい”と思った証拠だと思う。
本当にダメだったら、悔しくもならないから」
真理子も小さくうなずいた。
「私も、出してみたかった。でも、今は、“託せてよかった”って思える」
「……二人とも」
あすかは、息を飲んだ。
「うちは……うちは、二人がいたから、この〈在〉が書けたんだよ。
だから、出すのは“うちの字”やけど、これは“三人の書”なんだと思ってる」
「それでいい」
「それがいい」
“自分じゃない誰かに、代表を託す”。
それは、ただの選出ではない。
信頼と覚悟、そして、見えない痛みの上に成り立つ選択だった。
でも三人は、ちゃんとそれを口にし合えた。
数日後、提出された〈在〉が封筒に納められた。
名前は“天童あすか”。
けれど、その隣に、三人の名前が記された用紙が、しっかりと添えられていた。
それは、たしかに“三人の作品”だった。




